#067 箱根越え
読者の皆様、常日頃から拙作をお読みいただき、誠にありがとうございます。
皆様からいただいた評価、そして感想を励みに、ここまで連載を続ける事が出来ました。
ちょっとした小ネタを拾っていただいたり、執筆の参考になりそうな動画を紹介していただいたりと、感想欄にいただいた投稿には大変元気付けられました。
#067にして、ようやく駿河に舞台が移ります。
今後も皆様に楽しんでいただけるよう、可能な限り連載を続けて参ります。
評価・感想を心待ちにしております。
天文23年(西暦1554年)7月上旬 箱根路
何百人もの北条の兵が周囲の守りを固める中、私は丁重に降ろされた輿から顔を出し、東の方を見た。そこには大きなお城がそびえ立っている。
小田原城。
私がこのパラレル戦国時代に転生してから今日まで過ごして来た、そして、もう二度と戻る事の無いであろう、私の故郷だ。
駿府への輿入れ前日、私には親族や重臣から多種多様な贈り物が届けられた。菜々姉様からは化粧道具一式、蘭姉様からは見事な刺繡が施された着物、凛姉様からは一級品の櫛、といった具合だ。
ちょっと変わっていたのは大叔父の幻庵おじさんからのプレゼントで、『幻庵覚書』と題された巻物だった。内容は嫁ぎ先での心構えや、義理の親兄弟への接し方、生活の知恵などをまとめたもので、こうした、いわばマニュアルがいつでも見られる形で手に入った事は本当に幸運だった。
小田原城で食べる最後の夕食にも、母上を始めとして大勢の親族が参加してくれたけれど、父上は最後まで姿を見せなかった。こんな時まで仕事優先かよ、と若干落胆したけど、まあ娘の結婚と言っても政略結婚だし、明日の見送りには出席してくれるらしいから良いか、と私は納得した。
翌朝、天候は快晴。いつもの寝床で目を覚ました私は、いつも通りに身支度を済ませ、いつも通りに朝食を取った。
いつも通りだったのはそこまでで、花嫁衣装への着替えやお化粧をじっくり時間をかけて済ませ、大勢の親族や家臣が居並ぶ大手門へ歩きで移動し、いかにもな音楽が演奏される中、綺麗に飾り付けられた輿に向かう。
輿に乗り込む前に、父上の姿を探すと、見送り一同の一番奥の方で、母上と並んで私をにらみつけていた。
『今川でヘマやらかすんじゃねえぞ。』
そんな声が聞こえた気がして、私は腰帯から愛用の短刀、『東条源九郎』を引き抜き、胸元で握りしめながら、父上を見つめ返した。
『行って参ります。』
そんな気持ちを込めて。
父上は、と言えば、私のメッセージをどう解釈したものか、片袖を目に当てて天を仰いでしまった。娘の嫁入りに感極まった――とは考えにくいので、多分私の反応が落第点だったのだろう。
私は最後まで父上と噛み合わなかった事に若干へこみながら、母上が後でフォローしてくれる事を期待しつつ輿に乗り込んだ。
「止まれ!止まーれーーっ!」
前方から伝言ゲーム方式で伝えられた命令で、私が乗った輿を中心とした行列が一斉に停止する。簾を持ち上げて外の様子を窺うと、数か月前に見た景色と見覚えがあったため、早川のほとりだと見当が付いた。
輿が降ろされ、側付きが近寄って来る気配がする。案の定、侍女頭副長のお銀だった。
「姫様、ここでしばし足を休めるとの事にございます。お水は十分にございますか?何か不都合があれば、何なりと。」
「ありがとう。水筒の水を足してくれるかしら。それと…。」
下半身をもじもじさせる私の様子に、お銀は険しい顔になり、
「かしこまりました。すぐにお持ち致します。」
そう言って行列の後方に走って行った。察しの良さにホッとする。
小田原城の大手門をくぐってから城下町を通過した後も、行列を一目見ようと道の両脇を群衆が埋め尽くしていたため、暑くても簾を上げられない、トイレに行きたくても行けない状態で我慢し続けるしかなかったのだ。
「姫様、駿河への道のりを改めて確かめさせていただきます。」
用を足してスッキリしていた私に、お銀が言った。
「本日は早雲寺にて一泊、翌朝出立して三日をかけて箱根の険を越え、伊豆の三島に着く見込みにございます。」
「そこで今川が警固を引き継ぐのよね?」
「左様にございます。恐らく国境を越え、今川の領国に入ってから一夜を明かし、更に二日ほどかけて駿府にご到着するものとお見受けします。」
少なく見積もっても一週間。小田原から駿府まで、女の子一人嫁入りするのにこの騒ぎだ。
トンネルをぶち抜いて新幹線を通した昭和の建設作業員の皆さんには、尊敬の念を禁じ得ない。
「姫様、御用向きの際は何なりとお申し付けを。明日からは険しい山道、三島からは今川の領国にございますれば…。」
「…そうね、頼らせていただくわ。皆にも、山道で足を滑らせないよう、気を付けるように伝えておいて。」
「勿体無いお言葉。必ず皆にお伝え致します。」
お銀は一度深々と頭を下げると、みんなのいる方へ戻って行った。
私は、満タンにしてもらった竹製の水筒を握りしめ、休憩が終わるまで、小さくなった小田原城を見つめていた。
その夜、私は予定通り早雲寺で一泊し――さすがに今回は曲者の襲撃は無かった――花嫁衣装から若干普段着よりの着物に着替えて、箱根越えに挑んだ。と言っても、徒歩で行列を構成している皆さんの苦労に比べたら、暑くて狭い輿に揺られているだけの私の苦労なんて、何程の事も無かった。
ちょくちょく簾を上げて景色を楽しんだり、『幻庵覚書』を読んで内容を頭に叩き込んだりしている内に次の宿場に着き、という事を繰り返して、予定通り小田原城を出発して四日目に、私達は北条側の最後の中継地点、三島に到着した。
既に三島には今川の旗――『足利二つ引両』が幾つも翻っていたが、事前に通達が行き届いていたのだろう、見物に集まった地元住民の様子に剣吞な気配は無かった。
後は北条と今川、双方の警護担当者がお互いの身分証明をして、私と私に随行するメンバーが今川の保護下に入るだけ、だったのだが、個人的にちょっとビックリするポイントがあった。
なんと今川の警護担当者は壮年のお坊さんだったのだ。こっそり聞いた所、太原雪斎という方らしい。
ただ、壮年のお坊さんと言っても、妙に体格が良かったので、幻庵おじさんのように僧侶と武将を兼任している人なんだろうな、と見当は付いた。
若干の緊張を感じながら北条の兵から離れ、今川が用意した輿に乗り込み、国境を越えて駿河に入る。
思ったよりも今川の兵は丁寧で――無愛想な執事、といった感じだろうか――輿の敷物はフカフカで柔らかかったし、いい匂いもした。こういう所にも、フランクだけど若干乱暴で田舎っぽい北条とは違う所が出てくるのかと、私は若干自信を喪失した。
ともあれ、その夜は今川の領国で一泊し、翌朝再び西へ出発。あと一つ峠を越えれば駿府に着く、その直前、富士川のほとりで一泊した際、雪斎殿から頼み事があった。
ここは河東、かつて北条と今川が長年に渡って争った地。再び両家が手を取り合うに当たって後顧の憂いを断つため、読経に付き合ってほしい、というものだった。
ぶっちゃけ早く寝たかったが、これから嫁ぐ家に悪印象を持たれても困るため、内心渋々ながら、私は要請を受け入れた。
事件はその読経の最中に起きた。マイクもスピーカーも不要と言わんばかりの大声で朗々とお経を読み上げていた雪斎殿が、突然変な咳をし始めて止まらなくなったのだ。
とっさに側付きに指示を出し、小田原から持って来た外郎屋の秘薬、透頂香を飲ませた所、どうにか咳は収まり、雪斎殿は無事読経を終える事が出来た。
「姫様には、大変お見苦しい所を…。」
読経が終わった後、雪斎殿はそう言って私に頭を下げた。その拍子に、禿頭のあちこちに細かい傷が見え、雪斎殿が歴戦の武将である事を窺わせた。
「いいえ、これしきの事。こたびは雪斎殿に警固を務めていただき、感謝の念に堪えません。」
私が社交辞令を返すと、雪斎殿は一転、探るような目で私を見つめた。
「禍福は糾える縄の如し。先の当家より北条への輿入れにて、駿(今川)、相(北条)の紐帯は盤石と思われました。されど両家はやがて手切れとなり、この河東で多くの血を流すに至り申した。しからばお伺い申し立てまつる。今再び、こうしてあなた様が今川に嫁がれた後、またも北条と手切れとならば、如何になさるお積もりか。」
はい出たー、めちゃ答えづらいクエスチョン。
でも大丈夫。
まだ現代日本人のメンタルが残っているとはいえ、私も一応武家の娘。覚悟はして来た積もりだし、ある程度の問答には回答をあらかじめ用意してきたのだ。
「如何にも何も、今川の妻として尽くすだけの事にございます。」
「家への忠、親への孝を忘れると仰せにござるか。」
この人、意外と性格悪いな。
「これは奇怪。わたくしの家も、親も、駿府にございます。これを盛り立てて、何の差し障りがございましょうや。」
私の切り返しに、雪斎殿は黙ってにらみつけて来たが、私はそれをにらみ返した。
何せ転生してからこの方、もっと凶悪な顔が身近にあったのだ。それに比べたら、雪斎殿の顔はまだまだ可愛いものだ。
にらめっこに先に白旗を上げたのは雪斎殿の方だった。
「…大変な無礼を働きました事、お許しあれ。」
「いいえ…それでは、わたくしはこれにて失礼します。」
母上や菜々姉様の笑顔をイメージしながら、私は微笑んでその場を後にした。
翌日、昼。
「姫様、ご無礼仕ります。側付きの百にございます。」
相変わらずの晴天の下、輿に揺られていた私は、外から聞こえた百ちゃんの声に簾を持ち上げた。
「何かあったの?」
「駿府が遠目に見えてございます。よろしければ、ご覧ください。」
百ちゃんの気配りに感謝しながら、そーっと顔を外に出すと、はるか向こうの海沿いに広大な市街地が広がっている様子が見て取れた。
「まあ…東の都とはよく言ったものね。けれど、太守様(今川義元)はどちらにお住まいなのかしら?」
小田原城のように小高い丘が見当たらない。
私が首を傾げていると、百ちゃんが補足してくれた。
「今川は代々駿府の平地に館を構えておりますゆえ…小田原のように上り下りの多い地勢ではございません。その分、人々は行き来がしやすく、商いの便も良うございます。」
小田原とは人柄も、雰囲気も違う。
未知の世界を前に、私の心の中で期待と不安が入り混じるのだった。
お読みいただきありがとうございました。




