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#081 駿河より愛をこめて

今回もよろしくお願い致します。

『拝啓 北条左京大夫殿 御前様

 秋深まるこの頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。太守様、寿桂様のお心遣いもあり、私は日々健やかに暮らしております。

 さて、先ずは西堂丸殿お生まれの事、心よりお祝い申し上げます。今は亡き天用院殿に劣らぬ、立派な武者にお育ち遊ばされますよう、駿府よりお祈り申し上げます。つきましては、先日今川の御用商人、友野屋より買い入れました「さぼん」を手紙に添えてお送り致します。

 「さぼん」は表面に水をつけ、衣服にこすり付けると出る泡によって、汚れを落としやすくするもので、南蛮渡来の珍品にございます。削って飲めば腹下しになるとも聞きましたが、幼子(おさなご)には毒にございますゆえ、どうか西堂丸殿のお口に入らぬよう、取り扱いにはくれぐれもご注意ください。

 さて、五郎殿におかれましては、左京大夫殿と太守様のお取り計らいが功を奏し、心も新たに日々文武の稽古に(いそ)しんでおられます。名実共に今川の麒麟児となられる事、遠からずとお見受けします。私も(かげ)日向(ひなた)に、五郎殿をお支えして参ります。

 寿桂様には七日おきに稽古をつけていただき、今川の妻として恥ずかしくない振る舞いを身に付けるべく、精進を重ねております。

 未だ身の回りが落ち着かず、太助丸殿とゆっくりお話する(いとま)もございませんが、近くお会い出来ればと心待ちにしております。

 知行割に屋敷の奥向きの差配と、日々のあれこれに頭を捻る度に、左京大夫殿と御前様の器量の大きさを痛感する次第です。さりながら、小田原より連れて参りし侍女、武士の手助けもあり、苦労を苦労と覚える間も無く、時が過ぎ去ったように感じます。駿府に嫁いでより新たに加わった側付きや、屋敷の下人の手も借りて、今後とも五郎殿と今川をお支えしていく所存です。

 師走(しわす)には新九郎殿の婚礼が執り行われるよし、つつがなく終わりますよう、これもお祈り申し上げます。

 最後に、左京大夫殿と御前様の健康長寿と、北条の益々(ますます)の繁栄を願って、結びの言葉に代えさせていただきます。 敬具

今川五郎室 ゆい』




天文23年(西暦1554年)9月 小田原


「そうかい…ズッ、万事順調なようで、ズッ、何よりじゃねえか、ズッ…。」


 相模国(さがみのくに)、小田原城。

 北条家の本拠地である城の本丸御殿にて、北条家当主、左京大夫氏康と並んで娘から届いた手紙を読んでいた正妻、(みつ)は、肩を震わせながらしゃくりあげる夫に、懐紙をそっと差し出した。


「まあ、泣く事はないではありませんか。」

「泣いてやしねえ!ただな…。」


 懐紙を受け取った氏康は、大きな音を立てて二度三度と鼻をかみ、丸めた懐紙を背後の近習に押し付けた。


「…随分と他人行儀になったもんだと思ってよ。左京大夫殿に、御前様と来やがった。ちょっと前まで、父上、母上と呼んでたくせによお…。終いにゃ、今川五郎室って、おめえ…。」

「今川に嫁いだのですから、当たり前ではないですか。何を今更。第一、義弟(おとうと)殿が目を通すであろう書状の中で、わたくし達を実の父母のように扱う事など出来るはずがないでしょう。」


 満が呆れ顔で懐紙を渡すと、氏康はまたも大きな音を立てて鼻をかんだ。


「何でかあちゃんは平然としてられんだ。悲しくはねえのかい。」

「無論、わたくしも寂しゅうございます。されど、あの子が健やかに暮らしていて、こうして手紙を送ってくれる。それだけで仕合せな心持ちにございます。それに…。」


 満は袂を抑えて、娘が書いた手紙のそこここを指さした。


「あの子はわたくし達の事を、こんなにも気遣ってくれる。西堂丸殿の事、新九郎(氏政)殿の事…。最後にはわたくし達の事まで。わたくしは、その心遣いが何より嬉しいのです。」

「…ああ、そうかい。俺は東海の三か国を()り損なって、これでも気落ちしてんだがな。」


 今川領への野望を口にする氏康に、満は含み笑いを漏らした。


「ご冗談を。遠縁の北条が今川を乗っ取っては、世間の外聞が悪くなると仰せだったではありませんか。五郎殿が早朝から稽古に励み出したと知らせを受けた折など、博打(ばくち)に勝ったと大層お喜びになって…。」

「ちっ、聞かれてたってのか。…まあ、いきなり太助丸を押し立てても、今川の国衆が素直に従うたあ考えにくかったしな。だが、五郎殿が(あいつ)に負けても立ち直れねえようなら、俺は本気で治部大輔殿や寿桂殿に談判する積もりだったぜ。」


 三島から小田原に戻った後、氏康は駿府から相次いで急報を受け取った。一つ目は『駿府館御前試合五番勝負』なる八百長試合で、結が完勝を収めた事。二つ目は敗者である今川五郎氏真が、それまでとは打って変わって文武の稽古に励んでいるとの事だった。

 氏康は自分の賭けが的中した事に満足すると共に、娘を連れ帰る口実が完全に消滅した現実に少なからず哀愁を覚えたのだった。


「殿と義弟殿は博打に勝ち、五郎殿は奮起され、母上と結の仲も睦まじそうで、何よりでございます。仕合せのあまり、怖くなってしまいそうです。」

「…そうだな、怖えくらいだ。」


 氏康の声の低さに、満は反射的に居住まいを正した。


「何か良からぬ(きざ)しでも?」

尾張(おわり)に潜らせてる乱破(らっぱ)から知らせがあった。前々から結が気にかけてた織田(おだ)上総介(かずさのすけ)が、随分と派手に暴れてるらしい。」


 氏康は脇の文机から東海道一帯の地図を引き出すと、満の前に置いて指さした。


「今年の初め、今川の調略に乗った尾張の国衆が、上総介から相次いで寝返った。上総介の城はここ、那古野(なごや)にあるが、清洲(きよす)の連中と折り合いが悪くて城を空けられねえ。治部大輔殿の勝ちは明らか、と俺も踏んだんだが…。」

「義弟殿が負けたと?」

「いや、精々引き分けだな。尾張一国も押さえられねえ若造に、治部大輔殿が手こずるってのも薄気味悪い話だが…美濃の斎藤からもらった嫁さんを盾に、稲葉山から加勢を取り付けたんだとよ。」

「まあ、では美濃勢を連れて城を取り返しに…。」

「いや、美濃勢は那古野の守りに残して、てめえの手勢だけで村木の砦を落としたんだとよ。何とも思い切りのいいこった。」

「他国の軍勢を守りに残して…それは何とも、豪胆なお方にございますね。」

「もう一つ、気になる事がある。七月、ちょうど結が輿入れした頃だ。清洲で謀反が起こって、守護殿が殺された。」

「まあ、何と恐ろしい…。」

「ところがそれだけじゃねえ。何と逃げ出した守護殿の息子を、織田上総介が(かくま)ったんだとよ。これで清洲の連中は謀反人、上総介は大義名分を手中に収めたって訳だ。」

「清洲…殿、わたくしの思い違いでなければ、確かその地は…。」


 叫び声を押し殺すように袖を口に当てる妻を見ながら、氏康は重々しく頷いた。


「そうだ。結が夢に見た『桶狭間合戦』とやらの折、上総介が出陣した城だ。」


 もし信長が清洲を攻略すれば、状況は結が夢に見た情景に一歩近付く。

 国力で圧倒的に劣勢でありながら、義元と渡り合う信長の手腕も相まって、氏康と満は言い知れぬ不安を覚えた。


「…殿、義弟殿にさり気なくご忠告申し上げるべきでは?」

「そうしてえのは山々だが、どう言ったもんか。俺は『桶狭間』がどこにあるかも知らねえんだぜ?その俺が、桶狭間に気い付けろ、なんて言ったってよ…。」


 時は乱世、将来的に今川と敵対する可能性が皆無ではないとは言え、娘を輿入れさせてまで成立させた同盟を早々棒に振りたくはない、というのが氏康の本音だった。


「では、結に返事を書く際に、さり気なく今の事を結に伝えて、『桶狭間合戦』のお話を義弟殿にもされるよう、促されてはいかがでしょうか。幸い、義弟殿もあの子を気に入ってくれている様子。それでも、義弟殿が討ち死にを避けられないのであれば…。」

「…天命、かも知れねえな。分かった、その手で行こう。」


 氏康は妻と顔を寄せ合って頷き合うと、娘の手紙に添えられていた小箱に目を向けた。


「しかしなあ…この、『さぼん』ってのが、本当に洗濯の役に立つってのか?」


 すでに小箱は開けられ、二人共中身を確認している。入っていたのは両手で持てる大きさの、長方形の灰色の塊。

 結の手紙によれば、着物の汚れを落ちやすくする働きがあるとの事だが…。


「洗濯の折に試させてみましょうか。それにしても、これも南蛮渡来とは、中々手に入らない希少な物なのでしょうね…。」


 『さぼん』をまじまじと見つめる妻を横目に、氏康は今川から贈られたもう一つの南蛮渡来の品――『鉄炮』に関する家臣の報告を思い返していた。




 城内の練兵場で行われた実射試験によって、鉄炮の性能についてはおおよその分析が完了している。

 鉛玉が飛ぶのは精々一町から二町(約100~200メートル)、的に当てるには二十間(約40メートル)まで近付く必要がある。

 一度発砲してから次の発砲まで、弓矢よりも格段に時間がかかる。

 一方で、弓矢と違って鉛玉と弾薬(たまぐすり)の補給が容易ではなく、発砲時の轟音で位置を特定されやすい。

 しかも火縄が湿ると、使い物にならなくなる――と散々な言われようだったが、氏康は鉄炮に未知の可能性を感じていた。

 というのも、先ほど妻に話した村木砦攻めの折、信長は堀端に陣取って複数の鉄炮を代わる代わる撃たせ、砦の反撃を封じ込めたという報告が上がっていたからだ。

 加えて、城内の様々な役目の者に試射をさせた所、誰が撃っても威力が同じである事に気付き、氏康は戦慄した。現役の鎧武者が放った鉛玉も、年老いた文官が放った鉛玉も、等しく的を破壊したからだ。

 それはつまり、稽古を重ねた武士でなくとも――百姓町民は言うに及ばず、非力な老人、女子供であっても――使い方を身に付ければ、鉄炮で人を殺せる事を意味していた。




「かあちゃん。もし、どうしても戦わなきゃならねえとして、足軽の長槍よりも遠くから、大した稽古もなく相手を撃ち殺せる武器があったとしたら、そいつを使うか?」


 氏康がやにわに言い放った言葉に、満は一瞬虚を突かれた後、珍しく表情を引き締めた。


「勿論です。戦う事を恐れて、左京大夫殿の妻が務まりましょうや。」

「…そうか、愚問だったな。」


 氏康は頼もしい返事に口角を上げながらも、次に募集する足軽達に鉄炮の稽古を付ける算段を、頭の中で整え始めていた。

お読みいただきありがとうございました。

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