#077 求む、常勤医と傭兵部隊
今回もよろしくお願い致します。
※やや恋愛要素ありです。
天文23年(西暦1554年)9月 駿府館
「…先の言葉、ゆめゆめ違えるべからず。五郎殿いわく、心得まして御座います、と…。」
「若奥様、お見えになりました。」
「分かったわ、今参ります。」
私は文机の上で紙に走らせていた筆を一旦脇に置き、お客様が待つ客間に向かった。
季節はすっかり秋。
黄色や赤に色付いた山の上を、色味を増した青空に、特徴的な形の雲が撫でて行く。
五郎殿との『駿府館御前試合五番勝負』が終わってから、私を取り巻く環境は大いに改善したと言って差し支えないだろう。
何はさておき、まずは五郎殿との関係性だ。
二日酔いから徐々に回復した五郎殿は、夕飯にお粥を食べ、身を清めた後、私が待つ寝室に寝間着姿で入室するや否や、私に向かって土下座した。
「これまでの事、誠に相済まなんだ。女子供と侮って忠告を蔑ろにした事、どうか許して欲しい。」
「え、あ、いいえ、五郎殿、まずはお顔をお上げくださいませ。私こそ、夫を謀るような真似を…。」
あまりにも潔い五郎殿の態度に気圧され、罪悪感に襲われる私に、五郎殿は顔を上げると、目をキラキラさせながらにじり寄った。
「何を申す。五番勝負の間乱れる事の無かった堂々とした立ち居振る舞い。父上が仰った通り、儂の行状を改めるためではないか。それに、一騎打ちの折に見せたあの剣さばき。かの尼将軍、北条政子殿の生まれ変わりかと思うたぞ!」
北条政子の武芸に関するエピソードに心当たりが無かったため、反応に困っていると、五郎殿は我に返ったように空咳をした。
「すまぬ。気が昂ってしもうた。ともかく、明日から心を入れ替えて励まねばならぬ。まずは何から始めるべきであろう…。」
「恐れながら、まずは身の回りの臣下のお顔とお名前をご記憶される事から始めるべきかと。何を隠そう、かつて私も側付きの面倒を見ておらぬがゆえに、様々な揉め事を招いた経緯がございます。五郎殿に覚えていただいていると知れば、屋敷に務める者達の士気も上がるかと。幸い、あちらの棚に私が書き付けた目録がございます。明朝、朝餉の後に全員を集め、一人一人名をお呼びになって確かめるがよろしいかと…。」
「何から何まで済まぬのう。それが終わり次第父上に掛け合って、諸学の指南役に改めて挨拶に回らねば。…ああ、やらねばならぬ事ばかりじゃ!」
言葉面とは裏腹にウキウキした様子で、五郎殿は何度も膝を叩いた。
しばらくそんな仕草を繰り返した後、五郎殿はハッとして私を見つめた。
「そなたは初夜の折、こう申したな。儂の妻として恥ずかしくない女子になる、と。その誓い、そなたならきっと成せよう。なれば儂こそ、そなたの夫として恥ずかしくない当主にならねばならぬ。そうして初めて、我らは真に夫婦となろう。」
今日一日で様変わりした五郎殿の目力に圧倒されていると、不意にその両目が私の視界に迫り…。
「…今日はここまでにしておこう。」
五郎殿は上ずった声でそう言うと、私に背を向けて布団を引っ被った。
私は唇に残った感触に呆然としたまま、一向に灯台の明かりが消えない事を不審に思った侍女が外から声をかけるまで、正座のまま硬直していたのだった。
翌朝、朝食を済ませた五郎殿は、屋敷勤めの皆さんと改めて顔合わせを行い、義元殿の屋敷に向かった。戻って来た五郎殿によると、今川家中の指南役や駿府に居住する専門家に稽古を付けてもらう目途は立ったのだが、剣術指南役に五郎殿が希望していた塚原卜伝先生については、まず現在の住所を確認する所から始める必要があるとの事だった。
しかし五郎殿の体には新当流のクセがある程度ついているため、今から新しく別の剣術を学ぶのも合理的ではない。よって卜伝先生をお招き出来るという確証が得られるまで、五郎殿は家中の若武者に混じって、木刀をひたすら振るう基礎練習に従事する事になった。それも朝起きてから、朝食を取る前に、である。
ご飯前に運動とか、拷問かプロアスリートでもなきゃやらないだろ、と内心ツッコミを入れたものの、肝心の五郎殿は毎朝欠かさず練兵場に通い、屋敷で軽く汗を拭いてから朝食を取る、というルーティーンをたゆまず続けている。私はと言えば、朝の鍛錬を始めてから朝食が美味しくなった、と笑う五郎殿の顔を見るたびに顔が火照ってしまい、まともに見られるようになるまでしばらくかかった。
朝食後、指南役をお迎えして、あるいは義元殿の屋敷に五郎殿が伺って、兵法や治世論などの座学を復習。午後は引き続き座学に取り組む事もあれば、以前から付き合いのある公家に招かれて外出する事もある。これに関しては、京との繋がりを重視する今川の家風もあり、義元殿から禁止されている事は特にない。
以前と違うのは、外出時に五郎殿が帰宅時刻の見通しを教えてくれ、予定が狂ったらその都度使者を寄越してくれるようになったため、私や使用人の負担がぐっと減った点だ。『私と会社、どっちが大事なの⁉』みたいな思いをする必要もなくなり、万々歳だ。
五郎殿の所領の管理については、暇を見つけてはやってもらっている。どの道収穫シーズンを終えた今になって出来る事は限られているが、来年の年貢徴収には十分間に合うだろう。
五郎殿は初め、自分の所領の管理から知行割まで一人で見直そうとしたが、文武の稽古にお公家様とのお付き合いと並行しながらでは無理があった。結局、普段屋敷にいる私が会計処理をして、内容を五郎殿に決裁してもらう事で落ち着いたが、五郎殿は毎回ちゃんと読んだ上で決裁してくれている。
以前と比べれば雲泥の差だ。
駿府に来てから側付きになった侍女六名も、すっかり大人しくなった。
何でも、御前試合での私の働きと、倒れた五郎殿を介抱した小田原衆の手際の良さに自信を喪失したとの事だが、後者はともかく、八百長の片棒を担いだ私にまで気後れする理由がよく分からない。
いずれにせよ、『ウザい風紀委員』が鳴りを潜めた機を捉えて、私は輪番表を組み換え、小田原から随行して来た十二名と、駿府で新たに加わった六名を、人数比率の通り二対一の割合でミックスされた配置に変更した。
これで毎日の生活のペースを維持しつつ、『今川のしきたり』を学ぶ事が出来るだろう。
寿桂様との付き合い方も随分変わった。
毎月七の倍数の日、つまり七、十四、二十一、二十八日の四回、寿桂様の使者が護衛を伴って駿府館を訪れ、私を寿桂様の屋敷まで送迎してくれる。
私は側付きの侍女と『東条源九郎』を伴って――短刀の携行については寿桂様から特に細かく指示があった――寿桂様の屋敷に伺い、楽器の演奏やお公家様との話し方、台所の差配から手料理等々の指南を受ける。
正直、料理は前世でもほとんどしていなかったため、その道のプロである厨人に丸投げでいいんじゃないかと思っていたのだが、寿桂様は至って真剣だった。
「人それぞれ、好みというものがあります。また高貴な身分のお方ともなれば、膳にも風流を求められるもの。ただ口に入り、腹が膨れればよいというものではありません。客人のお心を満たすためにも、献立には気を配らねば。」
そんな訳で、寿桂様の屋敷で一通り習い事を済ませ、与えられた課題を次の週までにやって来る、というのが最近の私の日常だ。課題曲をマスター出来なかったり、包丁を上手く扱えなかったりと失敗も多いが、寿桂様はハードルこそ下げなかったものの、怒らずに教え方を工夫したり、私が出来るようになるまで根気強く付き合ってくれたりしたので、最初の頃に比べれば多少は上達したと思う。
寿桂様の屋敷での稽古は辛い事ばかりではなく、昼下がりになるとお茶とお菓子を出してもらえるため、侍女達にはたまのご褒美と受け止められているようだ。
実は私も、この時間は割と楽しみにしている。母上が駿府で暮らしていた頃の話などを、寿桂様から聞く事が出来るからだ。
「こうして貴方と茶を飲んでいると、あの子と暮らしていた頃を思い出します。」
ふと、寿桂様が漏らした一言に、私は何となくくすぐったい気持ちになったのだった。
こうして私は駿府で幸せに暮らしました、めでたしめでたし…と終わらせる事が出来れば良かったのだが、世の中そうは行かない。
雪斎殿が言った通り、禍福は糾える縄の如し。良い事の後には悪い事、或いは新しい厄介事がやって来るのだ。
例えば…。
「御前試合での立ち居振る舞い、真にお見事にございました。」
「お褒めに与り、光栄です。」
五郎殿がいない昼下がり、屋敷の客間で、目の前の若武者に、私は努めて事務的に返答した。褒められるのはまんざらでもないが、相手によっては事情が変わって来る。
何せ目の前にいるのは松平竹千代殿。
三河の国衆の息子でありながら一門衆並みの厚遇を受け、関口刑部少輔殿の長女である瀬名殿との婚約も決まっている、若き有望株なのだ。
つまり本来は文武の稽古や有力者とのコネ作りに奔走しているべきであり、主君の息子の屋敷に押しかけて私との面会を希望しているヒマは無いはずなのだ。
「時に竹千代殿、本日の稽古はもうお済みで?」
「理由を付けて抜けて参りました。一刻も早く、若奥様とお話したく。」
「それ程急を要する案件にございましょうか。」
「はい。とにかく若奥様の事を考えると居ても立っても居られず…。」
純粋無垢な輝きを両の目に宿し、自然と距離を縮めて来る竹千代殿に、私は本能的に危機感を抱いた。
あいにく前世でイケメンに言い寄られた経験は無いが、『天然ジゴロ』とやらの噂は耳にした事がある。竹千代殿はまず間違いなくそれだ。男も女も、自然と惹きつける謎の魅力がある。
ここがもし、シナリオを把握している乙女ゲームの世界とかだったら、火遊びを楽しんでも良かったかもしれないが、現実はそうも行かない。私はとっくに五郎殿の妻だ。
しかし恋愛経験ゼロの身としては、こういう大人の恋愛にどう対処したものか、すぐには思いつかない。相手は良かれと思って私を褒め称えに来ただけ、しかも五郎殿より年下とは言え私より年上の青少年だ。むげには扱えない。
ただ、自分と相手が置かれた立場を勘案すれば、意外とすんなり答えは出た。
「それ以上お近づきになりませぬよう。」
私はそう言って、腰帯に差していた短刀を抜き放ち、切っ先を自分の喉元に当てた。冷たい感触に背筋が寒くなるが、ここは譲れない。
「わ、若奥様⁉何を…。」
「近寄るな!…と申しております。」
私の怒声に、竹千代殿は伸ばしかけた手をおずおずと引っ込めた。
「若殿の妻と二人きりで話すなど…私に不貞を働くお積もりですか。」
「ふ、不貞⁉せ、拙者はそのような積もりは毛頭…。」
「竹千代殿の存念を伺っているのではございません。家中、世間からどう思われるかを問うておるのです。まして竹千代殿には瀬名殿との婚約がございましょう。もっとご自分の置かれた立場をお考えください。…私に指一本でも触れようとなされば、私は喉を突いて操を守ります。」
ハッタリである。メンタルが現代日本人の私に、そんな覚悟があろうはずも無い。
幸い竹千代殿は顔を真っ青にして後ずさると、私に向かって土下座した。
「拙者の考えの浅き事、どうかお許しを!何卒、何卒刀をお納めくだされ!」
私が内心ホッとしながら短刀を鞘に収めると、竹千代殿は挨拶もそこそこに屋敷を飛び出して行った。
そばに控えていた百ちゃんが、心配そうに問いかける。
「若奥様、お怪我はございませんか?若奥様ご自身があれほどなさらずとも、わたくしが竹千代殿の肩を外して差し上げたものを…。」
うん、それはそれで別の問題が発生するからやめようか、百ちゃん。
「太守様が目をかけておられるお方に、乱暴を働く訳にも行かないでしょう。竹千代殿は心根がお優しいけれど、優しさが常に人を仕合せにするとは限らないという事を知っていただきたかったの。…これで見境なく我が家を訪れる事が無くなれば良いのだけれど。」
私が言った通り、竹千代殿が私一人の時間帯を狙って屋敷を訪れる事は、その後二度と無かった。
しかし、およそ十年後、この時の振る舞いを思い出して、私は大いに後悔する事になる。
さて、他に問題があるとすれば主に二つ。薬師の不在と、屋敷の警固役の増員についてだ。
ドタバタしていてすっかり忘れていたが、未だに屋敷には薬師がいない。しかも色んな人に聞いて確認した所、この時代に医師免許などというものはなく、誰でもお手軽に薬師を名乗れてしまう事が判明した。駿府の市中から適当に薬師を連れて来て、ヤブだったら目も当てられない。
警固役の増員は五郎殿の提案で、五郎殿が外出した時に屋敷の警固が手薄になってしまう現状を危惧しての事だ。
五郎殿の所領を点検した結果、新たに四人雇う方向で話がまとまったのだが、義元殿から待ったが掛かった。人を見極める目を養うためにも、市中の浪人を足軽として雇い、真に士分としての器量あらば、その時改めて取り立てよ、とのお達しだ。現代風に言えば、試用期間を経ての正規雇用である。侍の場合、土地は命やプライドにも関わるから、尚更軽々には与えられないという訳だ。
私達が頭を悩ませたのは、薬師や浪人を募集する当てが無い事だったのだが、ある日寿桂様の屋敷にお稽古に行った際、思い切って相談すると、これ以上ない適役を紹介してくれた。今から会うのはその人物だ。
五郎殿と廊下で合流し、客間の上座に並んで腰かけると、下座で一人の男が平伏していた。
「その方、名を名乗れ。面を上げよ。」
「ははーっ、お初にお目にかかりまする。友野次郎と申しまする。以後、どうかお見知りおきを…。」
五郎殿の言葉で顔を上げたのは、五郎殿とそう歳の変わらない、上等な衣服をまとった青年だった。
友野次郎。
今川家の御用商人であり、駿河の流通を一手に握る豪商の、若き当主である。
お読みいただきありがとうございました。




