#075 勝兵は先ず勝ちてしかる後に戦を求む
今回もよろしくお願い致します。
御前試合を終えた私達は、中庭から廊下に上がってすぐの広間に移動し、五郎殿の目覚めを待った。
現在、五郎殿は床に敷かれた布団に仰向けに横たわり、少しずつ顔色を取り戻しつつある。その周りに私や義元殿、寿桂様といった親族関係者が腰かけ、更にその周りを、側付き侍女や屋敷の警固役の皆さんが取り囲むように座っている。
五郎殿が倒れた時、私はとっさに駆け寄って頭を打たないよう支えるのが精一杯で、五郎殿の口をゆすいだり、体を拭いたり、日陰に運んだりといった処置は、お梅や馬蔵さん達、小田原からついて来てくれたみんなが全部やってくれた。
中でも驚かされたのは百ちゃんの行動で、五郎殿の体調不良が単に二日酔いに起因するものと診断するや否や、必要な処置を言い残して自分は厨に走って行ってしまった。やがて、一抱えの桶に、塩と砂糖を解いた白湯を詰めて戻って来た百ちゃんは、五郎殿の容態が安定して来たら、少しずつこれを飲ませるように進言した。難色を示す寿桂様を黙らせるため、私が毒味をした所、甘さと爽快感を抑えたスポーツ飲料といっても過言ではない仕上がりだったため、太鼓判を押す事が出来た。
…普通こういうのって、転生者である私が率先して披露すべきスキルなのでは?と気付いて、若干へこんだのは内緒だ。
「う、うう…ちち、うえ…。」
五郎殿の顔に扇で風を送っていると、やがて目蓋がゆっくりと開き、口から呻き声が漏れた。
「五郎、大事ないか?起きずともよい。無理をすれば、元も子もなくなる。」
義元殿の言葉に、五郎殿はまだ幾らか荒い息づかいで応えると、布団から右手を出して、何かを持つ仕草を見せた。
「水をご所望にございますか?」
私の質問に頷いたのを確認して、湯吞にスポーツ飲料もどきを注ぎ、五郎殿の手に持たせる。五郎殿はかすかな声で礼を言うと、仰向けのまま湯吞に口を付け、中身を少しずつ飲んだ。
「早速であるが、五郎よ。先に申し付けた通り、今川の家督は北条に譲るという事でよいな?」
義元殿の発言に、私は一瞬扇を動かす手を止めた。
ここだ、ここで五郎殿が何と答えるかで、大勢の人の運命が決まる。
「…父上、後生にございます。何卒、何卒お願い申し上げます。」
「何が望みであるか。」
「もう一度…今一度、御前試合を催していただきとう存じます。次は負けませぬ。酒を断ち、武芸学問に励みまする。相手が誰であろうと油断は致しませぬ。」
五郎殿の言葉に、私は密かに安堵のため息をついた。
これで五郎殿は廃嫡の危機を免れる――。
「何を甘えた事を申しておる。戦で大敗し、数多の将兵と所領を失うても、敵方の大将にもう一度と頼み込む積もりであるか。」
義元殿の厳しい言葉に、私は危うく扇を取り落とす所だった。
思わず声を上げようとした瞬間、袖を引っ張られる感覚に振り向くと、太助丸兄者が真剣な表情で首を横に振っていた。
今は黙っておけ――。
兄者のメッセージをそう解釈して、私は口をつぐんだ。
「仰せの通りにございます。儂は…儂は甘うございました。父上の子という血筋に胡坐をかいて、己を高める事を怠り…今川の麒麟児などと、浮かれておりましたっ…!」
五郎殿は目元を何度もこすりながら、涙混じりの声で続けた。
「されど…されど、これはあまりに情けのうございます!古来より続く今川の血が!父上が高めた今川の武名が!…儂の不始末で、たった一度の御前試合で、絶えてしまうなど…あまりに口惜しい…。」
「…されば、今後は学問をよくするか。」
「学び直しまする。一度読んだだけで分かった積もりにならず、世の実情を聞いて生きた学問とします。」
「家中領民の面倒を見るか。」
「見ます。知行割の術も、治世の手立ても、家中の者に聞いて身に付けまする。」
「兵法、剣術の稽古をするか。」
「稽古もします。願わくば、塚原卜伝先生を再びお招きし、今一度稽古を付けていただきとう存じます。」
「では最後に…誓えるか。今川の嫡男として余の後を継ぎ、今川の家名を子々孫々にまで轟かせる、と。」
「誓いまする。この五郎氏真、命尽きるまで今川を盛り立てん事を、ここに誓います。」
気が付くと、私の両目からは涙が溢れ出していた。
私だけではなく、部屋にいた人々のほぼ全員が、あるいは鼻をすすり、あるいは袖で目を覆い、あるいは人目もはばからずに号泣していた。
「…その言葉、信じるぞ。五郎よ。」
「では、もう一度、御前試合を…。」
「その必要は無い。この御前試合はお主の覚悟を問うため、結殿に骨を折っていただいた、いわば茶番である。」
私は絶句する五郎殿を気の毒に感じながらも、義元殿がようやくネタばらしを始めてくれた事に、少なからず安堵した。
「結、おめえが五郎殿をぶちのめせ。」
三島の宿に泊まって二日目の夜、父上に言われた私は絶句し、反論した。
いくら五郎殿の生活態度がだらしないからと言って、私と五郎殿との間には大人と子供ほどの年齢差がある。まともにやりあって、勝てるはずがない、と。
「その通り、大敵とまともにやりあっても勝ち目は薄い。だからこそ、武士は兵法を学び、不利を有利に変える手立てを探す。…口で説明するにゃあ時が足りねえ、駿府への帰り道、こいつを読んどけ。」
父上から手渡されたのは、読み込まれて所々擦り切れた兵法書――『孫子』だった。
「俺が昔使ってた兵法書だ、おめえにくれてやる。読み順や読み仮名を朱墨で書き入れてあるから、読むのに苦労はしねえはずだ。読んでも分からねえ所は雪斎殿か、兵法に詳しい奴、それか漢文を読める奴に聞け。」
「孫子の兵法を用いて、五郎殿を打ち負かせと仰せにございますか?」
「半分当たりだ。細けえ策は治部大輔(義元)殿あての書状に書き記して、雪斎殿に預けた。駿府に着いて挨拶に行きゃあ、治部大輔殿から指図があるはずだ。」
まさか自分が五郎殿と戦う事になるとは夢にも思わず、緊張する私に向かって、父上は自信たっぷりに言った。
「この策はおめえがいなきゃ成り立たねえ。五郎殿を信じるってんなら、全力でぶつかって負かして来い‼」
「ほうほう…左京大夫(氏康)殿は左様にお考えか…。ふふ、ふふふ、ほっほっほっほっほ!さすがは相模の獅子!よくぞこのような…ああ、なんと愉快である事よ!」
駿府に戻って挨拶に伺った際、雪斎殿を経由して渡された父上の手紙を読んでの、義元殿の反応である。
憧れのアイドルから直筆の手紙をもらった子供みたいなリアクションに軽く引いていると、ようやく笑いの発作が収まった義元殿は私に二つの指示を出した。
一つは、屋敷の警固役の配置を調整し、明日屋敷の詰所で待機する四人を全員小田原出身者で固める事。もう一つは、明日の朝食が終わり次第、五郎殿を知行割の件で厳しく問い詰める事だった。
私は五郎殿の屋敷に戻ると、警固役の四人の隊長と、一時的に配置転換してもらうメンバーを招集し、義元殿の命を伝えた。当然彼らは戸惑ったものの、義元殿直々の命という事もあり、最後には従ってくれた。
翌朝、私は朝食が終わったタイミングを見計らって知行割の件を蒸し返し、五郎殿が機嫌を損ねて馴染みの公家屋敷に向かうよう仕向けた。五郎殿が小田原出身の護衛四名を引き連れて外出するや否や、玄関に義元殿の使者が現れ、私は警固役の残り十二名を引き連れて義元殿の屋敷に向かう。
こうして五郎殿に気づかれない内に、私と義元殿は打ち合わせを行い、翌日開催予定の『駿府館御前試合五番勝負』の内容と進行について、構想を固めていった。つまり五郎殿が挑戦を余儀なくされたのは、審判と対戦相手が結託した八百長試合だったのだ。
しかし、父上と義元殿の底意地の悪さは、それに留まらない。
なぜなら、五番勝負のいずれにも、五郎殿が勝利する可能性は残されていたからだ。
第一に、歌詠み対決で私が勝てたのは、お題と模範解答をあらかじめ知っていたからだが、そこには致命的な弱点が隠されていた。
即ち、独創性の欠如である。私は過去の名作を必死で暗記し、五郎殿が自作を詠む前に読み上げたに過ぎない。
五郎殿がその点を指摘して義元殿の裁定に待ったをかけ、多少時間をかけてでも新作を披露すれば、公平を装う義元殿が勝ちを譲る可能性はあった。
第二に、珠算対決。
私は通常の税率よりも二割近く徴収率を引き下げた数字を計上する事で、『徳政』の名目で勝利を手にしたが、現実にこんな事をしたら大問題だ。
年貢を取り立てる側は、基本自分で農作業などしないから、年貢がそのまま自分の収入に直結する。それなのに年貢の徴収率を『五公五民(50パーセント)』から『三公七民(30パーセント)』に引き下げたりしたら、ざっくり計算しても、収入が四割も減ってしまう。
つまり私の『徳政』を世間知らずの机上論と論破できれば、五郎殿は勝ちをもぎ取れたのだが、彼はその事に気付かなかった。
第三に、兵法解釈対決。
お栗も被害に遭った乱暴狼藉が、孫子の兵法の一節に該当する、という考え自体に噓偽りは無い。
しかし、義元殿は『より真髄に近い者』を勝者とみなす、と宣言した。
孫子の兵法が書かれたのは気が遠くなるほど昔の中国の話なのだから、今の日本とは環境も事情も異なる。
五郎殿は、孫子が兵法書を書いた時代はこうだったんだから、儂の解釈の方が正しい!と言い張れば良かったのだ。
第四に、模擬戦。
これは前日からの仕込みで、義元殿が五郎殿のためという名目で元からの警固役を説得し、全員の知行を私の所管に書き換えた事で、私の不戦勝という結果に終わった。
もしこの時、全体の三分の一に当たる五人か六人でも五郎殿の臣下に留まると主張すれば、今日の模擬戦は私の敗北で終わっただろう。曲がりなりにも兵法を学んだ五郎殿に対し、私はズブの素人なのだから。
しかし義元殿の説得に難色を示した人は、私が見る限り一人もいなかった。日頃の行いの報いと言う他はないだろう。
最後に、一騎打ち。父上は私の五戦全勝を予言したが、ここが最大の難関だった。
最近短刀の稽古を怠りがちな私に対し、五郎殿は常日頃から二振りの刀を腰にぶら下げている。お互いに万全の状態で戦えば、まず間違いなく五郎殿の勝ちだ。
しかしここで布石が活きて来る。
私の小言にうんざりした五郎殿は夜通し酒宴に興じ、御前試合が始まる前から絶不調だった。
そこで私は、序盤は徹底して回避に専念し、五郎殿が体調を悪化させた隙を突いて一本を取る作戦に出た。もし五郎殿が早々に酒宴を切り上げて帰宅していれば、ここまで楽には勝てなかっただろう。
つまりこの御前試合には、五郎殿の短所、欠点を、いやというほど知らしめる意図が込められていたのだ。
「そなたの日頃の行いが、武家の嫡男としていかに危ういものであるか、身に染みた事であろう。」
義元殿の長い解説が終わると、部屋を沈黙が支配した。
騙されたと知った五郎殿が激昂し、暴れ出すのではないか。
そんな私の懸念を現実のものとするかのように、五郎殿の体がプルプルと震え出し…やがてそれは朗らかな笑い声に変わった。
五郎殿は、泣きながら笑っていた。
「完敗にございます、父上。麒麟児など、なんとおこがましい…。儂は井の中の蛙じゃ!いいや、籠の鳥じゃ!己の翼で飛ぼうとせず、与えられるまま水を飲み、餌をついばみ…。ひとたび外に放たれれば、猛禽の餌食となるのみ!」
文学的表現に息を呑んでいると、五郎殿はやがて笑い終え、首から上を動かして視線を巡らせた。
「警固役の組頭は、いずこに?」
「ここにございます、若殿。」
「おお、お主か。お主は確か…すまぬ、名を失念してしもうた。」
「尾藤安兵衛にございます。」
「尾藤安兵衛…お主らにも、すまぬ事をした。今一度、儂に仕えてくれぬか。今後は決して、おろそかにはせぬ。」
私は固唾を飲んで、尾藤さんの返事を待った。
仮に尾藤さんの返事が前向きでなかったとしても、義元殿の命令で以前の体制に戻るか、新しく警固役が選抜されて五郎殿の下につくかだ。
けれども私は、出来れば尾藤さんに、進んで五郎殿の下に戻って来て欲しかった。
「人は時に言葉よりも体で心根を露わにします。先ほど、若殿は木刀を手に取って後、気を失ってなお手放そうとはなさいませんでした。拙者はそこに、若殿のお心の奥に眠る猛々しさを感じましてございます。…太守様、どうか我ら一同を、今一度若殿の配下になされますよう、謹んでお願い申し上げます。」
「お願い申し上げます。」
尾藤さんに武藤さん、その他の侍達が、次々と頭を下げていく。
「うむ、お主らが望む通りに致そう。よいか、五郎よ。『兵は詭道なり』と申す。余がお主を謀ったようにの。されど、誰彼構わず、時も所も弁えずに人を欺く者は、一時は栄華を極めようとも、やがて天下万民の信を失い、滅びるであろう。この者共をおろそかにせぬとの言葉、違えるでないぞ。」
「心得ましてございます…。」
父子の会話に、私はこの大掛かりな博打が義元殿の勝利で終わった事を確信し、いつの間にか凝り固まっていた肩の力を、ようやく抜く事が出来たのだった。
お読みいただきありがとうございました。