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小説は「奇」であるべきか?

作者: 天海波平

なんとなく思ったことのエッセイです。



 小説より奇なり


 この言葉、聞いたことあると思います。

 ここで使う「奇」というこの文字は「奇怪」や「奇妙」と言った意味合いがそのウエイトを占めていると思われます。

 ですが、私は「奇抜」や「奇跡」とかでも間違いではないよなぁなどと勝手に思っています。

 まぁ、それはともかく「奇」です。


 冒頭の言葉の主語を言えば「現実」かと思ったら「事実」みたいですね。

 「現実は小説より奇なり」ではなく、「事実は小説よりも奇なり」が正しいようです。


 どうも昔から物覚えが悪くて、それがここでも出ていたようです。

 子供の頃、「マナ板」のことを「ナマ板」と言っていたのを思い出してしまいました。

 まぁでも世の中には「ブロッコリー」を「ブッコロリー」と呼んでいた人もいるらしいので、それに比べれば私のは可愛いもんです。


 話を戻しますが、「現実」でも別に間違いでは無いだろうと思っているんですよ。

 フィクションとノンフィクションという分類が小説にありますが、フィクションの作品が事実と違っていたり、逆にノンフィクションの作品が「嘘から出た誠」の如く事実となるケースもになったりして、正に現実こそが「奇」なりです。


 それに、この世の中には実証する事が難しく、理解出来ないことは幾つもあります。

 神、宇宙人、幽霊、と言った存在。

 天国や地獄、あるいは畜生界や餓鬼界と言った死後の世界。

 量子力学などのミクロの世界の(ことわり)や宇宙の誕生とその広がりの行き着く先。

 深海に棲む未知の生物や過去に存在していた古代生物の生態。

 などなど……


 これだけ科学が発展してもなお、世の中にはわからない事がいっぱいあります。

 科学をもって世界を立証している割合は5%ほどだという科学者がいるぐらいに、未だ世界は謎に満ちているわけです。

 ですので世の中は摩訶不思議な「奇」で溢れていると言って良いと思います。

 

 さて、そう考えると冒頭の「小説よりも奇なり」というこの言葉は、次のように言い換えれるのではないでしょうか。

 

「奇」で溢れたこの世界の事実は小説よりも奇なり

 

 どうです?

 そうなると、小説はどう足掻いても「奇」から抜け出す事は出来ず、「奇をてらう」必要などないと言えますよね。

 だって世の中に「奇」が溢れんばかりに存在するのが「当たり前」なのですから、世の中の事象の5%ぐらいしか認識していない人間の書く小説が、どんなに頭をひねったところで世の中に溢れる「奇」から抜け出すのはほぼ不可能に思えます。

 ですから逆説的に「奇をてらさないこと」が小説の本質と言っても良いのかもしれません。


 小説ではありませんが、世界に有名な漫画「ドラゴンボール」はファンタジーの物語です。

 ですが、この作品の「フリーザ編」はその当時の現実で起こっている事柄をモチーフに作られています。

 その当時では「地上げ屋」というものが社会問題になっていました。

 ある星を暴力まがいに奪い取るフリーザと地上げ屋を同列に見立てた社会風刺の作品であったと言えると思います。

 その意味において、この作品は世の中の当たり前に起こっている事柄をファンタジーの世界に置き換えただけと言えます。


 また、SF映画の大作「スターウォーズ」の脚本を読んだ、ある俳優(※)は「ああ、これは古典的な騎士の物語だな」と思ったそうです。(※俳優かどうか失念してます)

 宇宙世界を背景にしたフィクション映画ではあるものの、その物語の本質は王道で当たり前にある「騎士がお姫様を助ける物語」という訳です。

 

 ですから小説を書くにおいて、大事な事は「当たり前」を多く持っている事なんだろうと思っています。

 現実をどれだけ正確に幅広く捉えているか、それだけであなたの書く小説は力を持つと思います。


 そうは言ってもこれが結構難しいんですよね。

 今のマスメディアはスポンサーに忖度して必ずしも正しい情報を流しているわけではないので、私たちは知らずのうちに誘導されて「当たり前」ではない「明後日の方向」に向かっているかも知れません。

 かと言って自分が経験したことだけを現実の全てだと勘違いしてしまうと、読者など他者から狭く浅い世界であると思われる可能性が高くなるでしょう。


 ですから、このサイトのエッセイのなど、特に時事ネタを扱う時は気をつけるべきとは思います。

(※思うけど出来るとは言っていない)


 このような事を言うと、もしかしたら萎縮してしまう作者の方がいるかも知れません。

 ですが、萎縮することはありません。

 今のご時世何かと「論破」なる言葉を使いたがる風潮があり、議論の場で対立しがちのようですが、議論とは対立する意見をぶつけてどちらが正解あるいは間違いかを決めるだけのものではなく、お互いの優れた点と問題点を出し合い、双方のバランスをとって妥協点を探る事を目的とする事が議論のあり方ではないでしょうか?

 ですから「相手を論破せしめよう」ではなく「自分とは違う、この様な意見もあるのだな」という姿勢で受け止めることの方が大事だと思います。


 最近の話題で「市街地に現れた熊を処分すべきか」の話題でも色々な意見が出ていますよね。

 私は基本的に先に言ったように二極論争という形になるのはおかしいと思っています。

 どちらにも言い分はあるし、その両方に問題も含まれるものなんです。

 その問題をお互いが言い合う事で何らかの解決法が浮かび上がれば「良し」なんですが、なんか今の議論は「どっちが正しいのか?」の論争になっていますよね。

 熊を殺処分するしない以前に「なぜ熊が頻繁に出没する様になったのか?」という事が本質であり、「莫大なソーラーパネルの設置が熊の生息地域を狭めている事が出没の原因ではないか」といった意見こそが私には重要に思えます。

 TVではそれをあまり報道しませんけどね。

 じゃあ何故それを報道しないのかと言うと「奇」なのでしょうね。

 この場合は「奇妙」か「奇怪」かそれに類似するものでしょうけど。


 ちょっと話が逸れました。

 いや…… このエッセイのタイトルからしたら正しいような…… まぁいいや。


 とにかく、私たちは冷静に「当たり前」に「物事の本質」を知る事が大事であって、「奇」に振り回されてしまってはダメだという事です。

 

 小説を書くにしろ、議論するにしろ、それが基本であるべきではないでしょうか?

 これはあらゆる分野で当てはまると思います。


 自分の書くエッセイは語弊が多く物事を端折って書くことが多いので、これまでの話の中ですでに誤解を生んでいるかも知れませんが、私は「奇をてらうな」と言っているのではありません。


 「当たり前」を知らないと、何が「当たり前」で何が「奇」なのかの判断もままならなくなり、本人は「奇をてらった」つもりでも「普通」に思われてしまうか、全く理解されなくなる。

 その様に思うんです。

 では、「当たり前」をどのように知れば良いのでしょうか?

 私は「日常」や「自然に思ったこと」などを日記のように「普通」に書いていけば良いんじゃないかと思っています。

 その中には読者から異なる意見をいわれたり、変だと思われるものもあるでしょう。

 でもそれが「当たり前」だと思っています。

 そしてそれが自分に「変化」をもたらしてくれる「奇跡」だと思うことにしています。

 すると私が書くこのエッセイもまた「奇」をはらむ作品になろうかと思います。

 

 以上のことから、このエッセイの結論と致しましては「小説を書くにあたり、奇をてらう必要はない」とさせていただきます。

普通って何だ?


こう思ったことのある人は普通だと思う。

そして「奇」でもある。


だから、あなたも私も「奇人」だ!

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