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#073 その姫、傾城傾国(けいせいけいこく)たるか

今回もよろしくお願い致します。

「ひっ、ひいいいいい、だとよ。おめえがそんな可愛い声を出すのなんざ、初めてのこったぜ。なぁ、かあちゃん。」

「もう、そのくらいで勘弁なさいませ。だって結も、ふふっ、わたくし達がここに来る事は、ふふふっ、知らなかっ…うふふ、しばし失礼を…。」


 三島の宿で久々に対面する両親を前に、私は顔から火が出てもおかしくないほどの羞恥心に襲われていた。

 既にお風呂を済ませ、夕食を共にしているのだが、さっきのリアクションがよっぽど面白かったのか、ちょいちょい父上がほじくり返し、母上が笑いをこらえるというパターンが定着しつつある。


「しっかし、今川の御曹司は思った以上に頼りねえなあ。」


 父上が世間話のように言い放った言葉に、私は左隣を窺った。そこでは私の護衛兼監視役である、太原雪斎殿が腰かけ、夕食をつついているからだ。

 しかし雪斎殿は父上の言葉に、何ら反応を示す事は無かった。

 というか、お風呂から上がって雪斎殿と父上、母上の待つ部屋に入ってから、私の忍耐は限界を迎えてしまい、お膳が運ばれて来る前から今に至るまで、輿入れしてからのあれこれをぶちまけてしまったのだが、主君の嫡男をけなすという私の暴挙に、雪斎殿が苦言を呈する事は一切無かった。


「雪斎殿、その、よろしいのでしょうか。私どもが、かように明け透けに…。」

「気遣い無用にございます。拙僧の務めは若奥様を無事三島へお連れし、そして駿府へお返しする事。ご両親との語らいを妨げるほど、無作法者ではございませぬ。」


 雪斎殿の返答に、私はほっと安堵のため息を漏らした。

 どうやら三島にいる間は、北条の家風を尊重してくれるらしい。


「それだけじゃねえんじゃねえか?」


 ドスの効いた父上の言葉に、私は喉に詰まりそうになったご飯を辛うじて飲み込んだ。


「親子水入らずってんなら、席を外して然るべきだろうが。わざわざ俺を引っ張り出して膳を共にするってこたぁ、治部大輔(義元)殿から言付けなり何なりあんだろう。結がここにいられる時も限られてる、用件をちゃっちゃと言いな。」


 部屋の中の空気が張り詰める中、誰からともなくお椀と箸を膳に戻し、姿勢を正す。

 ややあって、雪斎殿は父上に向かい、深々と頭を下げた。


「この雪斎、最後のご奉公を成すため三島に参りました。恥を忍んでお願い申し上げる。太守様の御嫡男を…五郎(氏真)殿を打ちのめしていただきとう存じます。」


 雪斎殿の言葉に、私は混乱した。

 今川の重臣が、主君の息子の敗北を望むなんて、意味が分からない。


「お山の天狗の長っ鼻をへし折って、目を開かせようって算段か。そう上手く事が運ぶとは限らねえし、俺がそれに付き合う義理もねえぞ。」

「これは太守様の、一世一代の賭けにございます。元来、太守様はご自身が家督を継いだ経緯(いきさつ)に負い目を感じておられました。」


 私は急いで、義元殿が当主になった経緯を思い出した。

 確か父親――先先代当主の嫡流が相次いで亡くなったため、庶流で出家していた義元殿が、腹違いの兄を倒して家督を継いだんだった。


「奥方様との間に男子が一人しかお生まれにならなかった事も、姫様と奥方様が相次いで身罷られた事も、かつて出家した身でありながら俗世の(ごう)を重ねた報いではないか、と…。さればこそ、五郎殿には名門今川の当主に相応しい武士におなり遊ばされますよう、様々に手を尽くされて参りました。」

「だが、それが五郎殿には裏目に出たって訳だ。…つくづく治部大輔殿の打つ手は裏目に出やがるな、今度からまず裏目に賭けるよう言っとけ。」


 雪斎殿は頭を上げると、父上の笑えないジョークに咳払いを一つして続けた。


「…仰る通り、ゆえにこたびは裏目に賭けまする。五郎殿を勝たせるのではなく、負かす。そこで五郎殿が奮起して文武の稽古に取り組まれれば良し。面目を失って引きこもるようであれば…どの道、今川は長くはないでしょう。」


 雪斎殿が主家の滅亡を予見した瞬間、部屋の空気が一層張り詰める。


「時に、北条の御前様は寿桂様の娘であり、今川家先先代当主の娘でもあらせられます。」


 雪斎殿の発言とこれまでの会話の内容が繋がらず、私は目を瞬いた。

 一方、父上は何かに気付いたように、あごひげを撫でている。


「即ち、北条の御前様のお子様は今川家先先代当主のお孫様に当たり――。」

「今川の家督を継ぐ資格が、無い事も無い、って訳か。」


 父上の言葉に、私は全身の肌が粟立つのを感じた。

 雪斎殿の言う通りに事が運べば、今川の所領が丸ごと、実質的に北条の物になる事を意味していたからだ。


「いかがにございましょう。五郎殿が己を見つめ直し、立派なご当主になられれば、北条は西に気を使う事なく、関東の経略に全力を投じられましょう。逆に、五郎殿にそれ程の器量なかりせば、左京大夫(氏康)殿のお子、例えば太助丸殿を押し立て、駿河(するが)遠江(とおとうみ)三河(みかわ)の主となされるがよろしかろうと存じます。」


 どちらに転んでも北条に損は無い。私は父上が首を縦に振るものと確信していた。

 が。


「ちいっと待ちな、生臭坊主(なまぐさぼうず)(こいつ)の身の振り方を聞いてねえぞ。」


 父上に指さされて、私はハッとした。

 もし五郎殿が敗北から立ち直れず、太助丸兄者が今川の当主になれば、私の立場はどうなるのか。話の流れが自然過ぎて、全く思い至らなかった。


「っ、それは…。」

「屈辱に耐えかねて五郎殿が自害でもしたらおめえ、こいつは未亡人だぜ、十にもならねえうちによぉ。」


 この会談の行方が自分の人生をも左右すると今更ながらに気付き、私は急に落ち着いていられなくなった。

 戦国時代のバツイチがどんなマイナスイメージを持たれるのか、考えただけで恐ろしい。しかも見方によっては、今川を乗っ取るために送り込まれたスパイになってしまう。

 父上は黙り込んでしまった雪斎殿から、私に目を向けた。


「結、よく聞け。おめえには二つの道がある。手筈通り明後日駿河に戻るか、理由を付けて俺達と一緒に小田原に帰るかだ。」


 私は父上の提案に驚きながらも、目を逸らす事なく見詰め返した。


「おめえが駿河に戻り、さっきの賭けが治部大輔殿の思惑通りに運びゃあ、おめえは晴れて未来の太守様の御前様だ。だが、五郎殿が根っからの腑抜けなら、おめえが辛い目に遭う事は避けられねえ。」


 私は思わず生唾を飲んだ。


「おめえが小田原に帰れば、治部大輔殿の賭けがどう転ぼうと迷惑はかけねえ。五郎殿が立ち直りゃ、また駿河に戻って妻の役目を果たしゃいい。五郎殿が立ち直れなけりゃ…日の本中に腑抜けの悪評をばらまいて、離縁が当然だったと納得させる。」


 どう考えても、小田原に帰る方が私にとってメリットしかない。

 しかし――。


「父上、ご厚情、誠にかたじけのうございます。されど…私は明後日、駿河に帰ります。」


 ごちゃごちゃになった感情を解きほぐしながら、私は自分なりの答えを、一つ一つ口に出していった。


「私は既に五郎殿の屋敷の奥向き一切を取り仕切っております。今私が箱根の峠を越えてしまえば、面倒を見ると約束した侍女達、警固役の方々、下人の皆様に申し訳が立ちません。」


 彼ら、彼女らを置いて、自分だけ逃げるなんて、とても出来ない。


「それに…私は今川五郎殿の妻にございます。確かに頼りがいの無いお方ではございますが…初夜に見せてくださったお優しい心根は、偽りないものと信じております。なれば、五郎殿が立ち直ろうと、立ち直れまいと、最後まで添い遂げたく存じます。」


 長い長い沈黙の後、父上は両目を閉じ、長いため息をついた。


「相変わらず、可愛げのねえこった。」


 父上はそう言うと、私に向けて左手を伸ばした。

 まさか叩かれるのでは、と反射的に目をつぶった私は、髪の毛を撫でる優しい感覚に戸惑った。

 恐る恐る目を開けると、父上は左手を引っ込め、元の姿勢に戻っていた。


「おめえがそこまで言うんだったら、俺も手を尽くしてやる。とりあえず、今日は飯食ってとっとと寝ろ。明日は好きなだけ寝て、夕飯時まで宿で羽根を伸ばしな。…かあちゃん、相手を頼めるか。」

「勿論。喜んでお相手させていただきます。結、今夜は床を並べても良いかしら?」


 母上からの思いも寄らぬ申し出に、私は一も二も無く頷いた。


「俺に考えがある…が、子細は明日の夜、追って伝える。さあ、話はひとまずこれまでだ。さっさと食って片付けるぞ。」


 父上の言葉に、私は食事を再開した。

 一か月ぶりの坂東風の濃い味付けに、思わず頬が緩むのを感じた。




 夕食後、氏康の妻と娘が去った一室にて。


「やはり歳不相応に肝の座ったお方にございますな。」

「まあな、ところで、これが最後の奉公ってのはどういう了見だ。」

「近頃、阿弥陀如来(あみだにょらい)が枕元に…拙僧の寿命が尽きる前触れかと。」

「生臭坊主も年貢の納め時って訳か。せいぜい往生しな。それと、書状の通り、警固の兵を多めに連れて来たが、結と一緒に駿府から連れて来た小荷駄隊と関わりがあんのか?」

「…太守様より、こたびの助力への感謝の証として、鉄炮百丁と鉛玉、弾薬(たまぐすり)をお持ち致してございます。」

「俺が引き受けると踏んでやがったな?全く抜け目のねえ…しかもあれだ、弾薬は西国(さいごく)の商人に頼まねえと手に入らねえ。つまり鉄炮を使い続けるにゃあ、今川と仲良くする他ねえって寸法だ。」

「ご明察にございます。」

「ふん、まあ良い。せいぜい治部大輔殿に骨折ってもらおうじゃねえか。…ところで、五郎殿を叩きのめす役は誰にやらせる積もりだ?」

「無論、左京大夫殿のお子、太助丸殿に…。」

「そいつは具合が良くねえな。太助丸は文武の稽古をつけた若武者だ。五郎殿が負けても、言い訳が立っちまう。」

「ならばいかように…?」

「五郎殿が負けるはずがねえって考えるような奴を相手にすりゃあいい。女で、年下で、剣の腕も文才も劣っているはずの…。」

「まさか、左様な…危のうござりまするぞ!」

「いいや、問題ねえ。俺の策に治部大輔殿が乗りゃあ、必ず勝てる。…俺の娘を舐めるなよ?」

お読みいただきありがとうございました。

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