#070 表はキラキラ、裏はボロボロ、な~んだ?
今回もよろしくお願い致します。
駿府に来てから二度目の夜は、ひどく寝苦しかった。単純に気温と湿度が高かった事に加えて、これまでは一人で就寝していたのに、これからは男性と並んで眠らなければならないという緊張があったから尚更だった。
結局私は旦那様――五郎殿が起きるより、侍女が起こしに来るよりも早く、目をショボショボさせながら起床した。
一週間続いた晴天は終了し、天気は土砂降りの雨。隣を見ると、五郎殿は掛け布団を乱す事なく、静かな寝息を立てていた。その整った顔立ちに、私は天用院殿を思い出すやら、生まれて初めて――もちろん前世を含めて――異性と床を共にした事を再確認して赤面するやらだった。
やがて侍女の呼び出しを受けて私達は起き上がり、別々の部屋で身なりを整え、朝食を共にした。今川のマナーもあってお互い一言も喋らず、緊張した雰囲気のまま朝食を終えると、私は思い切って五郎殿に頼み事をした。
と言っても特別な事じゃない。小田原城でもやって来た事と同じ。この屋敷で働く人達への挨拶と、その把握だ。
やがて客間に数十人の人が集まり、それを私は文机を挟んで見下ろした。
「皆、大儀である。これなるは我が妻、結殿じゃ。こたびは皆の名や役目を知りたいと申すゆえ、集まってもろうた。」
隣の五郎殿がそこまで言って口を閉ざしてしまったため、私自身で補足説明をする。
「皆様、急な呼び出しにもかかわらず馳せ参じてくれた事、かたじけなく思います。この度今川に嫁いで参りました、結と申します。これよりは五郎殿の妻として、誠心誠意今川を盛り立てて参ります。」
私は一度深々と頭を下げてから続けた。
「つきましては、日々私達の暮らしを支えてくれる皆様の名と顔を覚えさせていただきます。まずは私同様新参者である、小田原から来た者達からお願いします。」
私の指示に、お梅を筆頭とした侍女十二名と、馬蔵さん達護衛の侍六名が順次立ち上がって自己紹介をする。
侍女はともかく、護衛の皆さんの顔と名前を完全に把握してはいなかったため、その場で要点をまとめたメモを書き付けた。全く凛姉様には頭が上がらない。
続いて立ち上がったのは、年の頃は二十歳そこそこ、どこかお高くとまった印象を与える、見覚えのない侍女だった。
「雛菊と申します。太守様(義元)、寿桂様の命により、本日よりわたくし以下六名が側付きに加わりまする。つきましては若奥様宛ての知行と、当屋敷に務める者達の知行割について、書状をお持ち致しました。」
雛菊はそう言うと、誰の許可を得るでもなく立ち上がり、私の前に進み出て二通の書状を差し出した。
「どうぞご覧くださいませ。」
「ご苦労様。けれど雛菊、私が呼ぶ前に罷り出るとはどういう了見かしら?」
書状を受け取りながら問い詰めると、雛菊は得意満面で言い放った。
「それは無論、これよりはこの雛菊が、侍女頭として若奥様をお支えして…。」
「誰がそんな事を決めたの?」
雛菊の笑顔がひきつるのを見て、私は舌打ちとため息が出そうになるのをギリギリの所でこらえた。
どうやら彼女は自分の出自と能力に絶対の自信があって、それゆえに自分が私の側付きのまとめ役になるものと信じて疑わなかったようだ。
確かに立ち居振る舞いはお梅達より洗練されているし、私の側付きに選抜されるだけの能力はあるんだろうけれど、初対面の人に身の回りの世話全般を任せられるほど私の度量は大きくないし、何よりこの世界に産まれて以来ずっと面倒を見てくれたお梅に申し訳が立たない。
幸いと言うべきか、私の質問に義元殿や寿桂様の名前を出して来ないという事は、雛菊が侍女頭になるという人事は誰の認可も受けていないという事だ。
「この件については、後ほどお梅、それにお銀と膝を交えて話し合いましょう。雛菊、今は下がって頂戴。」
「…承知致しました。」
不満をありありと滲ませながら、雛菊は元いた場所へ戻って行った。
その後ろで、私が侍女頭の任命を保留した事が予想外だったのか、雛菊が連れて来た侍女達がざわめいている。
「今川では主の許しを待たずに雑談をする事が侍女のたしなみなのかしら?…ところで、私は全員の顔と名前を知りたいの。あなた達も、教えてくれる?」
皮肉を込めて促すと、雛菊の取り巻き達は赤面しながら立ち上がり、一人ずつ自己紹介をしてくれた。
続いては、私が嫁ぐ前から屋敷を警固している侍、十名。
「警固役組頭、尾藤安兵衛にございます。」
「同じく警固役にて副頭、武藤仁賀右衛門にございます。」
尾藤さんと武藤さん、いかにも普段から良い服着てますって感じの二人が、警固役のリーダーとサブだ。見た感じ、年齢は馬蔵さんや牛吉さんと同年代か、ちょい上くらいだろうか。
警固役十人分のメモを書き付けた辺りで、私は確認のため、五郎殿に声を掛けた。
「私は女子にございますゆえ、小田原より連れて参りました警固役の割り振りは、五郎殿にお任せすればよろしゅうございますか?」
返事なし。それもそのはずで、五郎殿は会合そっちのけで、雨が降りしきる庭の方に顔を向けていた。
「…五郎殿?」
「…ん、ああ、もう話は終わったかな?」
もしかして聞いてない?
嫌な汗が背中を伝うのを感じる。
「いえ、小田原よりお連れした警固役の差配を、五郎殿はいかがされるおつもりかと…。」
「うーん。どうしたものかのう。お主が決めてくれぬか。」
は?
ちょちょちょっと、何言ってるのこの人。私達の命を預ける警固役の割り振りを、一昨日来たばかりの妻、それも軍事に関してズブの素人である私に任せるって?
私が抗議しようとした瞬間、声を張り上げたのは尾藤さんだった。
「承知仕りました!若奥様、後ほどそちらの筆頭格のお方とお引き合わせくだされ!その上で決められました差配に、我ら一同、喜んで従いまする!」
警護責任者にそう言われた以上、私が文句を差し挟む余地は無かった。
その後、厨人――つまり料理人――やら庭師やら雑用やらの顔と名前をチェックし終わった私は、重要なポジションに空きがある事に気付いた。
「薬師の方は来られていないようだけれど、誰か、訳を知っている者は?」
小田原城でも、父上にはお抱えの薬師がいた。もちろん現代医学にはほど遠いが、一般人に比べれば知識や技術を持っている薬師がいれば、病気になった時はもちろん、事前の予防にも役立つ。
今川くらいの大大名ともなれば、要人一人一人に専属の薬師がいてもおかしくないと思ったんだけど…。
「今はおらぬ。暇を出したゆえな。」
「は…?」
相変わらず外の景色を眺めていた五郎殿の発言に、私は耳を疑った。
「な、な、なにゆえ、そのような…。」
「儂が可愛がっていた犬や猫、鳥達を、みいんな野山に解き放ってしもうたのじゃ。牙や爪で傷がつけば、そこから毒が入ると申してのう。儂になついておるゆえ問題は無いと言うたのじゃが、お主や家来衆に危害が及んでは一大事と騒ぎ立ておってのう…。」
不満タラタラの五郎殿を前に、私は首根っこを掴んでビンタを食らわせたいという衝動を、必死で抑え込んだ。
どう聞いても薬師の言い分が正しい。五郎殿の口ぶりだと、この屋敷で飼われていた犬猫鳥は数匹じゃ済まないだろう。戦国時代に狂犬病や鳥インフルエンザが存在したかは分からないが、ロクに躾けられていない小動物を、素人が同時に多数飼育すればどうなるか、前世のニュース番組で何度も目撃した。
野山に放たれた小動物やそれに襲われる一般住民は気の毒だとは思うが、ペットを保護する施設も団体も存在しない以上、薬師の選択は最善とは言えないまでも適切だったはずだ。
それをこの人は…!
「…五郎殿、一つ頼み事をお聞き届けくださいませぬか?」
自分でも気持ち悪くなるほどの猫なで声で、私は五郎殿に語りかけた。
「昨夜申し上げました通り、五郎殿は今は亡き兄上によく似ておいでです。そしてその兄は、二年前、急な病で命を落としました。何の前触れもなく…。」
五郎殿が振り返るより早く、私は袖口で顔を覆った。
涙ぐむ声色が本物かどうかは、今はどうでもいい。
「私は二度と同じ思いをしたくはございません。近く、市中より新たな薬師を探し出して参りとうございます。何卒、何卒お許しを…。」
「…そなたの好きにせよ。」
ふてくされたような捨て台詞を残し、五郎殿は席を立って、客間から出て行ってしまった。
私は鼻をすすりながら袖口で目元をぬぐい、思い描いていたリッチな生活と、現実の落差に小さくため息をついた。
「なんて事…このわたくしが侍女頭になれないだなんて…。」
「雛菊様、真にございますか?てっきり太守様か寿桂様のお許しを賜ったものとばかり…。」
「お黙り!小田原からくっついて来た連中を見たでしょう!誰も彼も田舎娘丸出し…寿桂様の側付きとして修業を重ねた、このわたくしがあの者達を導いて然るべきなのよ!」
「されど、若奥様のご意向はすでに…。」
「…こうなったら寿桂様に注進申し上げるわよ。田舎娘の風下に立つなんて、我慢ならないわ。」
「良かったのですか、組頭。」
「何がだ、仁賀。」
「確かに若殿の差配は当てにならない。組頭の機転でどうにかやりくりしているのが現状だ。だからと言って年端もいかぬ若奥様に差配を委ねるのは…。」
「博打かもしれぬな。だが、分の良い博打だと、拙者は踏んでいる。」
「なにゆえ。」
「若奥様は真心からこの屋敷に住まう者達全ての顔と名前を覚えようとしている。…仁賀、若殿の警固役になってから名前を呼ばれた事が幾度あった?」
「…思い当たりませぬ。」
「拙者も似たり寄ったりだ。加えて、あの雛菊に向かって堂々と口を利かれた。歳に見合わず、肝の座ったお方とお見受けした。」
「…組頭がそう仰るのであれば、それがしも従いまする。されど、もし当てが外れれば…。」
「…まずは小田原から来た方々と話してみよう。話はそれからだ。」
お読みいただきありがとうございました。




