#096 知恵者の深読みは時に真相から最も遠い
今回もよろしくお願い致します。
天文24年(西暦1555年)6月 小田原城 謁見の間
「沼津に造船所を設ける商談、つつがなく終わりましてございます。諸々の証文をどうぞご覧いただきたく…。」
そう言って頭を下げたのは、沼津から戻ったばかりの外郎屋当主、宇野藤右衛門だった。隣には北条改め大石藤菊丸。二人の前、謁見の間の上座には、北条家現当主氏康と、その妻が並ぶ。
「二人共、はるばる駿東(駿河国東部)までご苦労だった。さっそく見させてもらうぜ。」
氏康の合図で、背後に控えていた近習が立ち上がり、藤右衛門の前に置かれていた書状の束を持ち上げると、向きを整え、氏康の前に進み出て跪き、差し出す。
受け取った氏康は無言で一枚一枚に目を通すと、一度大きく頷いた。
「これで駿河の商いに外郎屋が食い込む手筈は整った。思いっ切り稼いでやんな。ただ、折角塗った漆があっという間に剝がれちまうのも外聞が良くねえ。銭の分はきっちり仕事をしてやれ。船造りの手立てを北条の軍船にも活かせるよう、抜かりなくな。」
氏康が読み終えた書状を近習に突き出すと、受け取った近習は手際よく折り畳み、再度藤右衛門の前に運んでから、そっと床に置いた。
「仰せの通りに。今川水軍の黒船が使えるとなれば、北条でも黒船を取り入れられましょう。その折は、ぜひこの外郎屋をよろしく…。」
「万事うまく事が運びゃあな。安房の里見には手を焼いてる。ちったあ船軍が楽になりゃいいんだが…。」
「父上!来年には拙者も元服致しますれば、里見との戦にはぜひお連れくださいませ!」
勢い込む藤菊丸に、氏康の返答はつれないものだった。
「里見は小身の割に手強い。おめえの初陣には荷が勝ちすぎらぁ。それより、大石家中への根回しと、知行割の支度を万全にしとけ。」
どこか不満げに頷いた藤菊丸に代わって口を開いたのは、氏康の妻だった。
「時に、藤右衛門殿。結の…今川の若奥様の様子はいかがでしたか?」
その問いに、藤右衛門は片頬を吊り上げた。
「いやはや、輿入れより一年とはとても思えぬ堂々とした立ち居振る舞いでございました。此度の商談、若奥様の手助けなくしてとても立ち行きませんでした。」
藤右衛門の言葉に顔をほころばせる妻をよそに、氏康は扇子で膝を叩きながら藤菊丸を見据えた。
「藤菊丸。おめえはどう思った。外郎屋と友野屋の寄り合いに同席して、何か思う所は無えか。」
突然実父から質問された藤菊丸は、一瞬虚を突かれた表情を見せるや否や、両手で膝を打った。
「いや、ただただ感服しきりにございました!我が妹ながら何たる無欲、慈悲深い女子かと…!」
「外郎屋。」
藤菊丸の言葉を遮って氏康が扇子を向けた先には、上半身を僅かに震わせながら、片袖で口元を抑える藤右衛門の姿があった。
「何が可笑しいか、藤菊丸にとくと説いてやんな。主君の息子を笑った無礼、それで無かった事にしといてやる。」
「…これは、失礼致しました。非礼の段、平にお許しを…。」
一度深々と頭を下げた藤右衛門は、居住まいを正すと、戸惑う藤菊丸に向き直った。
「藤菊丸様。今川の若奥様が、真に損得勘定抜きであのような事を申されたとお思いで?」
「む、無論じゃ。それに、結が申した通り、沼津は寿桂殿の所領じゃ。株札を持つは寿桂殿が適任との事、筋が通っておる。」
藤菊丸の返答に、藤右衛門は首を数回横に振った。
「ではお伺いします。寿桂様は、今は亡き奥方様に代わり、今川の奥向きを差配しておられる。いずれ寿桂様が身罷られれば、その後を継ぐはどなたにございましょう。」
「それは無論、今川の若奥様となった結であろう。」
「左様にございます。されど、若奥様が引き継がれるは奥方様としての務めのみにあらず。寿桂様の所領も然りにございます…その中には、当然沼津も。」
目を見開いた藤菊丸の頬を、一筋の汗が伝い落ちた。
「では…では、結はそこまで見通して、寿桂様に株札を譲ったと?まさか…。」
「今川と北条が手を取り合う商談の大功をお譲りする事で、寿桂様の覚えを目出度くされた。万が一、『河東造船』が立ち行かなくなったとしても、株主ではない若奥様が責を負う事は無い。商いがつつがなく進めば――寿桂様亡き後、若奥様は労せずして株札を手に入れられる、という算段にございます。」
まさか、あの結が…。
藤菊丸が言葉にならない呻きを漏らす中、部屋に甲高い音が響き渡った。氏康が扇子で勢い良く片手の手の平を叩いた音だった。
「何のためにおめえを北条の名代として使いにやったと思う?…政の一端を学ばせるためだ。」
「かような…かような騙し合いが、政と申されますか!」
「聞け、大石藤菊丸。」
北条、と呼ばない実父に歯ぎしりする藤菊丸に構う事なく、氏康は続けた。
「おめえが北条に戻りたがってる事は重々承知してる。そのために手柄を焦ってるって事もな。だが、今のおめえにゃ北条の一門衆筆頭も、大石の家も任せられねぇ。」
「なにゆえにございますか!」
「今のおめえが一国一城の主の器じゃねえからだ。」
氏康の言葉に、藤菊丸は絶句した。次期当主である兄、新九郎には遠く及ばずとも、自分なりに文武の稽古に励んでいるという自負があったからだ。
「何が…何が足りないと仰せにございましょう。」
「手立ての使い分けだ。てめえは相手が誰だろうと武家の作法で話を通そうとしやがる。だが、一国一城の主となりゃあ話は別だ。…もしてめえの所領で百姓が一揆を組んで、年貢の減免を嘆願したとすりゃあ、どうする。」
「無論、一揆勢を撫で斬り(皆殺し)に…。」
「ほう、無人の村から年貢は上がって来ねえが、それでも構わねえってこったな?」
答えに窮する藤菊丸に、氏康は容赦なく畳み掛けた。
「急な戦で米が足りねえとする。商人から買い付けようと思やあ、足元を見て値を釣り上げて来やがった。さてどうする。」
「脅し付けて、安く米を買えば…。」
「そん時はそれでいい。だが、恐らくその商人はすぐに店を畳んで出て行くぜ。つまり、二度とおめえは商人を頼れなくなる。」
藤菊丸が黙り込むと、氏康は顔の険を少し緩め、鼻で息をついた。
「じゃあどうすりゃいいのか、って聞きてえだろうな。俺に言えるのは、答えは一つじゃねえってこった。」
「一つではない…?」
「百姓一揆には年貢減免を認めて、翌年多めに取り立てるって手もある。商人が米の値を釣り上げるなら、よそから買うと匂わせて値下げを誘うって手もある。…俺が言いてえのはな、強え弱え、勝った負けたで話が付くのは戦場の道理だ。侍大将で一生を終えるってんならそれでも構わねえ。だがな…。」
身を乗り出す氏康につられるように、藤菊丸は両手を握り締め、瞬きすら惜しんで父の目を見つめた。
「新九郎を支えてえってんなら、兵法だけじゃねえ、治世の法や談判の手立ても覚えとけ。そうして一国一城の主として功を積み重ねて行きゃあ…『北条』を名乗れる日が来るかも知れねえからな。」
氏康の言葉に目を潤ませた藤菊丸は、一度大きな音を立てて鼻をすすると、ぎこちない笑みを浮かべた。
「そ、それは…猪武者の息子を…おだてて、その気にさせる手立てに、ございましょうか…?」
「…くくっ、はっはっはっはっは‼」
珍しく大声で笑う氏康に、藤菊丸は何度も小さく頷いた。
「父上のお心遣い、確と承りましてございます。この上は一刻も早く、『大石家の当主として』恥じぬ武士となりますよう、稽古に励んで参ります。」
「おう、その意気だ。外郎屋、他に用事はあるか?…ねえなら下がってよし。」
氏康の許しを得て、藤菊丸は一礼するとすっくと立ち上がり、足早に部屋を出て行く。
外郎屋藤右衛門もまた、ゆったりとした動作で一礼して立ち上がり、底知れぬ微笑を顔に浮かべたまま、部屋を出て行ったのだった。
藤菊丸と藤右衛門が退出してからややあって。
「それで?結が先々まで見越して株札を母上(寿桂)にお譲りしたというのは、真なのですか?」
「いや、十中八九外郎屋の思い過ごしだ。」
どこか面白がるような妻の質問に、氏康はあっさりと答えた。
「こいつを見りゃ分かる。ひと月前の手紙だ。」
「あらあらまあまあ。ひと月前の手紙を後生大事に抱えてらっしゃるだなんて。」
「…あー、いや。これはその、なんだ。たまたまだ、たまたま。…いいからこいつを見やがれってんだ。」
誤魔化しながら氏康が広げたのは、結から送られた手紙だった。
今川の庇護下にある兄、太助丸が駿河の海に馴染んでいる様子や、駿河の海の幸を存分に味わうため屋敷の厨人に工夫を求めた結果、新しい調理法が発明された事などがつづられている。
問題はその末尾にあった。
「『今川と北条合力の事、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。』…他に比べて字が小せえ。しかも、結びの言葉の前にねじ込むみてえに書かれてやがる。」
「一通り書き終えた後に、書き漏らしに気づいて付け足した、という事でございますね。他の出来栄えが良かったために、書き直しを惜しんだのでしょうか。紙なら幾らでもありましたでしょうに、あの子らしい…。」
「最初っから株札を引き継ぐ積もりなら、こんな間抜けな事はしねえ。沼津が寿桂殿の所領だからってえのも、本音だろう。それでかえって野心があると思われるってのは、ある種の天分(才能)だな。」
一通り分析を終えると、氏康は娘の手紙を丁寧に畳んで懐にしまった。
「まあ、他人事のように…藤菊丸殿にあれほど厳しい事を仰っておいて…。」
「俺は結に野心があるとはいっぺんも言ってねえ。外郎屋が思い違いしただけだ。藤菊丸の説教に都合が良かったから、乗らせてもらったがな。」
氏康は先ほどまで藤菊丸が座っていた場所を見ながら、おもむろに口を開いた。
「考えたくもねえがよ…万が一新九郎(氏政)がくたばったら、次はお前がその名を引き継がなきゃならねえんだ。…猪武者で終わるんじゃねえぞ、藤菊丸。」
沈黙が支配する謁見の間に、遠くから、早鳴きの蝉の声が届いていた。
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