#090 鬼の手、仏の手
お陰様でブックマークが1,000件を突破しました!
四か月前に投稿を始めた時は、これ程多くの方にご愛顧いただけるとは夢にも思いませんでした。
今後とも拙作をよろしくお願い致します。
※注意:今回、シリアス強めです。
「結よ、卜伝先生は何処⁉もしや既に駿府をお発ちになられたか!」
五郎殿と卜伝先生との模擬戦が執り行われた夜、屋敷の敷地内に建てられた、越庵先生の研究室に寝かされていた五郎殿が、意識を取り戻しての第一声がそれだった。
布団の横で見守っていた私は、今にも跳ね起きて馬に飛び乗らんばかりの五郎殿を制しながら、卜伝先生の返事を伝えた。剣術指南役を引き受ける、と。
それを聞いた五郎殿はまず呆気にとられ、次いで喜びのあまり大声で叫び、そして、卜伝先生から一本も取れなかった自分がなぜ稽古を付けてもらえるのか、といぶかしんだ。
「詳しくは明日、謁見の間にて、義父上より改めてご沙汰があるとの事です。今はとにかく、お体をお休めください。」
私がそう言うと、五郎殿は一応納得した様子で頷き、再び布団に潜り込んだ。
よっぽど疲れていたのか、すぐに寝息を立て始めた五郎殿を見ていると、先ほどの大声を聞きつけてか、越庵先生が入室し、手早く五郎殿の体調を探った。
「…お体に障りは見られませんな。今宵はこちらでそれがしの弟子に見守らせましょう。若奥様は寝所にてお休みを。」
「ここで夜を明かす訳には行かないかしら。」
「不眠は万病の元でございます。どうかお戻りを。…それがしは人でなしではございますが、恩知らずではございませぬ。大恩ある若奥様のご期待を裏切る事は致しませぬゆえ、どうかご安心を。」
越庵先生のプロ意識に折れた私は、言われた通りに屋敷に戻り、一人で遅い夕食を摂り、お風呂に入り、床に就いた。結婚して半年、五郎殿がいない夜を過ごした経験が無い事も無かったが、その日は殊更に寝室が広く、静かに感じられた。
結局、私は安眠を求めて愛刀『東条源九郎』を久しぶりに持ち出し、布団の中で柄と鞘を握りしめて目をつぶった。遠ざかる意識の中で浮かんだのは、卜伝先生に稽古を付けてもらえると知った時の、五郎殿の笑顔だった。
翌日、私達は再び謁見の間で対面した。席順は昨日と同じで、上座に義元殿、その横に五郎殿、私の順で着席し、下座に卜伝先生が座っている。
「改めて申し伝える。五郎よ、塚原卜伝先生がお主の剣術指南役を引き受けると仰せじゃ。挨拶申し上げるがよい。」
「ははあっ…卜伝先生、儂の我儘を聞き入れてくださった事、お礼の申し様もございませぬ。されど、どうにも腑に落ちぬ事が…先生から一本を取る事が出来なんだ儂に、なにゆえ稽古を付けてくださいますか。」
そう、私も昨日からそれがずっと気になっていた。
部屋中の注目を集めながら、卜伝先生は素知らぬ顔で言った。
「それがしから一本も取れなければ、剣術指南役はお引き受けしない…とは申しておりませなんだゆえ。それまでの事にござる。」
そんなん有りか。
私は思い切りツッコミながら盛大にズッコケたい衝動を、必死に抑えつけた。
『出来れば引き受ける』とは言ったが、『出来なければ引き受けない』とは言ってない…って、とんちか。
「それはさておき、若君にお尋ねしておきたい儀がございます。」
それはさておき、で流せる話題か?今の。
「若君はなにゆえ剣術の稽古をなされます?」
卜伝先生の質問に、瞬時に部屋の空気が張り詰めたのを、肌で感じる。
五郎殿は目をつぶって深呼吸し、やがて目を見開いて回答を口にした。
「己の心に住まう獣を、飼い馴らすためにございます。」
「…ほう。」
私が五郎殿の意図を測りかね、戸惑っていると、卜伝先生の短い呟きに促されるように、五郎殿は続きを語り始めた。
「先日、罪人を用いて試し斬りを行い申した。足軽くずれの凶賊にございましたが、刑場で必死に命乞いを。儂は…そ奴を斬り申した。」
初めて聞く話に、私はショックを受けながら記憶を辿った。言われてみれば、夕食の際にやけに箸が遅かったり、月明かりの下で黙ってお酒を飲んだりしていた日が、何度かあった。
勿論、私も心配して、心身に不調は無いかと聞いたのだが、五郎殿は困ったように微笑みながら、いずれ話そう、と繰り返すばかりだった。念のため、越庵先生にも相談していたのだが、体調に問題はない、との返事が返って来るのみで、不思議に思っていた。
まさかその背景に、そんな凄惨な体験が隠されているとは思いもしなかった。
「太刀で、打刀で、小太刀で、斬り申した。脚を、腕を、背中を、腹を、首を…。血を流し、息絶えてゆく罪人を憐れみながら、儂はこうも思いました。…人を斬るのは何と楽しい事であろう、もっともっと斬りたい、と。」
「…辻斬りでもなさいましたか。」
卜伝先生の言葉に、私は背筋が凍り付いたように感じた。私の肩に置かれたあの手が、私に微笑みかけたあの顔が、返り血に染まっていたのではないか、と…。
「いいえ。毎朝の日課である素振りの稽古に励む内に、左様な心持ちは鳴りを潜めました。されど、憂いが無うなった訳ではございません。いずれ儂は今川の当主となり、兵を率いて戦に臨む。その折に、殺気に当てられて、己を見失う事になりはしまいか、と…。」
そこまで言うと、五郎殿は両手を床に突き、卜伝先生に深々と頭を下げた。
「卜伝先生は人を殺生する事なく勝ちを収める、戦わずして勝つ事を最善と説いておられると聞きました。どうか儂にも、その真髄をご教授いただきとう存じます。」
沈黙が部屋を支配する中、頭を下げる五郎殿を見つめていた卜伝先生が口を開いた。
「心意気はお見事。されど、平坦な道ではございませぬぞ。拙者とて、未だその境地には至っておりませぬ。降りかかる火の粉を払わんとして大勢の命を奪い、一生を賭してなお辿り着けぬやも知れませぬ。それでも挑まれると仰せか。」
「固より覚悟の上でございます。されど、卜伝先生が開かれた新当流の技を磨けば、いずれはその境地に至れるものと、そう信じております。」
五郎殿の言葉に、卜伝先生は居住まいを正して平伏した。
「若君のお覚悟、確と承りました。改めまして、明日より新当流門下生として、拙者が直々に指南致し申す。」
こうして、五郎殿は卜伝先生から直々に、新当流剣術の稽古を付けてもらえる事になったのだった。
その夜、私と五郎殿の間には気まずい空気が流れていた。一緒に帰宅した時も、夕食を共にした時もだ。
理由は明白だ。罪人とは言え、五郎殿が直接人を斬り殺した。その事実が、私の心に暗い影を落としていたのだ。
結局、夕食後も五郎殿と言葉を交わす事無く、私はお風呂に向かった。
予想外だったのは、私の体を洗う侍女が、輪番表とは異なり、侍女頭のお梅だった事だ。
「若奥様、差し出がましいようですが、何かお悩みを抱えておいでではございませんか?」
私の体を洗い始めてからしばらくして、お梅がそう切り出した。
少し悩んだ後、昼間、義元殿の屋敷であった事をかいつまんで話すと、お梅は私の前に跪き、険しい顔付きで私を見つめた。
「無礼を承知で申し上げます。若奥様は、ご実家がいかにして坂東一の大大名になられたか、ご存知ではございませんか?」
「それは…。」
言いよどむ私に容赦なく、お梅は続けた。
「無論、調略に都との繋がり、ご兄弟の輿入れや婿入りなど、血を流さずして所領を得た例も数多ございます。されど、詰まる所は戦。いくさにございます。歴代当主の皆様はしばしば兵を催し、ある時は勝ち、ある時は負け、殺し、殺されながら版図を広げて参られました。当代の左京大夫殿(北条氏康)に至っては、かの河越にて、自ら太刀打ちに及ばれたと聞き及んでおります。」
父上の手も、血に染まっていた。
そんな当たり前の事実に今更気付かされ、周囲の気温とは裏腹に震え出した私の手を、お梅の両手が優しく包み込んだ。
「左京大夫殿は血に酔い、家中領民を訳も無く傷つけるようなお方でしたでしょうか。」
お梅の問い掛けに、私は激しく首を横に振った。
「わたくしもそう思います。戦に臨んでは鬼のごとく、政に臨んでは仏のごとく…かくのごとくあらんと思えばこそ、左京大夫殿は神仏を敬い、武芸を磨いておられたのだと、わたくしは考えます。」
寒気と震えが引いていくのを感じながら、私はお梅の言葉を反芻した。
敵に厳しく、民に優しく。
人の命を奪ったその手で、我が子を抱き上げ、徳政の書状を書く。
戦国大名とは、そんな矛盾の塊なのだと。
「若殿は剣の道を通じて、御自らの心身を鍛える腹積もりでございましょう。鹿島新当流の触れ込みが真であれば、若殿も立派なご当主になられる事と存じます。万が一若殿の行状に不信の儀あらば、またわたくしにお話しくださいませ。微力ながらお役に立ちましょう。」
「…よく言ってくれました。ありがとう、お梅。」
改めてお梅に体を洗ってもらいながら、私は寝室で五郎殿に何と言うべきか、薄明かりの中で思考を巡らせていた。
寝間着に着替え、寝室に入ると、案の定五郎殿が正座で待ち構えていた。
私を見たり、目を逸らしたりと視線が定まらない様子から、相手との接し方に悩んでいたのは五郎殿も同じだったと知り、私は少し微笑んだ。
「…今日は済まなんだ。血生臭い話を聞かせてしもうた。」
歯切れ悪く謝罪を口にする五郎殿に、私は膝が触れそうなほど近づいて腰を下ろした。
「何を仰います。武士なれば、当然の事にございましょう。」
「されど…。」
「私もついさっき、側付きの者に諫められたばかりにございます。武家の当主とはいかにあるべきか、と…。真に覚悟が足りませなんだは、私にございます。…お手に触れても、ようございますか?」
私は、五郎殿がおずおずと差し出した手を、お風呂場でお梅にしてもらったように、両手で包み込んだ。日々の稽古で鍛えられた、大きくてがっしりとした手だった。
「…震えておるぞ。真は恐ろしいのであろう。」
「…はい。されど、この手は人を斬るためにのみ用いられる訳ではございません。歌を詠み、文を書き、人を愛でる手でもございます。」
五郎殿を見上げると、今度は真っ直ぐ私を見つめ返す両目と、視線が交錯した。
「今宵は、こうして手を繋いだまま床に入ってもよろしゅうございますか。五郎殿の手の温もりを、感じていとう存じます。」
「…承知した。」
いつもと変わらない五郎殿の笑顔に、私はもう一度微笑んだ。
翌朝、目を覚ました私は、布団の外で五郎殿と繋いだ手がそのまま繋がっていた事、そして、自分の手の震えが収まっていた事に安堵し、五郎殿の寝顔を見ながら、久しぶりに二度寝を決め込んだのだった。
ちなみに。
私達の起床が遅い事に業を煮やして寝室を覗き込んだ侍女が、私達の『手つなぎ』を目撃してしまい、彼女を起点に噂や憶測が飛び交った結果、数日の間赤面する羽目に陥った事は、完全に余談である。
お読みいただきありがとうございました。