#089 鹿島新当流入門
今回もよろしくお願い致します。
気絶した高利貸しが意識を取り戻し、茫然自失の状態で屋敷を後にした数日後の、冬晴れのある日。私は義元殿の屋敷、その謁見の間にいた。
上座には義元殿、その横に五郎殿、私の順で着席。
下座には年老いた男性が一人、右脇に打刀と小太刀を置き、背筋を伸ばしている。真っ白な頭髪と顔に刻まれた皺に反して、一切身じろぎしないその様子は、とても老人とは思えない。
「太守様におかれましてはご機嫌麗しゅう、ご無沙汰しておりました。」
「こちらこそ、多忙なる卜伝先生に再びお出でいただき、感謝の言葉も無い。」
義元殿と老人のやり取りに、私は改めて「卜伝先生」に目を凝らした。
塚原卜伝…日本でもトップクラスの剣豪、らしい。常陸国、鹿島を拠点に、全国を武者修行で巡って「鹿島新当流」を創設。真剣勝負で無敗を誇るその戦績から、日本各地の大名から剣術指南役として引っ張りだこで、下手すると地方の小大名よりいい暮らしをしている、との噂だ。剣豪と言えば宮本武蔵、佐々木小次郎くらいしか思いつかない私としては、イマイチ凄さが分からなかったが。
ともあれ、今日卜伝先生がこの場に招かれたのは、五郎殿の稽古を改めてお願いするためだ。
「早速ながら卜伝先生、お呼び立てした理由は他でもない。我が息子、五郎に、改めて稽古を付けていただきたい。」
「恐れながら、拙者に出来る事は最早無い物と存じます。若君は拙者の指南を受け、立派に上達遊ばされ申した。拙者がお教えする事は、最早ございません。」
遠回しに断る卜伝先生に、声を上げたのは五郎殿だった。
「父上、儂から申し上げてもよろしゅうございますか。」
「許す。」
「かたじけのうございます。卜伝先生、お久しゅうございます。不肖の弟子、今川五郎にございます。」
五郎殿が会釈すると、卜伝先生は内心を窺わせない無表情のまま、会釈を返した。
「卜伝先生。その節は、大変な非礼を働いた事、何卒お許しいただきとうござる。かつて儂はささやかな天分に溺れ、僅か三日の稽古にて、一端の武芸者になった積もりでおりました。されど、半年前に己の未熟を思い知り、今一度卜伝先生の指南を賜りたいと、かように考えた次第にございます。真に勝手ながら、どうか儂に改めて稽古を付けていただく訳には参りませぬか。」
自分の非を素直に認め、徹頭徹尾下手に出て懇願する五郎殿の様子に、私は目頭が熱くなるのを感じつつ、これで卜伝先生が承諾してくれるのではないか、との淡い期待を抱いた。しかし…。
「…さて、困りましたな。」
ちっとも困っていなさそうな口ぶりで、卜伝先生は腕を組んだ。
「こう見えて拙者も方々の大名からお誘いをいただいております。若君の心意気は認めますが、力量の分からぬお方にどう稽古を付けたものやら…。」
「されば。」
五郎殿の静かな一言に、私は全身を強張らせた。
正直、ここまで五郎殿の予想が的中するとは、予想だにしていなかった。
「儂の腕がいかほどものか、先生自ら確かめていただきとう存じます。中庭に場を設けましたゆえ、模擬戦にて、存分に打ち合っていただきとう存じます。」
二日前、帰宅した五郎殿から、私は二つのニュースを聞かされた。
一つは、遠国にいた塚原卜伝先生が、義元殿の要請を受け入れて駿府に到着した事。もう一つは、義元殿からその知らせを聞いた五郎殿が、今日から数日間、義元殿の屋敷の中庭――半年前の『御前試合』の会場だった玉砂利敷きの中庭だ――を貸し切った、という事だった。
「恐れながら…なにゆえ中庭を?」
卜伝先生の来訪と中庭が結び付かず、眉根を寄せる私に、五郎殿は懇切丁寧に説明してくれた。
「お主も知っての通り、半年前までの儂は血筋に胡坐をかいた腑抜けであった。」
自虐への返答がとっさに思い付かず、沈黙する私に、五郎殿は続けた。
「数年前、卜伝先生に稽古を付けていただいた折も然り。儂は形だけ先生の太刀筋を真似、一端の武芸者になった積もりであった。その結果があの体たらくじゃ。」
あの体たらく、とは、恐らく私との八百長試合に負けた事を指しているのだろう。確かにあの時、二日酔いで絶不調だったとは言え、五郎殿の打ち込みは読みやすかったし、軽かった。
「今なら分かる。稽古を始めて三日目の、儂に教える事は最早ない、との卜伝先生のお言葉…あれは儂に、剣を学ぶ気構えが足りぬと仰せであったのじゃ。」
「されど、こうして義父上のお招きに応じて参られたという事は、再び五郎殿に稽古を付けてくださるお積もりなのでは…。」
過去の言動を悔やむ様子を見かねて言った私に、五郎殿は首を横に振った。
「言葉だけでは信用していただけまい。儂の覚悟を卜伝先生にお見せするには、この半年で儂の剣の腕がいかほど上達したか、お見せせねばなるまい。そのために、支度が必要なのじゃ。」
その上で、と前置きして五郎殿が私に依頼したのは、卜伝先生との模擬戦に備えて、飲み水を張った桶や塩を盛った皿、軽いケガを手当てするための医薬品などを準備して欲しい、との事だった。
「水に塩、薬とは…長丁場になるとの見通しで?」
「長丁場にせざるを得ぬ、と言った方が正しいのう。この半年、弛む事無く毎朝木刀を振って参ったが…日を追うごとに分かる。儂の太刀筋は、卜伝先生のそれに遠く及ばぬ、とな。」
「まさか、それ程とは…。」
若く健康な五郎殿の腕前が、高名とは言え年老いた剣豪に及ばないと言う予想を、私はとても信じられなかった。
「いや、真じゃ。それゆえ、千に一つ、あるいは万に一つの勝ち筋に賭ける。儂は明日、素振りの稽古を除いて一切屋敷を出る事無く、己の体を労わる。夜も早く床に就き、明後日に備えよう。お主にはその間、父上の屋敷にて模擬戦の支度を整えてもらいたい。何が入り用か、子細は屋敷の警固役に聞けば分かるであろう。」
「承知致しました。皆様のお知恵を借りながら支度を致します。時に、念のため、ではございますが、『御前試合』の折のごとき小細工は…。」
「無論、一切無用じゃ。」
五郎殿は凛々しい表情で、きっぱりと言った。
「これが是が非でも勝たなければならぬ死合いであれば、いかなる手も用いよう。されど、これは卜伝先生に儂の技量をお認めいただくための模擬戦じゃ。小細工などして機嫌を損なわれれば、指南役の道は間違いなく閉ざされよう。」
卜伝先生に指南役になってもらうためには、イカサマ抜きで実力を認めさせなければならない、と言う事だ。夫が困難な課題に挑もうとしていると知り、着物の裾を握りしめる私に、五郎殿は一転して微笑んだ。
「案ずる事は無い。此度は木刀を用いた模擬戦なれば、いずれが負けても落命はせぬ。それに申したであろう。僅かながら、勝ち筋はあると。儂はそれに全身全霊を投じる。それでも駄目であれば…やむを得ぬ、卜伝先生のお弟子に改めて教えを請うか、別の流派を一から学ぶ事としよう。」
その言葉に、私は五郎殿の勝率は、万分の一どころか、もっと高いんじゃないかとの感想を抱いていた。技術では卜伝先生に分があるに決まっているが、五郎殿には年齢相応の体力がある。もしかしたら、卜伝先生から一本取る事も夢ではないのではないか、と。
そして翌朝、五郎殿は宣言通り、朝の日課である素振りの稽古から戻って朝食を摂った後、念のため越庵先生に体調をチェックしてもらってから、読書をしたり座禅を組んだりして時間を潰し、夕食を摂り、体を清めてから、いつもより早めに眠りについた。
一方私はと言えば、屋敷の警固役の内、ちょうど詰所で待機していた五番隊を呼び出し、木刀での模擬戦が長引いた場合に必要になりそうなものを列挙してもらった。
赤羽陽斎さん率いる五番隊は、揃って浪人から取り立てられた足軽待遇で、その分戦場での経験を基に、ためになるアドバイスをしてくれた。それを下敷きに、水、塩、替えの草履、包帯などを義元殿の屋敷の中庭に運び終えた頃には、日が暮れかかっていた。
そして、寝室で五郎殿が静かな寝息を立てる横で、何か見落としは無いか、必要なものはちゃんと運び込んだだろうか、と、私は何度も寝返りを打ったのだった。
そして今、五郎殿の思惑通り、塚原卜伝先生との模擬戦が始まろうとしている。
中庭に立つのは五郎殿と卜伝先生、そして立会人――審判役の今川家臣、合計三名。
義元殿や私を始めとした観客は、縁側で彼らを見守る事になる。
「儂が先生から一本でも取れれば、改めて指南役を務めていただく、と言う事でよろしいか。」
「結構にございます。存分に参られよ。」
烏帽子を取り、袖をたくし上げた動きやすい格好になった五郎殿に対して、卜伝先生は特別準備をしたようには見えない。
両方とも本物の刀は義元殿に預け、武器はそれぞれ木刀が一本。勿論私も、片方に細工したりはしていない。
卜伝先生が片手で、五郎殿が両手で木刀を構えると、空気に緊張感がみなぎっていくのを肌で感じた。
「…始め!」
立会人が叫んだ直後、五郎殿は声を出す事無く駆け出し、卜伝先生に迫った。
木刀の切っ先が卜伝先生の額を打つ、私にはそう見えた。
「遅い。」
私は卜伝先生の言葉と、目の前で起こった事が理解出来なかった。今まさに振り下ろされんとしていた五郎殿の木刀が忽然と消え失せ、数秒後に上空から中庭に落下して来たからだ。
つまり…にわかには信じがたいが…しっかり握られていたはずの木刀を、卜伝先生は防ぐどころか、一瞬ではね飛ばしたと言う事だ。
私と同様に硬直する五郎殿の喉に木刀の切っ先を突き付け、卜伝先生は言った。
「まだお続けになりますかな?」
「…ッ、無論にございます!」
五郎殿はそう叫ぶと、急いで木刀を拾い、再び卜伝先生に向かって構え、やがて打ちかかった。一合、二合…半年前とは比べ物にならない剣速で、木刀が打ち込まれる。
なのに…。
「噓、でしょう…。」
目の前の光景に、私は呆然と呟いた。
五郎殿の連撃が一撃残らず卜伝先生に防がれている。
いや、それだけじゃない。
動いていない。
卜伝先生が最初の立ち位置から動いていないのだ。
模擬戦が始まってから、一歩たりとも。
「―――ッ、ハァ、ハァ、ハァ…。」
「おや、もうお疲れですかな?」
一方的に攻めていたはずの五郎殿が肩で息をしているにもかかわらず、卜伝先生は当初と変わらず、悠然と片手で木刀を構えている。
その対比は、塚原卜伝が日本有数の大剣豪である、という風聞を裏付けるには十分過ぎた。
「ハァ、まだまだ、これから…!」
五郎殿は卜伝先生から目を離す事無く、縁側に置いてあった皿から塩を掬って舐め、桶から柄杓を引き抜いて水を飲んだ。
「…お待たせしました。参ります!」
乱暴に口元を拭った五郎殿は、再び卜伝先生に打ちかかった。
今度は、木刀を振るうタイミングをずらしたり、フェイントをかけたり。
だが…。
「攻め手に乏しい。」
十数合打ち合った後、容赦の無いダメ出しと共に、五郎殿の木刀が再び宙を舞った。
「くっ…まだ、まだぁ!」
それからも、一方的な展開は続いた。
五郎殿が手を変え品を変え打ちかかっても、その全てをいなされてしまう。
塩を舐め、水を飲み、草履を替え、血がにじむ手の平に膏薬をまぶして包帯を巻いて…。
何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も挑戦し続けて――。
気付けば、時刻は夕方を迎えていた。結局、五郎殿が一本も取れないままで。
「若君、お伺いしてもよろしゅうござるか。」
何個目かの桶を空にして、ノロノロと構える五郎殿に、相変わらず最初の位置から動かないままの卜伝先生が聞いた。
「なにゆえ拙者の正面からのみ打ちかかって来られる。拙者の目の届かぬ背後に回れば、容易く一本を取れましょう。」
「…ご冗談、を。もし儂が、そのような素振りを見せれば、たちまち先生の打ち込みで、気を、失った事でしょう。」
「ふむ…もう一つ。どうやら若君は拙者が疲れ果てた隙を突こうとしておられる様子。されどこの卜伝、老いたりとは申せ、易々と隙を見せは致しませぬ。他に策が無ければ、諦めるがよろしいかと存じますが?」
卜伝先生の言葉に、私はようやく五郎殿が言っていた『勝ち筋』の正体を知った。長期戦に持ち込んで卜伝先生を疲弊させ、体力で押し切る。それが五郎殿の作戦だったのだ。
唯一最大の誤算は――塚原卜伝先生が、その程度の小細工ではビクともしない、卓越した技量の持ち主だった、と言う事だ。
「いかがでございましょう、これ以上醜態を晒す前に…。」
「無様なら、とうに晒し申した。」
その時、私は見た。息も絶え絶えの五郎殿の唇が、僅かに笑みの姿を形作っている所を。
「己の無力、怠慢を痛いほど思い知らされた、あの日。それはもう無様にござった。それに比べれば、この程度。どれほどの事も、ございませぬ。」
二人の一挙一動に注目していた私は、次の瞬間、心臓が大きく跳ねたのを感じた。
卜伝先生が両手で木刀を握り、構えを変えたからだ。
「よろしい。その意気にお応えして、我が新当流の奥義、一之太刀をお目にかけよう。心して受けられよ。」
ついに、卜伝先生の方から打ちかかる。
攻守逆転に、五郎殿が防御の構えを取り、私は一層目を凝らした。
次の瞬間。
「かぁぁぁぁぁっ‼」
老人の喉から放たれたとは思えない大音声に、私は思わず耳をふさぎ、目をつぶった。
慌てて開いた目に映ったのは、木刀を振り抜いた体勢で五郎殿と背中合わせに立つ卜伝先生と、木刀を真っ二つに折られ、白目を剝いた五郎殿だった。
あの一瞬で五郎殿の背後に移動した?一体どうやって?
私の頭が疑問符で埋め尽くされる寸前、五郎殿は木刀の柄を取り落とし、ゆっくりと地面に倒れ込んで行った。
「五郎殿!…立会人殿、勝敗を!」
「はっ!ええ、その…塚原卜伝先生の勝ち――」
「越庵先生!急ぎ五郎殿を!」
「承知!」
立会人から模擬戦終了の言質を取った私は、縁側で待機していた越庵先生に指示を飛ばし、五郎殿の介抱に向かわせた。
夕闇が迫る中、庭に寝かせた五郎殿の体を確かめていた越庵先生は、やがて小さく頷いた。
「頭を揺らされた事で、気を失っているだけにございます。念のため、布団に寝かせて様子を見たく存じますが…太守様のご意向や、いかに。」
「これ以上の模擬戦は無理というものであろうな。立会人も卜伝先生の勝ちと申しておる。誰か、越庵先生に手を貸すがよい。」
義元殿の指示で数人の近習が中庭に降り、越庵先生の指導の下、五郎殿を搬送する様子に、私はまず安堵し、次いで落胆した。
だって、五郎殿が卜伝先生に一本も取れずに負けた、と言う事は…。
「さて、卜伝先生。相変わらず見事な腕前であった。」
「勿体無きお言葉にございます。」
義元殿の正面の玉砂利に膝をつきながら、卜伝先生が深々と頭を下げる。
私は自分の事のように悔しい気持ちを押し隠しながら、二人の会話を黙って聞く事しか出来なかった。
「時に、五郎はこう申しておった。五郎が卜伝先生より一本でも取れれば、卜伝先生は再び五郎の剣術指南役になる、と。然るに…卜伝先生はいかがされる。」
残酷な答え合わせだ。
卜伝先生の返事は決まってる。
「左様にございますな…剣術指南役のお話、お受け致しましょう。」
やっぱりね。剣術指南役を引き受けて…ん?
あれ?
引き受けてくれるの?
なんで?
お読みいただきありがとうございました。




