#071 どきどきブライダル~Boy’s Side~
前回(#070)に「いいね」が一気に8件もついてビックリしております。
今後ともよろしくお願い致します。
天文23年(西暦1554年)7月上旬 駿府館
良く晴れた空の下、今川五郎氏真の屋敷の縁側に、並んで座る三人の若武者がいた。
「いよいよ明日、にございますな。若殿。」
一方の端に腰かけた少年――松平竹千代が切り出すと、中心にいた青年――五郎氏真は首を傾げた。
「はて、何があったかのう?」
もう一方に腰かけた日焼けした少年――北条太助丸が口を開いた。
「段取りに狂いが無ければ、明日の夕方には我が妹、結が駿府館に参ります。」
「ああ、その事か。」
氏真は事もなげに言うと、脇に置かれていた湯吞を取り、中の白湯を勢い良く飲んだ。
「誰か、水を持て!…しかし嫁とは言えのう、まだ十にもなっておらぬそうではないか。顔も見た事は無いし、まっこと政よのう。」
「若殿は、北条との婚礼は本意ではございませんでしたからな。」
竹千代の言葉に合わせるように、下人が息を切らしながら、三人に走り寄る。
下人が差し出した盆に湯吞が一つだけ乗っているのを見て、氏真は顔をしかめた。
「お主、気が利かんのう。ここには客が二人おるというに、一つしか持って来ぬとは…。」
「ひっ…申し訳ございませぬ!一刻も早く若殿にお持ちしなければと、気が急いて急いて…只今お二方の分をお持ちしますゆえ、何卒ご容赦を…。」
御役御免を恐れて震え上がる下人を前に、竹千代は慌てて口を開いた。
「若殿、それがしはまだ十分ございますゆえ、替えの水は不要にございます。」
太助丸も続く。
「拙者も、まだ湯吞を空にしてはおりませぬゆえ…その方、我らの分はもっとゆっくり運んで来るが良い。」
「はっ、ははーーっ。申し訳ございませぬ。只今お持ちしますゆえ、しばしお待ちを…。」
下人は庭に頭をこすり付けると、盆に空の湯吞を乗せて厨へと走って行った。
「全く、雅でないのう。」
「若殿、只今の下人は初顔とお見受けしましたが…?」
前も、その前も。訪問するたびに下人の顔ぶれが変わる事にいぶかしみながら、竹千代が聞いた。
「前の者は暇を出した。駿府館に迷い込んだ犬を連れ帰った所、儂に断りもなく捨ててきおったゆえの。全く、百姓どもは風情も慈悲も分からぬ者ばかりじゃ。」
(本当に、そうだろうか?)
竹千代は喉元まで出かかった言葉を、白湯と共に飲み下した。
氏真が義元の屋敷を出て、新居での生活を任されるようになったのは三年前。竹千代が駿府館に入った翌年、氏真が元服する前の年だ。
『お主も間も無く一端の武士となる。ここにて寝起きし、武士の暮らしぶりを身に付けよ。』
転居初日、義元が息子に伝えた言葉は、守られているとは言い難いのが現状だった。
今川の将来を担う者として、氏真には剣術、兵法、治世論、礼儀作法と、あらゆる分野において一流と目される指南役が宛がわれた。ところが氏真はそれらの稽古をおろそかにし、駿府館の周りを固める公家衆と、蹴鞠や連歌の宴に興じてばかりいる。
しかし氏真には天分(才能)がある。あらゆる技や知恵を瞬く間に自らのものとしてしまう、その早さだ。
難解な兵法書も、漢文で書かれた治国論も、氏真は一度読んだだけで、後は諳んじて見せる。一冊の本を数日、あるいは十日以上かけて読み返す竹千代とは雲泥の差だ。
竹千代が唯一気になった点と言えば、新当流剣術の開祖である塚原卜伝なる老人から、氏真が稽古をつけられた折の事だ。
竹千代が見る限り、氏真の太刀筋は卜伝のそれと似て非なるものだった。しかし稽古が始まって三日目、卜伝は氏真に問いかけた。
『若君はなにゆえ剣術の稽古をなされます?』
氏真はこう答えた。
『父上の仰せゆえに決まっておろう。しかしこうしてみると、歌の文句を考えるより、刀を振るう方がいと容易いのう。』
それを聞いた卜伝は稽古を取り止め、義元に駿府からの退去を願い出たのだ。
理由を尋ねられた卜伝の返答は、今でも耳に残っている。
『今の若君に、拙者がお教えする事はもはやございません。』
家中のほとんどがその言葉を氏真の新当流免許皆伝と捉え、今川の麒麟児ともてはやした。だが、それは卜伝の真意だったのだろうか――。
「竹千代?大事ないか、竹千代。」
氏真の声に我に返った竹千代は、周囲を見回した。氏真邸の縁側、隣には氏真と太助丸、手元には冷めかかった白湯が入った湯吞。
どうやらいつもの、考え込むと周りが見えなくなる悪い癖が出ていたらしいと気付き、竹千代は赤面した。
「も、申し訳ございませぬ。少し考え事を…。そう言えば若殿、太守様より下された教訓状は、その後いかに。」
教訓状は、二年前に義元から氏真に送られたものだ。文武の稽古に不熱心で、芸事や小動物の世話に現を抜かしていると、氏真の将来を憂う文言が書き連ねられていた。
「あれ以来どうという事も無い。大体、父上は一度は出家しながら、還俗して酒を飲み、肉を食らい、女人と交わり、他国と戦をして大勢の命を奪っておるではないか。さようなお方に儂を責める道理など、あろうものか。」
氏真の言葉を、竹千代は否定も肯定もしなかった。
氏真の言い分に一定の理があるとは思いながらも、父と死に別れ、母と生き別れた身としては、血の繋がった父親に説教をされるという経験がうらやましくもあったからだ。
「お、お待たせ致しました。どうぞお取りくださいませ…。」
おずおずと歩み寄って来た下人に軽く頭を下げ、替えの水を受け取る。
竹千代と太助丸が一息入れると、氏真が口を開いた。
「まあ、太助丸の妹君もまだ幼い。嫁いで来れば屋敷の中で大人しくしておるじゃろう。」
「果たして、左様にございましょうか。」
それまで沈黙を貫いていた太助丸が、にわかに言った。
「我が妹は生来穏やかな気質ではございますが、時折思いも寄らぬ気の強さを見せる事がございます。若殿に無礼を働かぬか、今から気掛かりにございます。」
「太助丸にしては珍しいのう。そう気を病む事もあるまい。」
笑い飛ばす氏真を横目に、太助丸は白湯をすすった。
氏真と北条の姫との婚礼の翌々日。竹千代と太助丸は連れ立って、氏真の屋敷に向かった。
天気は晴れ時々曇り。地面には昨日の雨の痕跡がそこかしこに残っていた。
「太助丸殿の仰った通り、若奥様は幼気ながら芯の強さを感じさせるお方にございましたな。」
「うむ、たった二年会わぬ内に、また大きゅうなったようじゃ。…身も心も、な。」
二人は言葉を交わしながら屋敷に近付くにつれ、いつもと様子が違う事に気付いた。
屋敷の中から慌ただしい声や物音が聞こえる一方で、正門の両脇に立つ兵からはどこか引き締まった印象を受ける。これまでは訪れるたびに、疲れた表情を見せていたのに、だ。
二人が来訪を告げると、門番はキビキビした動作で邸内に向かい、すぐに戻って、太助丸と竹千代を迎え入れた。
「おお、太助丸、竹千代。よく来てくれた。助けてくれぬか。」
縁側に腰かけていた氏真にせがまれて、二人は早足で駆け寄った。
「若殿、いかがなされました?」
「いかがも何も、父上に離縁を申し出ようかと思い悩んでおった所じゃ。あの者が…結殿が昨日から屋敷をあれこれと…今も大掃除と蓄えの整理をするとかで、追い出された所じゃ。」
「追い出す?屋敷の主を、でございまするか?」
竹千代が仰天して聞き返すと、氏真は言い過ぎたとばかりに顔をしかめた。
「いや、出ていけと言われた訳ではない…。じゃが、輿入れしたばかりにもかかわらず、屋敷のそこここに埃が積もっていると言われてはのう…。掃除をやめろとも言えぬし…。」
竹千代が若殿の妻の行動力に啞然としていると、厨の方から盆を抱えた下人がやって来るのが見えた。
「皆様、白湯と菓子にございまする。ご用命の際はお申し付けくだされ。」
氏真、太助丸、そして竹千代が盆に乗った湯吞を手に取ると、下人はうやうやしく菓子が入った椀を縁側に置き、三人に一礼して戻って行った。
「若殿、それがしの思い違いでなければ、今の下人はご婚礼の前にお伺いした際にもおりましたような…。」
「うむ、相違ない。昨日妻と話してから、まるで人が変わったようじゃ。何があったのかのう…。」
竹千代は答えを求めて、視線を太助丸に移した。
「東から野分がやって来たようにございまするな。されど若殿、ご安心を。野分の過ぎたる後は晴天になるものと決まっておりまする。」
そう言いながら湯吞を傾ける太助丸の口の端が、僅かに持ち上がっているのを、竹千代は見逃さなかった。
お読みいただきありがとうございました。