#076 お祖母ちゃんの泣き所
今回もよろしくお願い致します。
今川義元の屋敷で『駿府館御前試合五番勝負』が執り行われた日の夜。
駿府館からやや離れた場所に建てられた屋敷の客間に灯台が立てられ、二人の影法師を揺らめかせていた。
「蕎麦切りの味はいかがにございましょう。」
下座に腰かけた老尼僧――この屋敷の主である、寿桂が厳かに問いかけた。
「美味にござる。とりわけ、この付け汁が絶妙な塩梅で…。義母上はもう夕餉をお召しになられましたか。」
上座から、膳に並べられた蕎麦切りや添え物に舌鼓を打ちながら、客の男――今川治部大輔義元が聞き返す。
「ええ、既に。されど太守様、なにゆえかような時に拙宅まで…?」
義元は皿に残っていた蕎麦切りを箸ですくい、一、二度付け汁に浸すと、大きな音を立てる事なく一気にすすり、静かに咀嚼してから飲み下した。
「何、久方ぶりに義母上の手料理を味わいとうなったまで。そう言えば、結殿も蕎麦切りを殊の外気に入った様子。いかがにござろう、義母上手ずから、結殿に料理の手ほどきをなさっては…。」
「あの子には雛菊を付けてあります。五郎殿の屋敷での暮らしが落ち着けば、台所の差配も、雛菊から学ぶ事でしょう。」
義理の親子とは言え、主君の言葉を遮るという不敬を働いた寿桂に、義元が微笑みを崩す事は無かった。
「それはいかがにございましょうや。余の見る所、今日の試合の成り行きに、義母上が割り当てられた侍女共はすっかり縮こまっている様子。ここはやはり、義母上が出張った方がよろしいかと…。」
しばらく唇を引き結んでいた寿桂は、やがて意を決したように、義元の目を真っ直ぐ見つめた。
「こたびの御前試合、五郎殿の覚悟を見定めるためのものであった事に異論はございませぬ。されど、五郎殿が立ち直れなければ、真に北条に名跡を譲り渡すお積もりにございましたか。」
「…乱世において、重んじるべきは長幼の序よりも器量の大きさ。」
義元の呟きに、寿桂の瞳が僅かに揺れた。
「そう仰って、余を今川の次期当主に推されたのは他ならぬ義母上にござる。なれば、五郎にその資格なかりせば、左京大夫(北条氏康)殿のお子と言えど、増善寺殿(今川氏親)の孫である者が今川を継いでも不都合はございますまい。」
寿桂は薄明かりの中、うつむくと、絞り出すように言った。
「わたくしをなじるために参られたのですか。長幼の序を蔑ろにし、家中を乱し、北条を見誤って河東の戦を招いた、愚かな悪女であると。」
「滅相もございませぬ。むしろ義母上の憂いを取り除かんと、親孝行のため馳せ参じた次第にございます。」
義元は居住まいを正し、きっぱりと言った。
「余とて、幼き頃より当主の座を欲していた訳ではございませぬ。あの頃、義母上はよく笑っておられた。腹違いの息子である余にも優しく…感謝こそすれ、恨みに思った事はございませぬ。」
「…あの流行病さえなかったらと、今でも思います。満が北条に嫁いで間も無く、臨済寺殿(氏輝)と定源寺殿(彦五郎)が相次いで亡くなり…わたくしに泣く事は許されなかった…家中の誰もが、次の当主を求めていたから。けれど、あなたを選んだ事が、あなたに武田の嫁を迎えた事が、新たな戦を呼び込んでしまった…。」
「いいえ、義母上の仕置に過ちはございませぬ。福島の一党は義母上の沙汰を待ちながら、これが気に入らぬと見るや兵を挙げた、不届者にございます。それに、あの頃の武田の当主(武田信虎)は気まぐれなお方。北条の意向を確かめんとしておれば、我が妻の輿入れも破談になっていたやも知れませぬ。」
義元の慰めの言葉にもかかわらず、寿桂は弱々しく首を横に振った。
「されど、そうして招いたそなたの妻も、わたくしより先に旅立ってしまった。男子を一人産んだだけで…。きっと、わたくしは前世で悪行を重ねて参ったのでしょう。わたくしは今川に禍をもたらす者。これ以上、本家に深入りすべきではないのです。」
「…さて、それはいかがにございましょう。」
義元の言葉に、寿桂は顔を上げた。
「昼の五郎の言葉、義母上もお聞きになられた事でございましょう。元より非凡なる才を秘めた息子が、心を入れ替え、文武の稽古に励むと誓うてくれた。これ全て、我らの策に従うてくれた、結殿のお陰にござる。…義母上の孫である、結殿のお陰にござる。」
寿桂は顔を逸らし、袖口を目元にやった。
誰かが鼻をすする音が聞こえないかのように、義元は続けた。
「結殿の支えがあれば、五郎はきっと立派な太守になりましょう。されど、結殿はまだ幼い。都の作法も、芸事も、客に合わせたもてなしの術も、不得手である事、疑いありませぬ。それを伝授出来るは、義母上をおいて他におられますまい。」
「…よいのですか。わたくしが結殿に稽古を付けて、真によいのですか。」
「聞く所によれば、結殿は父君より霊験あらたかなる短刀、『東条源九郎』を賜ったとの事。よしんば義母上に物の怪が取り付いていようと、短刀の加護で祓ってくれましょう。ああ、ただ…。」
義元が思わせ振りに言葉を区切ると、寿桂は充血した目で身構えた。
「結殿は屋敷の警固役にも心を砕いておられる由。義母上に差し障りが無ければ、あらかじめ月に幾度と日取りを定め、稽古の日には義母上から送り迎えの者を手配すれば、結殿も心穏やかに稽古に望めるかと。」
「成程、もっともな仰せにございます。近く結殿と相談し、手筈を整えましょう。」
心なしか弾んだ雰囲気の寿桂を、満足気に見つめていた義元は、ふと脳裏をかすめた疑問を、寿桂に投げかけた。
「時に義母上。沓谷衆の事はいかがなさるお積もりで?」
瞬間、寿桂は緩みかけていた表情を引き締め、ゆるゆると首を横に振った。
「これはわたくしが背負うべき業にございます。あの子にまで背負わせたくはございません。…わたくしの代で潰えましょう。」
「義母上、それはいささか早計に過ぎるかと。…昼の御前試合の折、気を失うた五郎に塩と砂糖を溶いた水を運んで参った侍女を覚えておいでか?」
義元の言葉に、寿桂は虚空をにらんで記憶を辿った。
「…ええ、小田原から来た者達の中でも、群を抜いて動きがよいとは思いましたが…されど、白く濁った水を五郎殿に飲ませようとするなど正気の沙汰とは思われず…それをためらう事なく口にした結殿にも驚きましたが…。」
「余の見立てに狂いが無ければ、あれは北条の乱破にござる。以前お見かけした沓谷衆の者と、足運びがよう似てござった。」
寿桂は両目を見開き、片袖で口を覆った。
「では…あの子は側付きに乱破を加え、そればかりか心を許していると…?」
「…沓谷衆の事を明かすべきか否か、義母上にお任せします。余はそろそろ屋敷に戻ると致しましょう。」
義元は軽く一礼すると席を立ち、平伏する義母の横を通って、廊下に通じる襖が音も無く開かれるのを待った。
「義母上は生きながらにして、既に多くの責め苦を受け申した。真に仏の導きあれば、とうに救いがあって然るべきかと…。いや、生臭坊主の戯言でござる。」
そう言い残して、義元は客間を後にした。
足音が遠ざかるのを待って頭を上げた寿桂は、灯台の明かりを見つめながら、何事かを一心不乱に考え込んでいた。
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