#086 正式名称論争で一晩語り明かせるあのアレ
今回もよろしくお願い致します。
天文24年(西暦1555年)1月 駿府 友野屋別邸
(落ち着け、落ち着け、落ち着け…。)
駿府の町人、団五左衛門は、豪奢な客間の中心で、必死に自分へと言い聞かせた。
茶店の主を務めて二十年、友野屋とは売り上げに雲泥の差がある自分が、何故ここまでやって来たのか。それはひとえに、新たな商いを始めるための元手を都合してもらうためだ。近頃流行りの、『株札』とやらを入手する事で。
(しかし…儂の頼みを聞き入れてもらえるだろうか?)
五左衛門の脳裏に焼き付いて離れないのは、自分と同様に儲け話を持ち込んだ人々のほとんどが、書状のやり取りのみで門前払いを食らうか、こうして別邸まで招かれても、出資を断られて屋敷を後にした、という現実だった。
中でも不可解だったのは、市中でも名の通った高利貸しが、屋敷に招かれる前日までは意気軒昂だったというのに、翌日には意気消沈していた、という一件だ。
『俺は千貫文を持って行ったんだぜ?一千貫文だ!それで若奥様にこう持ちかけたのよ。こいつを元手にあちこちに貸し付けりゃ、何倍にもなって返って来る。返せねえ奴からは身ぐるみ剥いじまえばいい、ってな。それ聞いた途端に、お帰りくださいと来たもんだ!ありゃ一千貫文じゃ足りねえ、もっと持って来いってこったろうぜ。若奥様は随分と銭がお好きと見える!』
偶然同席した酒場で自棄酒をあおる高利貸しの声に、五左衛門は胃が縮み上がる思いだった。自分が用意出来たのは千貫文どころか、その十分の一に過ぎなかったからだ。
(いやしかし、書状の返事は悪くなかった。こうして招かれた以上、気にかけていただいてはおられるはず…。)
だがそれも、去年小田原から嫁いで来た姫君の、気まぐれに過ぎないとしたら?
五左衛門が揺れ動く心そのままに、額にあぶら汗を浮かべていると、部屋に複数の足音が近づいて来た。
「若奥様、友野次郎様のお越しです。」
部屋の外に控えていた友野屋の手代の言葉に、五左衛門は素早く不格好な土下座をした。
やがて入室した足音は五左衛門の脇をすり抜け、小さな足音が上座で止まるのが分かった。
「団五左衛門殿。面を上げられよ。」
自分より数段若く、それでいて人に命令する事に慣れた風の男性の声に、恐る恐る頭を上げた五左衛門の目に、見るからに上等な衣装を身にまとった少女と、友野屋の若き当主、次郎兵衛の姿が入った。
少女――今川氏真の妻は上座に腰かけ、友野次郎は、五左衛門と彼女の間に割って入るように腰を降ろしている。
「若奥様の御前である。くれぐれも粗相の無いよう、慎まれよ。」
「はっ、ははーっ。若奥様におかれましては、ご機嫌麗しゅう…。」
「ご丁寧な挨拶、痛み入ります。今川五郎殿の妻、結と申します。もう少しくつろいでいただいても、結構ですよ。」
友野次郎の警告に反射的に頭を下げた五左衛門は、結の言葉に、やや安堵しながら元の姿勢に戻った。
少なくとも第一印象としては、貪欲に銭を欲する高慢な姫君とは思えなかった。
「では早速、五左衛門殿が株札をお求めの訳をお聞かせ願おう。」
友野次郎の言葉に、五左衛門は震える手で、懐から数枚の紙を取り出した。
やはりもう一度内容を確認しておくべきだったかも知れない、そんな五左衛門の内心を無視するかのように、友野次郎は紙束を受け取り、一通り目を通した後、今度は結に差し出した。
(若奥様も目を通されるという噂は、真であったか。)
実際に事業の審査を行っているのは友野屋で、若奥様は飾りに過ぎないのではないか、との町民の憶測が裏切られた事に、五左衛門が目を丸くしていると、真剣な表情で紙束を読み込んでいた結がやおら顔を上げた。
「まずお名前ですが…みたらしだんござえも、ぶふっ、ゴホッ!ゴホッゴホッ!」
突然袖で口元を抑え、咳き込む結に、五左衛門が呆気にとられていると、友野次郎が二、三度咳払いをした。
「恐れながら若奥様。御手洗屋当主、団、五左衛門殿でございます。」
「コホ…友野屋殿、ありがとうございます。五左衛門殿、失礼しました。まだ寒うございますね。お互い風邪には気を付けねば。」
結の微笑みに、五左衛門は、先ほどの空咳が笑いを誤魔化すためのものだったのではないか、との疑念を抱きつつも、曖昧な笑みを返すしかなかった。
「さて、五左衛門殿が申し出になった商いとは…茶店一揆、という事でございますね?」
結が商談を切り出した事に驚きながらも、五左衛門は必死に声を張り上げた。
「は、は、ははっ。い、い、一揆と申しましても、太守様の治世に物申す積もりは毛頭ございませぬ。とにかくその、駿府市中の茶店が合力して、商いの苦楽を共にしようと、そう言った次第で。」
五左衛門が持ち込んだ新規事業の素案とは、大まかに言えば小規模喫茶店の経営統合だ。
駿府市中には少なくとも二十を超える茶店があるが、どれも個人経営や一族経営で、収入が不安定で病気や災害への備えも不十分だ。これまでは五左衛門が中心となって寄り合いを開き、お互いに助け合って来たのだが、やり繰りが苦しいのはどこも一緒で、不安を抱える日々が続いていた。
そんな折に小耳に挟んだのが、友野屋が最近始めた『株札』という新しい商売の仕組みだった。元手を出し合った割合に応じて株札を持ち合い、定期的に寄り合いを開いて、課題への対処法を株札の多寡で決する。
この仕組みであれば、元手の全額を用立てる事なく、新たな商いを始める事が出来るかも知れない。そう考えた五左衛門は、茶店の店主一人一人に声をかけて少しずつ銭を集め、自らの蓄えを切り崩してまで百貫文を揃えて、こうして友野次郎と、結との談判にこぎ着けたのだ。
「成程…ゆくゆくは駿府館や公家屋敷にも納められるような、上物の菓子を作る事も考えておいでなのですね?」
「い、いいえ、そんな恐れ多い…あ、いや。実はその、その通りにございます。」
結の静かな声色にしどろもどろになりながら、五左衛門は辛うじて返事をした。
「いかがでしょう、友野屋殿。五左衛門殿の申し出は上手く運ぶと思われますか?」
「難しゅうございますな。まず用立てて参られた元手が百貫文とは。仮に株札を十枚とし、若奥様とそれがしが九百貫文を都合すれば、元手は一千貫文になりますが、五左衛門殿の株札は一枚。配当金も一割になってしまいます。もし各々方が、今すぐにでも駿府館や公家屋敷に納められる程の菓子を作れる、というのであれば、それに免じて株札を譲るも、やぶさかではございませんが…。」
そんなものはない。新しい菓子を作る時間と金が欲しいからこそ、株札を欲したのだ。
友野次郎の言葉に反論出来ずにいた五左衛門は、脇に置いてあった風呂敷包みをほどき、二人の前に差し出した。中身は団子や餅など、茶店で出している素朴な菓子だった。
「何卒、何卒お慈悲を…!この百貫文は、市中の茶店が身を削って絞り出した、なけなしの銭にございます!この菓子も、どうかお召し上がりください!粗末な菓子にございますが、どうか、どうか一口…!」
「落ち着いてください、五左衛門殿。友野屋殿、折角お持ちいただいたお菓子を無碍にするは勿体無うございます。側付きの者に毒見をさせますゆえ、お召しになりませんか?」
「…承知仕りました。白湯もいただきましょう。」
やがて数人の侍女が動き出し、三人の前に白湯が入った湯吞が置かれると同時に、菓子がそれぞれ三つに切り分けられる。うち一式は毒見として侍女の口に消え、残る二揃いが皿に乗って結と友野次郎の前に運ばれた。
「…まあ、茶店の菓子と言えばこんなものでございましょう。砂糖もおいそれとは使えませんでしょうしな。」
一通り口にしてから酷評する友野次郎を、五左衛門が恨めし気に見つめていると、同様に食べ終わった結が、湯吞から口を離してしばし考え込み、おもむろに口を開いた。
「友野屋殿。二十もの茶店にそれぞれ小麦や砂糖を卸すのと、一つ所に同じ分量を卸すのとでは、どちらが手間がかかりませんか?」
「…それは、無論後者にございましょうな。何なら駄賃も減りましょう。」
「五左衛門殿。それぞれの茶店に味のこだわりはございますか?どうしても菓子の作り方を変えたくない、というような。」
「い、幾つかの店にはございますが、大抵は目分量で…どこもさして変わりはないかと…。」
二人の回答に、心なしか笑みを深めた結は、突然近くにあった文机を引き寄せ、何事か書き始めた。
紙の上を筆が滑る音が、静かな部屋に木霊する。
ややあって、結は何事か書き連ねた紙を友野次郎に手渡した。
「友野屋殿がご覧の後は、五左衛門殿にお渡しください。当面の難所を越える案が記されております。」
友野次郎から紙を受け取った五左衛門は、その内容を目を皿のようにして見た。
『元手総計二百五十貫文。内訳、御手洗屋百貫文、友野屋百貫文、今川五郎室五十貫文。
株札十枚発行すべき事。内訳、御手洗屋四枚、友野屋四枚、今川五郎室二枚。
茶店は厨を各々構えず、一つ所に設けるべき事。
茶店で給する菓子、能う限り同一にすべき事。』
資本金は御手洗屋が持参した百貫文に、友野屋が百貫文、結が五十貫文を加えて合計二百五十貫文。
株札の保有比率は御手洗屋、友野屋、結の順で4:4:2となる。
そして、茶店がめいめいに調理をするのではなく、同一の品物を、一箇所で調理してから店に運び、客に提供する、という提案が示されていた。
「わ、わ、若奥様?これは一体…。」
「ひとまず上物の菓子は先の話として、市中の茶店が落ち着いて切り盛り出来ないかと思ったのです。先ほど友野屋殿が仰った通り、同じ量でも一度に仕入れれば、総じて安く済みます。加えて、『一揆』に加わった茶店であれば、どこに行っても同じ菓子を同じ代金で食べられる。そんな噂が立てば、お客は安心して店に来られるのではないでしょうか。無事に売り上げが伸びれば、その儲けを元手に新しく上物の菓子を作れると思うのですが。」
結の解説に呆然としていた五左衛門は、理解が追いつくにつれて何度も頷いた。
「成程、成程これなら確かに…。」
「ただし、五左衛門殿には守っていただきたい儀がございます。」
五左衛門が顔を上げると、どこか凄みを感じさせる笑顔で、結が続けた。
「よいですか?この案によれば、株札十枚の内四枚を五左衛門殿が持つ事になります。五左衛門殿は二十もの茶店の筆頭としてここに来られた。であれば、月ごとの株主総会に先立って、必ず一揆の心を一つにしてからお出でいただきとう存じます。もし一揆をまとめられないようであれば、株主総会にて、五左衛門殿には株主を辞めていただく事になります。」
「え!い、いや、儂はただ、銭の都合を付けていただきたい一心で…。」
「どうやら五左衛門殿は、株札の何たるかをご存知ないようでございますな。」
突然の要求に慌てて弁明する五左衛門を、友野次郎が冷たい声で切り捨てた。
「商いの元手を一人で用立てられなくとも、よそから銭を都合出来るのが株札の長所にございます。されど、株主はただ配当金を受け取るという『権』を持つのみにあらず。総会にて己の存念を明らかにし、店のかじ取りに合力する務めがございます。五左衛門殿は茶店一揆の筆頭なれば、総会にてもそのように振る舞っていただきたい。言を左右にして定まらぬようであれば、若奥様とそれがしの札、合わせて六枚をもって、五左衛門殿には退いていただく事に…。」
「お、お、お待ちくだされ!い、一度持ち帰り、皆と相談を…。」
「何を悠長な。若奥様に何度もご足労いただくお積もりか。株札を諦めてお帰りになるか、茶店一揆の筆頭として一同を説得するか、この場で決められよ。」
突然重大な決断を迫られ、思考を空回りさせる五左衛門の耳に、まるで天界の雅楽のような、心地良い声が奏でられた。
「友野屋殿、まあそのくらいで…。今貴方が仰った通り、株札を得た暁には、友野屋も茶店一揆に合力するという事ではありませんか。」
結の言葉に、友野次郎は顔をしかめ、小さく咳払いをした。
「勿論、にございます。まずは茶店一揆が用いる厨や、各々の店先で菓子を温めるための道具を買い揃えましょう。商いの指南のため、友野屋からも人を貸します。期限は…若奥様に免じて半年と致しましょう。」
「まあ、お優しい事。お聞きになりましたか、五左衛門殿。茶店一揆の面倒を、友野屋殿が半年もの間、無料で見てくれると言うのですよ。」
「それでも商いが立ち行かないようであれば、茶店一揆の株札はそれがしが頂戴する。茶店の敷地も、建物も、家財一式も、一切合財それがしの思うがままにさせていただこう。」
二人の言葉に、全身を冷や汗で濡らしながら震えていた五左衛門は、大きな石を飲み込むかのように、目をきつく閉じ、唾を飲んだ。
「…やります。やらせていただきます。茶店一揆は儂が命に代えても説得致します。どうせこのままでは皆共倒れ。若奥様と友野屋殿の申し出、有難く乗らせていただきます…!」
「…良いでしょう。そこまで仰るのであれば、それがしとて手を貸すにやぶさかではない。」
「ご決断、お見事にございます。これからは共に力を合わせ、駿府の茶店を盛り立てて参りましょう。」
友野次郎と結の言葉に、五左衛門殿はようやくぎこちない笑顔を見せたのだった。
茶店一揆に友野屋と結が出資する事が決まった後、五左衛門を加えた三人は、共同厨房の建設候補地や店の品揃えなどについて大まかな方向性を定め、半月後に株札の分配を行う事で合意した。
つまりその日が茶店一揆の実質的な開業日であり、それから半年以内に十分な成果を上げられない場合は、茶店一揆は友野屋に接収される事になる。
「あのう…お二方のご意見を伺ってもよろしいでしょうか…。」
帰り際になって五左衛門がそう切り出したのは、今更後には引けないと分かっていながらも、先行きへの不安に耐えかねたためだった。
「実は、上物の菓子について茶店の寄り合いで幾つか案が出ておりまして…中でも良さそうに思えましたものについて、お二方のお知恵を拝借したく…。」
「どのようなお菓子なのですか?」
結の声色に、甘味に対する年相応の興奮を感じ取りながら、五左衛門は菓子の製法を数え上げていった。
「小麦を水で溶いた生地を金型に入れ、熱して程よく固まった所で、小豆を茹でて潰し砂糖を混ぜた餡を乗せます。その上にまた生地をかけて熱すれば、ふかふかの生地に餡がくるまれたものが出来上がりまする。この菓子なのですが…。」
「まあ、『今川焼』ですか。それは大変美味にございましょう。」
結の言葉に、五左衛門は目を丸くして友野次郎を見やった。
友野次郎もまた、呆気に取られた様子で結を見ていた。
「…?どうされました、お二人共。何かおかしな事を申しましたでしょうか?」
「あ、いえ、その、恐れながら…この菓子には未だ名が付いておりませなんだゆえ…なにゆえ若奥様が『今川焼』などとお呼びになられたのかと…。」
五左衛門の問いに、結は先ほどまでの堂々とした態度が噓のように、衣の袖で顔の下半分を隠し、黙り込んだ。
息詰まる沈黙の後、結が口にしたのは意外な言葉だった。
「今川焼…新しい菓子にはその名が相応しいと、そう思ったのです。太守様のお膝元で、私が出した銭を元手に作るのであれば、今川焼を名乗っても不都合は無いでしょう。」
「されど、今川を焼いて食うなど、あまりに不敬では…。」
「良いのではございませんか?」
援護したのは、意外にも友野次郎だった。
「今川焼、今川焼と唱えてみると、殊の外しっくり致します。砂糖や金型は高くつきましょうが、製法もさほど難しくは無いでしょう。あるいは駿河の名物になるやも知れませぬ。」
「友野屋殿にそう言っていただけて、私も嬉しゅうございます。『今川焼』の名を使っても良いかどうか、私から太守様にお伺いしておきましょう。」
未だ開発途中の菓子に大仰な名が付いた事に戸惑いながら、夕暮れの中、五左衛門は友野屋の別邸を後にしたのだった。
半月後、懸命の説得で同業者達の意見をまとめた五左衛門は、友野屋の別邸にて証文に署名し、茶店一揆は正式に駿府での商いを始める事となった。
初めの数か月は、従来の営業形態と、統一基準を守らせようとする友野屋の方針との間で多少の衝突があったものの、『茶店一揆』の旗を掲げた茶店であれば、決まった時間帯に、決まった代金で、一定の飲食サービスを受けられるという評判は着々と広まっていった。
また、並行して進められていた上物の菓子作りも、結や今川家のお墨付きを得て開発された『今川焼』が高い評価を受け、茶店一揆の売り上げに大きく貢献する事になった。
特に需要があったのは武家や公家の宴席で、夜、庭先に茶店一揆の厨人を招き、焼いたばかりの『今川焼』を頬張るという行為が大いに流行したのだった。
結果、約束の半年以内に『茶店一揆』の業績は向上。業績が振るわない店舗の閉店や移転といった苦境を乗り越えつつ、継続的に儲けを出し続ける体制を整える事に成功したのだった。
晩年、御手洗屋団五左衛門はこう語ったと言う。
小田原から来た若奥様は閻魔大王のように厳しく、地蔵菩薩のように優しいお方だった、と。
そして、初めて『今川焼』の試作品を口にした時の彼女の笑顔は、自分にとって何にも勝る、一生の宝である、と。
お読みいただきありがとうございました。