#091 鬼の手、仏の手(裏)
リクエスト募集の締め切りが近いため、直近の予定をお知らせします。
#092~096:北条太助丸(氏規)と駿河水軍
#097~100:松平竹千代と関口瀬名
をテーマに執筆予定です。
塚原卜伝が今川五郎氏真の剣術指南役を引き受けた日の夜、今川義元の屋敷の一室で、差し向かいで酒を酌み交わす二人の影があった。屋敷の主、義元と、剣豪、塚原卜伝である。
「いや、さすがは卜伝先生。老いてなお健啖家でおられる。」
卜伝は、義元手ずから清酒を注いだ盃を、両手でうやうやしく掲げると、一口、二口飲んで、膳に置いた。膳の上には、既に平らげられた食事の形跡があった。
「武芸者たる者、食にも気を配らねばなりませぬ。唐土には医食同源の教えがございますれば、肉を得ようとする者は肉を食らうが道理にございます。」
「成程のう。さすれば、還俗せぬ限り、余も槍を振るうどころでは無かったやも知れませぬのう。」
「…悔いておいでにございますか。仏門より俗世に戻りし事を。」
義元は、卜伝の問い掛けにすぐには答えず、自身の盃に注いだ酒を僅かに呷った。
「悔いた事は無い…と言えば嘘になりましょう。還俗して早々に兄弟や遠縁と争う日々を送り、悩んだ事もございました。されど詮無き事。今川の家と血を守るためには、致し方無い仕儀でございました。」
「…やはり剣術と治世の術に、関わりは無いと言う事にございましょうな。」
日本有数の剣豪が発したとは思えない言葉に、義元は僅かに目を見張った。
「卜伝先生ともあろうお方が、なにゆえ左様に弱気な事を仰せになります。」
「…ご存知の通り、拙者は日の本を巡り、多くの武士に稽古を付けて参りました。その度に言い聞かせたものです。剣は人を斬るために非ず、己の心を斬るためにある、と…。誰もがその教えに忠実に振る舞い、剣の腕を磨いて参りました。されど、ひとたびお役目を賜り、あるいは家の当主となれば…兵を率い、刀を振るって、殺し、殺される日々。人を生かす剣など、夢のまた夢にござった。」
卜伝は悲しげに微笑むと、言葉を切って盃に口を付けた。
「されど、卜伝先生は我が息子の指南役をお引き受けくださった。なにゆえにございます。」
盃に残った清酒をしばし揺らしてから、卜伝は答えを口にした。
「弱きを知っておられたがゆえ、にございます。若君は己の弱さに向き合い、それに打ち勝とうと思い定めておいでです。さすれば、我が剣術を伝授するに相応しい武士にお育ち遊ばされるやも知れぬ…そう思うた次第にございます。」
「卜伝先生のお言葉、有難き事この上ございません。どうか息子が一廉の武士になりますよう、お力添えをお願い致します。」
「この老骨に出来る事であれば。…時に、太守様。例の娘の件は…。」
「うむ。卜伝先生が仰られた通りの者を呼びつけております。あるいは今にも…。」
「ご無礼仕ります。」
障子の向こうから届いた若い女性の声に、義元と卜伝は揃って視線を向けた。
「若奥様側付きの一人、百と申します。お召しにより参上仕りました。」
「おう、待っておったぞ。苦しゅうない、入るがよい。」
義元の許しを得て入室したのは、駿府館で働く侍女や女房衆の中でも、化粧っ気が無く、瘦せぎすで、身の丈の大きさにもかかわらず目立たない侍女だった。
「実はのう、卜伝先生の姪御と、お主が瓜二つであるそうじゃ。折角ゆえ、卜伝先生に近付いて差し上げるがよい。」
義元の言葉に、百は頭を低く保った姿勢で、卜伝ににじり寄った。
卜伝は座ったまま百に向かって体を捻り――
ヒュッ、キィィン!
義元が瞬きをした刹那、卜伝は右脇に置いていた打刀を振り抜いていた。
だが、その刀身が百の首に届く事は無かった。
他ならぬ百が逆手に構えた短刀で、卜伝の抜き打ちを食い止めていたからだ。
「太守様、これはいかなる仕儀にございましょうや。わたくしに罪あらば、堂々とお咎めくださいませ。なにゆえ闇討ちの如き手に及ばれますか。」
突然命を狙われながら、淡々と疑問を口にする侍女に、義元は穏やかな表情のまま言った。
「相済まぬのう。卜伝先生たっての願いゆえ、許せ。卜伝先生も、お戯れはそこまでにして、刀をお引きあれ。」
義元の言葉に、卜伝はあっさりと刀を鞘に納め、再び床に置いた。百も卜伝から目を離さぬまま、腰帯の鞘に短刀を納める。
「久しいのう。堺の大道芸人殿。」
「…何の事にございましょう。」
「もう四年前になりましょうか。堺の街中を歩いていた所、面白い見世物があるとの騒ぎを聞きつけ、人だかりの方へ向かったのです。そこでは派手な装束の巫女が、襲い来る浪人を片端から叩きのめし…短刀一振りで十人ばかりを、一滴の血も流す事無く、取り押さえてしまったのです。」
「ほほう、それはそれは見事な…『芝居』であるのう。」
義元の含みを持たせた口ぶりに、百の表情が僅かに強張った。
「左様、『芝居』であれば。拙者には分かり申した。あれは真剣を用いた死合いであった、と。巫女殿ははしゃぐ見物人に一礼した後、裏通りに駆け込んでしまいましたゆえ、拙者が見覚えたのは顔立ちのみ。此度太守様のお招きにあずかり、こうして再び相まみえた事、僥倖と申すより他ございません。」
「…そこまで仰せであれば、認める他ございません。その死合い、身に覚えがございます。大衆の面前で刃傷沙汰を避けるための、苦肉の策にございました。…して、わたくしめをいかがなさるお積もりにございましょう。」
「言うまでもない。そなたを拙者の弟子に迎え入れたい。」
鹿島新当流の開祖、塚原卜伝自身からの勧誘…日の本中の武芸者にとってこの上ない名誉を前に、百は沈思黙考するばかりだった。
「苦肉の策とは申せ、一人として斬る事無く場を収めるは並の技量ではござらん。お主であれば、拙者が求めて止まぬ人を生かす剣、成し得るやも知れぬ。若君と揃って我が門下生となる気は無いか?」
「…不躾ながら、お断りさせていただきとう存じます。」
ほとんど間を置かずして発せられた返事に、卜伝はかすかに顔をしかめた。
「何が不満か、申されよ。」
「不満など…ただ卜伝先生にとって、利よりも害の方が多いと考えた次第にございます。第一に、わたくしは女。それも下賤の出にございます。それを卜伝先生の一存で弟子に迎えたとなれば、兄弟子の皆様方にも不満を持つ方が多くいらっしゃいましょう。」
百の言葉に、卜伝の脳裏に弟子の顔が幾つか浮かび、消えた。
確かに、駆け出しの頃であればいざ知らず、大勢の弟子を抱えている現状で侍女を門下生に迎え入れれば、弟子達の間に不和が起こる事態は容易に想像出来た。
「第二に、わたくしの剣法は我流の殺人剣にございます。闇討ち、不意討ち、騙し討ち…勝つためならば毒、石、仏像に糞尿と、何でも用います。かような者が弟子入りするは、鹿島新当流の名に傷を付ける事になりましょう。」
「…ならば、お主はなにゆえ刀を振るう。」
卜伝の問い掛けに、百は頭を上げ、正面から向き合った。
「全ては若奥様の命と安寧をお守りするため。そのためならば地を這い、泥を啜りましょう。…恐れながら、わたくしの剣は卜伝先生の下では振るえませぬ。」
「…相分かった。お主を弟子に迎えるは諦めるとしよう。」
卜伝が百から視線を切ると、百は横目で義元の様子を窺った。
「卜伝先生、よろしいかな?…されば、百よ。下がってよい。手間を取らせたのう。」
「滅相もございません。これにて失礼仕ります。」
百が一礼し、退室してから足音が遠ざかった後、卜伝は姿勢を正し、義元に向き直った。
「太守様におかれましては、拙者のつまらぬ願いをお聞き届けくださり、面目次第もございません。かの者の申した事、一々もっともにございます。どうか罰をお与えになる事無きよう…。」
「ほっほっほ。無論にございます。義娘のお陰で、息子の屋敷はこの駿府館の中で最も規律が行き届いておりますゆえのう。罰する道理がございませぬ。」
「若奥様の手腕にございますか。あの者が忠節を尽くすだけの事はございましょうな。」
「それだけではありませぬぞ。我が息子が立ち直ったのも、義娘の力なくしてはあり得ませなんだ。」
「文武に秀でておられると?」
卜伝の質問に、義元は眉根を寄せ、少し考え込んだ。
「愚鈍…には程遠い。されど…突然思いがけぬ事を申し出る天分を除けば、際立った才があるとは申せませぬな。」
「されば、なにゆえ?」
ややあって、義元は大きく頷いた。
「先ほど先生が仰られた通りじゃ。義娘は己の弱さに向き合い、それに打ち勝とうと思い定めておる。至らぬ点は改め、及ばぬ所は人の手を借りる。それゆえ周りの者達も、懸命に支えようとするのでございましょう。」
「左様でございましたか。…いずれ若奥様にも、改めてご挨拶に伺わなければなりますまい。」
「きっと歓待してくれましょう。さぁ、もう一献。」
義元が差し出した徳利に、卜伝は首を横に振って答えた。
「今宵はここまでにしておきましょう。明日から若君に稽古を付けなければなりませぬゆえ。」
「真であればもう一人、弟子を得られたやも知れませぬに、惜しい事にござった。」
「いや、あれはやはり無理筋にございました。それに…若君が己の天分を存分に発揮されれば、あるいは拙者を超える武芸者になるやも知れませぬ。」
予想を上回る卜伝の評価に、義元は知らず笑みを深めた。
「卜伝先生にそう仰っていただけるとは、息子も果報者じゃ。明日から存分にお願いしますぞ。…無論、死なぬ程度に。」
「心得ております。」
深々と腰を折る卜伝を前に、義元は自分の盃に残っていた清酒を、一息に飲み干したのだった。
リクエストをお待ちしております。