#093 今川水軍改装計画
今回もよろしくお願い致します。
「いやあ、さすがは若奥様!噂通り、気前が良くていらっしゃる!」
今川水軍筆頭格の重臣、岡部忠兵衛殿の大声に、私は曖昧に微笑んだ。
ここは忠兵衛殿の屋敷の客間、上座に私と五郎殿が並んで座り、下座に忠兵衛殿と太助丸兄者が並んで座っている。
ついさっきまで水軍衆の施設や軍船などを見て回り、幹部クラスの面々に太刀を、その家臣の皆さんに銭を下賜し、後は茶店一揆から呼んだ出張茶店のお茶やお菓子を好きなだけどうぞ、と言って引っ込んでから、改めて忠兵衛殿の屋敷に案内された所だ。食べ放題、と聞いた時の水軍衆の野太い歓声には、正直、喜ぶより恐怖心が先に立った。
忠兵衛殿を始め、丁重に案内しようという気概は伝わってくるのだが、磯の香りとむせ返るような汗の臭い、それに視界にチラチラ映り込むすね毛や褌が気になって、水軍の活動範囲は沖合より沿岸であることが普通だとか、軍船は手漕ぎボートみたいな『小早』とやや大型の『関船』の二種類だとか、断片的にしか頭に入って来なかった。
水軍衆が苦手なのは五郎殿も同様らしく、港を見て回る内に声に張りが無くなっていくのが私にも分かった。
「お礼の証として、次は我らのもてなしをお受けくだされ。」
そう言って忠兵衛殿が手を叩くと、膳が二つ部屋に運ばれて来て、私と五郎殿の前に置かれた。
「我らに出来る精一杯のもてなし…新鮮な鯛の切り身にございます。」
忠兵衛殿の言葉と、膳に置かれた皿に盛り付けられた鯛のお刺身の美しさに、私は思わず飛び上がる寸前だった。
このパラレル戦国時代、主に衛生上の理由から、生のお魚には滅多にお目にかかれない。越庵先生も、食中毒予防のため、広く一般で消費されている肉や魚をしっかり火を通してから食べるよう推奨しているとあっては尚更だ。冷蔵庫なんて便利なものが無い以上、私も特に異存は無かったのだが、それでもたまーに前世の記憶――安価な回転寿司やスーパーの寿司パック――を思い返して、少し寂しい思いをしていた事も事実だ。
それが今日!ついに!新鮮な海の幸を食べられる!
ウキウキしながら五郎殿の様子を窺うと、唇を真一文字に引き結んだ横顔が目に入る。
「味付けに酢と醬油をご用意致しました。お好きな小皿に浸してお召し上がり下され。」
忠兵衛殿の説明を聞きながら、私は五郎殿が今川水軍の視察に消極的だった理由の一端を悟った。五郎殿は生魚が苦手だったのだ。
宗教上の理由か何かで、小田原でも駿府でも、現代日本の肉のトップ3である牛肉、豚肉、鶏肉にはまずお目にかかれない。必然的に、五郎殿のタンパク質の源は、「可愛くない」鳥の肉や魚になるのだが、元来気が優しい五郎殿は、しっかり火を通したそれを、非常に申し訳なさそうに、しかし欠片も残さず食べてくれている。
そんな五郎殿にしてみれば、ついさっきまで生きていたであろう魚を生で食べるという行為には、非常に抵抗を感じるはずだ。
「こ、これは色鮮やかな…では、いただくとしようか、の。」
震え気味の五郎殿の言葉を合図に、箸を手に取り、鯛の切り身を一切れつまんで、まずはお酢に浸してから口に入れる。
や、柔らかい…!食感もプリプリだ…!
シャリが無いのが残念だが…いや、それより気になるのは五郎殿だ。忠兵衛殿に気取られないよう、そっと横目で様子を窺うと、何だか砂か泥でも食べたような顔付きで、必死に切り身を咀嚼していた。
「若君?もしやお口に合いませなんだか?」
「んっ…左様な事は無い、ぞ。ほほ…。」
やっと一切れ飲み込んで、既に限界ムードを漂わせる五郎殿に、私は危機感を覚えた。
折角貴重な醬油まで用意してくれた鯛の切り身を残したら、水軍衆の間で五郎殿の評判が悪くなるかも知れない。しかし当人が嫌がっているものを無理に食べさせても、後で戻したりしたら尚更印象が悪くなる。
となれば…私の出番だろう。
「五郎殿?私、この切り身が大層気に入りました。五郎殿の分もくださいませ。」
やや鼻につく感じでおねだりすると、五郎殿がぎょっとした表情で私を見た。
すかさず片目を何度もつぶってアピールすると、私の意図を察したのか、五郎殿が一瞬目を見開いたのが分かった。
「…う、うーむ、左様か。それ程気に入ったか。しかし、これは忠兵衛が儂に献上した分であるしのう…。」
「そこをなんとか、お願い致します。」
忠兵衛殿の冷ややかな視線を感じながら、私は懸命に演技を続けた。
「うーむ、相分かった。これはお主に譲ろう。」
「若君、真によろしゅうございますか。切り身はそれが最後。続いては塩焼きをお目にかけようと思うておりましたが…。」
忠兵衛殿の言葉に、私は内心でガッツポーズをした。
「まあ、鯛にも様々な調理法がございますのね。早く持って来てくださいませ。」
「忠兵衛よ、お主の気遣い、痛み入るぞ。奥もこう申しておる事じゃ。儂も十分堪能したゆえ、次は塩焼きを持って参れ。」
「…かしこまりましてございます。」
これで水軍衆の評価としては、鯛の切り身をたくさん食べたいと駄々をこねた幼妻と、それを大人の度量で許容した若君、という感じで落ち着くだろう。後は毎日の食卓でちょっとずつ魚の頻度を増やし、五郎殿が苦手を克服出来るようサポートしていこう。
私は忠兵衛殿の冷たい視線にあえて気付かない振りをしながら、思う存分鯛の切り身を堪能したのだった。
やがて切り身と塩焼きを食べ終えた私達は、白湯で一服していた。
「美味であった。礼を申すぞ、忠兵衛。」
「へへーっ、勿体無いお言葉。実はこの鯛は、若大将…北条太助丸殿が釣り上げた物でして、我らもお助けした甲斐がございました。」
さっき食べた鯛を、太助丸兄者が釣った?
意外な情報に驚きながら太助丸兄者を見ると、兄者はいつもと同様の無表情にどこか自信を漂わせていた。
「若大将は誠に水練や操船、釣りが大のお好きで…。末は一手の大将になられようと、水軍衆の間では専らの噂でございます。」
「ほう、それ程とは…太助丸よ、なにゆえ左様に海に惹かれておるのじゃ。」
五郎殿の問い掛けに、太助丸兄者は目をキラキラさせながら口を開いた。
「海は一日として同じ日はございませぬ。風向き、風の強さ、波の高さ、潮の流れ…刻一刻と変わるが、不思議でなりませぬ。」
「左様か…。」
「水練も、苦に思った事はございませぬ。底知れぬ水底を覗き込み、あるいは無心に水面に漂い…半刻も泳げば、憂い事も無くなります。」
「ほ、ほう…。」
「陸の戦と船軍の違いも、我が心を捉えて離しませぬ。そもそも孫子の兵法は陸の戦を主としたものにございまして、寄る辺なき船軍においてはまた異なる兵法が…。」
「おほん、おほん。」
私がわざとらしく咳払いをすると、太助丸兄者はようやく口を閉ざした。
得意ジャンルについて話し出して止まらなくなったオタクよろしくしゃべり続けた太助丸兄者に、五郎殿は圧倒されていたが、忠兵衛殿は慣れた様子だった。恐らく、これまでにも同じような事があったのだろう。
「駿河の海が大層お気に召したようで、何よりにございます。時に…書状にあった頼み事と申されますのは、水神様への寄進と、他にもおありとの事でしたが。」
「へへーっ。それにつきましては、拙者から言上致します。」
私の言葉に反応したのは、岡部忠兵衛殿だった。
「まず、寄進の件にごぜえますが…我ら一同、日頃より加護を賜っております水神様がございまして。つきましては、そのう…社の再建に、五百貫文ほど、いただけないものかと、へえ。」
今川水軍が祀る神社への寄進か。太助丸兄者や五郎殿が何も言わない所を見ると、根も葉もないデタラメではないだろう。
それなら答えは決まってる。
「分かりました。書状にあった通り、五百貫文でよろしいのですね。」
「…は?あの…真に五百貫文、いただけるので?」
呆気に取られた忠兵衛殿に、私は浅くお辞儀をした。こう見えて、私はお寺や神社を大切にする方だ。
なにせ、前世ではオカルト、ファンタジー扱いだった『転生』を身をもって体験した張本人なのだ。私をこの世界に転生させた存在がドコのダレかは知らないが、とにかく普段から色んな所にゴマを擦っておかないと、いつまたどんな目に遭うか分かったもんじゃない。
さすがに、世の中全て神様仏様の思し召しで動いているとは思っていないし、あらゆる宗派を無条件に尊重する積もりも無いが。
「先ほど、下人に命じて運ばせました。どうぞお納めください。それで…もう一つの頼み事とは、一体どのようなものなのでしょう。」
目をパチパチ、口をパクパクさせていた忠兵衛殿は、太助丸兄者に小突かれて我に返った。
「こ、これはご無礼致しやした!若奥様のご厚情、礼の申しようもございやせん!それで、その、もう一つの頼み事とは、つまり…船の色の事にごぜえます。」
船の色がどうしたんだろう?
内心首を傾げていると、太助丸兄者が補足説明をしてくれた。
「切っ掛けは西国より伝わりし噂話にございます。南蛮の船は舳先から船尾まで真っ黒である、と。それを耳にした者達が、自分達も黒船に乗りたいと、騒ぎ出した次第。笑ってくださいますな。陸の侍大将がきらびやかな甲冑で戦に臨まれるのと同じく、海の侍大将も軍船を着飾りたいのでございます。」
「そ、それだけじゃあございやせん!南蛮の船が幾月も海を渡って、なお木が腐らないのは、船を黒く塗っているため、だそうで!」
成程、南蛮の黒船を真似したいのか。そう言えば前世、歴史の教科書に載ってた南蛮貿易の船は、確かに黒かった気がする。
でも、あれってどうして黒いんだろう?
「話は分かった。されど…いかにして黒船を造る?身の黒い木などなかろう。」
「はっ。南蛮船は何やら黒いものを塗り付けておるよし。されど、それが何かまでは…。」
「黒、黒のう。墨では波に洗われて落ちてしまうであろうしのう。うーむ…。」
五郎殿と太助丸兄者が揃って考え込む中、私も頭を捻ってみたが、いい解決方法が思いつかない。
織田信長の鉄甲船は…ダメだ、オシャレにしてはお金がかかり過ぎるだろう。
何か、何か無かっただろうか。つい最近、黒くて軽い素材の事を聞いたような…。
「…そうじゃ。」
五郎殿はポツリと呟くと同時に、小気味よい音を立てて膝を叩いた。
「奥よ。ご実家に文を出してはくれぬか。水軍衆の頼み事、小田原の黒漆が役に立つかも知れぬ。漆塗りは軽い上、水を弾くゆえのう。」
「小田原の黒漆にございますか?されど…。」
「恐れながら、我が父…北条左京大夫殿がお認めになりましょうか。」
口ごもる私に代わって問題点を指摘したのは、向かいの太助丸兄者だった。
彼の懸念ももっともだ。
小田原の特産品である漆塗りの技術が、軍船の性能向上に寄与するものである、と仮定する。それで今川水軍が強化されてしまったら、黒漆は立派な軍需物資だ。北条との同盟に支障をきたす恐れがある。
第一、黒漆を軍船に塗布出来るのか、という技術的な問題もある。漆塗りの業者に伝手があるであろう、外郎屋に相談すれば具体的な事が分かるかも知れないが…。
「…この場で決するには、事が大き過ぎるようじゃ。岡部忠兵衛よ。お主の献策、父上にも申し伝えよう。今しばらく沙汰を待つがよい。」
「若君様にそこまで言ってもらえりゃ、皆の衆も喜ぶに違えありやせん。何卒よろしくお願え申し上げやす。」
岡部忠兵衛殿と太助丸兄者、頭を下げた二人のちょんまげを見ながら、私はこれからやるべき事を頭の中で整理した。
何はさておき、駿府館に戻ったら、義元殿にご報告だ。そこで『今川水軍黒塗り計画』について説明し、指示を仰がなければならない。
義元殿からゴーサインが出たら、友野屋殿、外郎屋の順で相談だ。首尾よく行けば、外郎屋を仲介して黒漆を仕入れ、友野屋殿に職人を手配してもらって、今川水軍の軍船に塗る事が出来る…かも知れない。
これで外郎屋が大儲け出来れば、少しはお菓子のお礼になるだろう。
私は僅かに期待しながら、白湯をすすった。
二か月後。
私は北条領、三島にほど近い港町、沼津の、とあるお寺の一室にいた。
同席するのは友野屋当主、次郎殿。
外郎屋当主、宇野藤右衛門殿。
そして、私と太助丸兄者の兄にして、北条家次期当主新九郎殿の弟、藤菊丸兄者だ。
「それでは只今より、沼津に新たに設ける造船所につきまして、若奥様の仕置を賜りたく存じます。」
友野屋殿に倣って、藤右衛門殿と藤菊丸兄者が私に向かって平伏する。
私は表面上必死に微笑みながら、心の中で叫んだ。
どうしてこうなった、と。
お読みいただきありがとうございました。