#074 駿府館御前試合五番勝負
※注意!
今回、終盤にやや不快な表現があります(可能な限りマイルドにしてありますが…)
飲食中の閲覧にはご注意ください。
2023年5月25日、一部修正しました。
天文23年(西暦1554年)8月下旬 駿府館
「五郎よ。今川の家督を継ぐはどちらが相応しいか、御前試合にて示すが良い。」
痛む頭を抱えていた今川氏真は、実の父、義元の言葉に胡乱な目を向けた。
馴染みの公家の邸宅で朝まで飲み明かし、うつらうつらしていた所を呼び出されたと思いきや、謁見の間には父と、先日三島から戻った幼妻がいた。
自分の告げ口でもしていたのかといぶかしむ氏真に、義元は唐突に言い放ったのだ。
「父上、仰る事の意味がよく分かりませぬ。今川の家督を継ぐは、儂をおいて他にござりますまい。」
「五郎よ。お主は常日頃より触れ回っていたそうであるな。余は庶流の出、しかも還俗した身でありながら、兄を殺して家督を継ぎ、妻を娶り、酒を飲み、肉を食らい、人を殺す、業の深き者である、と。」
友人にしか言っていないはずの悪口雑言が本人に知れ渡っている事に、氏真は気まずさから目を逸らした。
「お主の申す事、一々もっともである。されど、いや、それゆえに、余は今川の当主たらんと、家中の声を聞き、都と縁を結び、民草に善政を敷かんと心掛けて参った。然るに、その息子が余の忠告を聞かず、文武の稽古に身が入らぬは、やはり余が重ねた罪業の報いではあるまいか…そう思うておった所に、北条から話を持ちかけられたのじゃ。」
「北条から?」
「北条の姫君、結殿と、今川の嫡男、五郎殿が五番勝負にて競い合い、より優れたる方が今川の家督を継ぐべきではないか、とな。確かに、このまま不出来な息子に領国を預けるよりは、いっそ民思いと評判の北条に名跡を譲った方が家中領民のためやも知れぬ。そう思い、この話を受け入れた次第である。」
氏真は抗議の声を上げようとして、すんでの所で踏みとどまった。
(父上も回りくどい事を考えなさる。儂に自信を付けようと、結殿まで巻き込むとは。)
冷静に考えれば、いかなる勝負でも自分が負ける事などあり得ない。自分はこれまで多くの書籍を読破して知識を習得しており、しかも新当流免許皆伝だ。つまり家督うんぬんは自分を奮起させるための脅しで、結はかませ犬に過ぎないという事だ。
氏真は、自分が齢十の小娘相手でなければ勝てないと考える父の器量の狭さに失望すると共に、このような猿芝居に付き合わされる結を哀れんだ。
「承知仕りました。儂が今川を継ぐに相応しい事、父上に改めてお示し致しましょう。」
氏真は大仰に返事をすると、結を安心させようと、こっそり微笑みかけた。
しかし結は緊張した面持ちでうつむき、顔を合わせようとはしなかった。
今川の家督を賭けた五番勝負は、義元邸の内部、遮る物の無い、玉砂利が敷かれた中庭で執り行われる運びとなった。
天候は晴れ。雨が降る気配はなし。
縁側には義元を中心に、寿桂、太原雪斎、関口刑部少輔、北条太助丸、松平竹千代が腰かけ、勝負の行方を見守る。
その眼前で、氏真は結と向かい合った。
氏真の背後にはかねてより屋敷の警固を務めていた侍達と、結の輿入れに合わせて氏真の屋敷に送り込まれた侍女達が。結の背後には小田原から随行して来た侍女や侍達が控えている。
「ではこれより、五番勝負の第一を始める。双方、並んで座るがよい。」
義元の指示に従って、二人は中庭に敷かれた畳の、そのまた上に敷かれた座布団に腰を下ろす。義元に向かって右が氏真、左が結だ。
畳には他に文机が置かれ、その上に墨をたたえた硯と筆、十枚ほどの紙が乗っていた。
「第一は歌詠みである。余が出したお題に、より早く、より良い歌を述べた者を勝ちとする。」
義元の言葉を聞いた瞬間、氏真は勝利を確信した。常日頃から公家の屋敷で即興の歌詠みを嗜んでいる自分に対して、結が歌を詠んでいる所など、見た事が無かったからだ。
「では、お題を与える。心して聞くが良い。お題は――カキツバタ、である。」
氏真は筆を握り、先を墨に浸しながら、まずカキツバタを上の句と下の句、どちらに配するかを思案し――。
「太守様!申し上げたく存じます!」
結の大声に頭痛を覚えながら、氏真は驚愕して結を見やった。
この一瞬で、自分よりも早く歌を思いつくなど、とても信じられなかったからだ。
「結殿、申すが良い。」
義元の許しを得た結は、目を閉じて一度深呼吸すると、朗々と歌い上げた。
から衣
着つつなれにし
つましあれば
はるばる来ぬる
旅をしぞ思ふ
「からころも、きつつなれにし…。おお、頭文字をとればカ、キ、ツ、バ、タであるな。早さも技巧も見事である。この勝負、結殿の勝ち――。」
「お待ちを!」
自身の大声でまたも頭を痛めながら、氏真は叫んだ。
「それは結殿の作ではございませぬ。古今和歌集の、在原業平卿の歌ではござらぬか!」
「それがいかがした?余はより早く、より良い歌を述べよと申したまで。新たに詠めとは申しておらぬ。」
氏真は愕然とし――臍を噛んだ。
(まさか結殿が――父上の真意を見抜いた上、古今和歌集にも通じておるとは!)
氏真が歯ぎしりしながら筆を置くと、義元は鷹揚に頷いた。
「結殿の勝ちという事でよいな?では五番勝負の第二、珠算に移る。」
義元の合図で、背後の近習達が立ち上がり、二人の文机にまっさらな紙と算盤を置いて、元の位置に戻る。
「双方、その紙はまだ裏返してはならぬ。余の合図を待つがよい。その紙には、真には駿河のどこにもない、とある所領の石高が記されておる。今年、その地より年貢を取り立てるとして、幾ら取り立てるべきか、別の紙に記して余に示すがよい。こたびは早さではなく、正しさを重んじるものとする。」
自分も見くびられたものだと、氏真は小さく鼻を鳴らした。
(儂が知行割をろくにせぬ事を、遠回しに責めておられる。されど、儂とて珠算の術は学んでおる。多少石高が入り組んでおろうと、寸分の狂いなく弾き出して見せようぞ。)
氏真と結が紙と算盤の位置を調整し終えるのを待って、義元は口を開いた。
「では、始め。」
義元の合図を受けてすぐ、氏真はお題の紙を裏返し、内容を確認した。石高から、比較的小さく、貧しい村であると見当を付ける。
親切な事に、横には適用される税率と、この村が軍役などを一切負担していない、つまり年貢の割り出しに、諸役分の減免を考慮する必要がない旨が記されていた。
(結殿への心配りか。さすれば割り出される年貢は同じ。後はより早く、より美しく文面を整えた者が勝ちという事になろう。)
氏真は痛む頭を振り絞って算盤を弾き、割り出された年貢を、提出用紙に美しい文字で書き上げると共に、左隅に『今川五郎氏真』と書き添えた。
ふと結の様子が気になり、左に目をやると、結は袖を口元に当て、何やら考え込んでいた。
結の計算に時間がかかっていると踏んだ氏真は、署名の下に花押を書き加えた上で筆を置いた。
「父上、儂は既に終わりましてございます。」
「ふむ、早いのう。されど、結殿が終わるまで待たねば…。」
「私も終わりましてございます。」
結の言葉に義元は無言で頷き、近習達に合図を送った。近習達は再び中庭へ降り、二人の提出用紙を捧げ持ち、義元の前に差し出す。
「ふむ、五郎の計算にいささかの狂いも無い。筆使いも見事であるな。然るに結殿は…随分年貢が少ないのう。三公七民とは、これはいかなる仕儀か。」
「太守様は今年の年貢を割り出すよう、仰せになりました。今年は私共が夫婦となった目出度き年。徳政として、年貢を減免するが領民のためになるかと存じます。」
「これはしたり。見上げた心掛けであるな。こたびも結殿の勝ちである。」
二度の敗北に呆然とする氏真の脳裏に、一つの疑念が生まれつつあった。
(もしや、父上は真に…儂を廃嫡されるお積もりではあるまいか?)
「五番勝負の第三、これより余が述べる兵法書の一節を如何に解するべきか、より真髄に近き者を勝ちとする。…『智将は務めて敵に食む』…さて、如何に?」
「父上!今川五郎、申し上げます。敵の小荷駄を襲い、兵糧を奪えば、敵の士気を挫き、味方の士気を鼓舞出来るとの、孫子の教えにございます!」
「ふむう…結殿は如何に?」
「私の側付きの一人は、乱暴狼藉にて田畑を荒らされ、蔵の米を根こそぎ奪われてございます。己は兵糧を持たず、攻め入った先の村から米を奪う…無体ではありますが、理に適った手立てにございます。当世の解釈としては、こちらが適当かと。」
「成程のう。確かに、日の本中のいずこにても乱暴狼藉の憂き目に遭う村は後を絶たぬ。結殿の申す方が当世に即しておるのう。またも結殿の勝ち、であるな。」
「…。」
「五番勝負の第四、双方の警固役を指図しての模擬戦とする。各々(おのおの)、木刀を持って己が主の前に。」
「…⁉お主ら、なにゆえ結殿の前に並ぶ!お主らは儂の警固役であろう!不忠なるぞ!」
「申し遅れましてございます。我ら一同、昨日をもって若奥様に知行を賜りましてございます。よって我らの主は若奥様にございますれば、不忠には当たらぬかと。」
「これは思わぬ成り行き。警固役が揃って結殿についてしまっては、戦にならぬのう。戦わずして勝つとは、見事、見事。ほっほっほ。」
畳や文机が片付けられた中庭で、氏真は膝を着き、空を仰いだ。
既に五番勝負に四連敗。
しかも、自信があった歌詠み、珠算、兵法のことごとくに敗北し、配下にも見限られた。
(何と言う事だ…今川の家督が…儂はこれからどうすれば…。)
頭痛と耳鳴りの中で、氏真の頭脳は空回りするばかりだった。
「五郎。五郎よ。気を確かに持て。聞いておらなんだか?五番勝負の最後は一騎打ち。勝った者には五点を与えよう。」
義元の言葉に、氏真は辛うじて正気を取り戻した。
震える膝を励まして立ち上がりながら、義元に念を押す。
「父上、真に一騎打ちにございまするな?儂の打ち込みを凌げば結殿の勝ち、などとは申されますまいな?」
「二言は無い。双方、木刀を持て。余の合図で始め、余が勝負ありと申すまで続けよ。結殿は短刀と同じ長さでよいのじゃな?」
「構いませぬ。」
結が短く答えながら、侍女に手伝われて髪を結い上げ、袖を絞る様を見た氏真は、自身も烏帽子と服を脱ぎ捨て、袴一つで木刀を握った。
(みっともないと言われても、構うものか。この勝負に勝たなければ、今川が北条に乗っ取られてしまう。それだけは、それだけは何としても防がねば…!)
やがて身支度を終えた結が木製の短刀を両手で握り締め、中庭の中央に進み出る。
氏真は瞬きすら惜しみながら、木刀を構えたままの姿勢で結に向き合った。
「双方、よいな?…始め!」
義元の合図と同時に、氏真は結の胸を目掛けて木刀を突き出した。
しかし手応えはなく、結は木短刀を両手で構えたまま、体を数歩横にずらして回避していた。
氏真は獣のような声を上げながら、木刀を横に薙いだ。
しかしこれも、結は後ずさってかわしてしまう。
「逃げておっては、儂に勝てぬぞ!」
氏真は、結に何度も打ちかかりながら吠えた。
懐に入られない限り、結の木短刀が自分に届く事は無い。後は攻めの一手で結を追いかけ回し、疲れた所に打ち込めば、勝てる。
氏真のそんな目論見は、ほどなくして崩れ去った。
(体が…重い!結殿が…間合いに入って来ぬ!)
長期戦が自身に有利との氏真の予想は外れ、結は息を乱す事なく、氏真の打ち込みをかわし、あるいは木短刀で捌く。
対して氏真は、視界が明滅し、腹の奥から何かがせり上がる感触が迫って来る。
「う…おえ…。」
ついに限界を迎えた氏真は、結に背を向け、中庭の一角にうずくまって激しくえずいた。
羞恥と焦燥で頭が一杯になった氏真の首筋に、結の木短刀がそっと押し当てられる。
「それまで!結殿の勝ちに疑いなし。五番勝負は結殿の全勝である!」
胃の内容物を一通り戻した氏真は、やけに遠くから聞こえる父親の声を聞きながら、気を失った。
お読みいただきありがとうございました。