黒いコーヒーのそばの、黄色い小さな三日月
「お土産だよ」
冷めかけたコーヒーを相棒に、大学の計測室で表計算ソフトに実験データを打ち込んでいた僕の前に、彼女が立った。
仙台銘菓『萩の月』を手渡した彼女は、伏し目がちな僕の視線に気付くと、目を逸らす。
「……聞かないんだ」数秒の沈黙の後に彼女は呟く「旅行、誰と行ったのか」
「あぁ」
僕は短く唸った。
* * *
僕達はお互いに片想いだった。
地元に想い人のいる僕と彼女は、友人を通じた飲みの席で知り合い、叶わぬ恋の話で意気投合した。
夕暮れの305小講義室。
それからの僕らは、切ない夜を歌った楽曲を紹介し合い、恋愛の成就を描いた漫画や小説を交換しあった。
ひとしきり話し終えるといつも宵の口で、僕と彼女は大学から駅へと向かう薄暗い道を、街灯の落とす明かりを辿る様にして、ゆっくりと歩いた。
空にはいつも黄色い月が輝く。
それはゆっくりと膨らみ、同じようにゆっくりと細っていく。これから産まれる生き物の、呼吸のように、鼓動のように。
月の引力は潮を満たす。
僕の心もまた、口から溢れる言葉とは違った、温かな感情で満たされていく。
片思いの切なさを口にしながらも、月に見つめられながら彼女と辿るこの帰路に、僕の心は安らぎを覚え、愛しさを積み上げていった。
その日は、三日月だった。
「彼に、告白されたよ」
想い人に振り向いてもらえた彼女は、言葉とは裏腹の切ない表情を見せた。
「そっか、おめでとう」
言って、僕は笑った。
無理やり作った笑顔を、街灯が照らす。
「そうだよね。ありがと」
彼女は淡々と答えて、僕の顔から目を逸らし、三日月を見上げた。
* * *
「誰と、行ったの?」
湯気の消えたコーヒーに視線を落として、僕は訊ねた。
彼女はしばらく何も答えず、無言が小さな計測室を満たしていく。その名残惜しい生温さに蓋をするように、彼女は「彼氏……」と答えた。
大きく波打つ僕の心などお構いなしに、コーヒーは波一つ立てず黒い沈黙を漂う。
彼女が去った後、テーブルに置かれた『萩の月』を手に取る。当然ながら、そこに彼女の温もりは無い。
僕は包装を剥がし、現れた小さな月を一口齧った。口の中に優しい甘みが広がる。
包装を敷いた上に、食べかけの『萩の月』を座らせた。
欠けた、小さな三日月が僕を見ている。
あの日と同じ三日月。
何だかやるせなくなって、僕は食べかけのそれを、一気に口の中へと放り込んだ。
そして、徐々に失われていく甘みの余韻を味わうように、僕は目を閉じた。