#097 身内を探るだけの簡単なお仕事
今回もよろしくお願い致します。
天文24年(西暦1555年)6月 駿府館
河東造船の創設に関する最終調整を終え、駿府館に帰って来てから数日後、屋敷に珍しい来客があった。今川家の有力家臣にして太助丸兄者の後見人、関口刑部少輔殿である。
要件は、間も無く私の輿入れから一年という区切りに、関口殿の屋敷で開く祝宴に招待したい、との事だった。
それだけなら、私も五郎殿もすんなり受け入れられたのだが、案の定と言うべきか、今回のお誘いにも何かしらの意図が見え隠れしていた。と言うのも、関口殿が会談中に、やや強引に昨年の『駿府館御前試合五番勝負』に話題を持って行ったり、謙遜と言うにもはばかられるレベルで実の娘である瀬名殿をこき下ろしたりと、不自然な言動が目立ったからだ。
小田原で、そして駿府で、『大人の会話術』を勉強した私は関口殿の意図を概ね察し、困惑した。
『関口殿はお祝いの席で、自分の娘が糾弾される事を望んでいる。』
どうして自分の娘をつらい目に遭わせようとするのか、疑問を抱えたまま、週一のお稽古のため訪れた寿桂様の屋敷で、私は更なる驚愕に見舞われた。
「今日はお稽古はお休みにしましょう。あなたとお話したい事があります。お茶を点てますから、どうぞいらっしゃい。」
いつもと同じ仏頂面に、どことなく緊張感を漂わせる寿桂様についていくと、片隅で茶釜が湯気を噴き上げる一室に通された。下座に腰掛け、寿桂様がお茶を淹れてくれるのを待つ。
「関口刑部少輔殿の心中、あなたはどうお思いかしら?」
寿桂様の質問に、私は一連の出来事の背後に何らかの繋がりがある事を察した。
寿桂様は『私がどこまで分かっているか』、それを確認しようとしている。
私は『二人が私に何をさせようとしているのか』、それを確かめなければならない。
「刑部少輔殿は瀬名殿の事で頭を悩ませておいでのようです。されど、何がどのように、とまでは…。私に何かお役に立てる事がございましょうか?」
寿桂様は茶碗の中身をかき回す手を止めると、静かに茶筅を抜き取り、出来立てのお茶を私に差し出した。
「まずは一杯。…この件、あなたに任せるべきか、幾分迷いました。ですが、わたくしは老い先短く、いずれは今川の奥向き一切をあなたが差配しなければなりません。いつまでも先延ばしには出来ないだろう、と…時に、あなたは大名の正妻の役目を、何と心得ておいで?」
寿桂様が点てたお茶を一口含み、ほろ苦い味をじっくり味わってから飲み込む。
そして、かつて母上から聞かされた『正妻の役目』を思い起こし、口に出した。
「夫となった殿方の子を産む事。そして、妾やその子供達、『皆の母』となって、奥の間を平らかに保つ事と承知しております。」
正直、前者はともかく、後者の方は出来るかどうか怪しい所だ。要するに、五郎殿の二号さんや三号さんをイジメたりせず、自分のお腹を痛めて産んだ子じゃなくても、五郎殿の子として大切に育てなきゃならない、という事だからだ。母上みたいに度量が大きくないと、到底出来る気がしない。
不幸中の幸いと言うべきか、今川ではよその大名家に比べて、当主が複数の女性と肉体関係を結ぶ事は歓迎されていないらしい。加えて、結婚してこのかた、五郎殿が別の女性とお付き合いしている様子も無いから、まだ見ぬライバルを警戒する必要は今の所無いだろう。
いずれ私が…その、子供を産める体になって、五郎殿と、その…『そういう事』をしても一向に子供が出来ない場合は、むしろ私から二号さんを探さなければならないかも知れないが。
「…よいでしょう。では、刑部少輔殿の頼み事について改めて教えます。」
意識が半分飛びかけていた私は、寿桂様の言葉に、我に返った。
「長女にして、松平竹千代殿の許嫁である瀬名殿の行状を改めさせてほしい…それが刑部少輔殿の願いです。」
「瀬名殿の行状を…?」
「関口刑部少輔家は、今川の中でも格式高く、太守様が頼みにされている家の一つです。そこに悩み事の種があるとなれば、一刻も早く取り除き、家中の安寧を保たねばなりません。」
つまり、関口家のプライベートでのトラブルが、公務に悪影響を及ぼす前に解決せよ、という訳だ。
問題は、瀬名殿の行状とやらを、私がロクに知らないという点にあるのだが…。
「恐れながら、瀬名殿の行状とは、どのような…。」
「…これも、いずれはあなた自身の手で取り扱うべき事なのですが…。」
寿桂様はためらいがちに、体の陰に隠すように置いてあった木箱を手に取り、私の前に置いて開いた。中には、バラバラの字体で書かれた書状が何枚も折り重なっていた。
「瀬名殿の行状について、家中領民から寄せられた苦言の数々です。中には当て付け、言い掛かりもあるでしょうが…全て根も葉も無いという事は無いでしょう。」
「拝見しても、よろしゅうございますか?」
「無論です。そのために用意させたのですから。」
未だ中身の残る茶碗を脇に置いて、私は書状を手に取った。
一通り書状に目を通し終えて、私は冷めたお茶を静かにすすった。
内容は概ね把握した。問題は大きく分けて四つだ。
一つ目、関口邸周辺の治安の悪さ。
飢餓や戦で村を追われた農民や、家賃が払えなくなった町人など、多数の無宿人が屋敷の周りに住み着いており、通りがかったお公家様や武士、近所の飲食店とトラブルを引き起こしている。形勢が悪いと見るや、関口邸に逃げ込んでしまうというからなお悪い。
二つ目、怪しいお坊さんへの献金。
これは駿河でも由緒ある寺院からの訴えで、瀬名殿に寄進の催促をした所、もう別のお坊さんに世話になっているからと断られたのだそうだ。そのお坊さんは出自が曖昧で、おまけに関口邸の周りに住み着いた無宿人達に怪しげな説法をしているので、懲らしめてほしい、というのが、寺院側の主張だ。
三つ目、竹千代殿に十分な食事を与えていないのではないかという疑惑。
これは今川家中の若武者達の証言によるものだ。剣術の稽古中に声が弱弱しいとか、木刀を振る時にフラフラしているとか、座学でも集中を欠いているとか、状況証拠が盛りだくさんである。
四つ目、関口邸の侍女、使用人の離職率の異様な高さ。
毎月のように誰かしら辞めており、関口邸は年間を通して求職状態らしい。私も去年の輿入れ以来、やむを得ない事情でクビにした侍女や使用人が数人、いるにはいるが、関口邸とは比べ物にならない。加えて、関口邸を辞した人のほとんどが女性と来れば、尚更背後に何かあるのではないかと勘ぐってしまう。
「いかがですか。あなたの手に負えないようであれば、わたくしが仕置を言い渡しても良いのですが。」
「…と申されましても、誰が真の事を申しておりますやら…。」
答え欲しさに上目遣いで寿桂様の様子を窺うと、厳しい眼差しが返ってきた。
「それを調べるのも、あなたの務めです。…よいですか、いつ、誰に聞いても、常に正しい答えが返って来るとは限りません。それでも、進んで俗世の噂や下人の悪口雑言に耳を傾け、真の所を突き止めなければなりません。虚報や讒言に惑わされる事なく…その上で、家中に仕置を下さねば。」
寿桂様から課せられたミッションの難易度の高さに、私は思わず尻込みした。
関係者の証言や町民の噂話を率先して収集し、推測や偏見を取り除いて、実情を探らなければならない。その上で――場合によっては――関口家の人々に何らかの処罰を下さなければならないのだ。
関口殿、瀬名殿、竹千代殿…私より立場が低いというだけで、年上の人達に。
…そんな事をする資格が、私にあるのだろうか。あったとして、出来るのだろうか。
うつむいた私の目に入ったのは、腰帯に差した愛刀――北条氏康から賜った短刀、『東条源九郎』だった。
その瞬間、およそ一年前に父上に言われた言葉が、私の脳裏をよぎった。
『全力でぶつかって負かして来い!』
そうだ、五郎殿の妻になるという事は、いずれは今川家当主の妻になるという事だ。
私が嫌がろうが、耳をふさごうが、問題は厳然として存在し続ける。
こうして寿桂様がサポートしてくれている内に、チャレンジしておくべきなんだ。
「かしこまりました。関口殿の屋敷にお伺いする前に輿論を検め、瀬名殿を始めとした方々の言い分を聞いた上で、正邪を明らかに致します。」
平伏しながら答えると、寿桂様が一瞬息を吞む気配がした。
「…その心意気、天晴れです。此度の仕置については、一切の責をわたくしが負いましょう。思う通りになさい。」
「望外のお言葉、恐悦至極に存じます。」
寿桂様から一応の保険を取り付けた私は、およそひと月後に迫った関口邸訪問に備えて、調査を行う段取りを、頭の中で整えていった。
西日が差し込む部屋の奥で、寿桂は一人、茶道具を前に腰掛け、物思いにふけっていた。
「御免。二之丸七緒、参上仕りましてございます。」
いつの間にか軒先に跪いていた町人風の女の声に、寿桂は顔を上げた。
「ご苦労様。関口邸の様子に変わりはなくって?」
「はっ、無宿人どもがそこここに小屋を建て、与えられる飯や銭を当てにして日がな一日働きもせず。昨日など、からかった不届き者を成敗せんと押し掛けた侍と、関口邸の警固役が押し問答に…一刻も早く沙汰を下されるべきかと。」
押し黙ったままの寿桂に、女は僅かににじり寄った。
「既に件の坊主が尾張にゆかりがあるとの調べはついております。お命じくだされば、今すぐにでも…。」
「お待ちなさい。」
寿桂の刺すような視線に、女はたじろいだ。
「…そなたの申す通り、即刻無宿人どもを蹴散らし、坊主を捕らえるのが最善やも知れません。されど…わたくしにはもう一つ、確かめたい事があります。あの子が…いずれわたくしに代わって今川を支えるあの子が、いかなる沙汰を申し渡すのか。」
『表の顔』としての判断を優先するという寿桂の発言に、女はうつむくと、一瞬唇を噛んだ。だが、再び顔を上げた時には、先ほどまでの無表情に戻っていた。
「…承知仕りました。引き続き、関口刑部少輔殿の屋敷と、件の坊主は見張りに留めます。」
「頼みましたよ。」
女は寿桂に改めて一礼すると、音もなく姿を消した。
いつしか日が傾き、どこからか寺の鐘の音が聞こえる中、寿桂は誰もいない庭を、険しい目で見つめていた。
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