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#066 東条源九郎(裏)

今回もよろしくお願い致します。

#061の舞台裏です。

 朝も早い内から、数珠つなぎに縛り上げられた渇魂党(かっこんとう)一味と、これを護送する北条の兵達は、早雲寺を出立し、小田原城へ向かった。

 途中で幾度かの休息を取りながら箱根路を東に進んだ一行が、小田原城の搦手(からめて)門をくぐったのは、ちょうど日が天頂に達する頃。渇魂党は留守居役の兵に引き渡され、護送して来た兵はまとめ役の合図で三々五々、自分の屋敷へ帰って行く。

 そんな中、本丸へ向かう三人の男達がいた。




「とうじょ…あ、いや、大殿。お心遣い痛み入りますが、それがし共はやはり…。」

「さ、左様にございますだ。こんな事、皆に知れたらどうなるか…。」


 御殿の一室で、こちらに背を向けて仏像の前で正座し、手を合わせる氏康に、下座に腰かけた馬蔵と牛吉は恐る恐る声をかけた。褒美を期待していなかったと言えば嘘になるが、直臣(じきしん)でもない自分達が膳を共にするなど、身の丈に合わない高待遇だったからだ。

 氏康は目をつぶったまま、暗記(そら)で経を読み上げると、一度深々とお辞儀をしてから立ち上がり、二人の前にあぐらをかいた。


「なあに言ってんだ。『酔った足軽の凶刃から姫の命を救った』大手柄じゃねえか。俺も早雲寺でもらった握り飯一つじゃ到底足りなくってよ。独りで食うのも味気ねえし、付き合ってくれや。」


 氏康の言葉になんと返したものか、二人が戸惑う内に、(くりや)の方から膳が運ばれて来る。その内訳(うちわけ)に、馬蔵は虚を突かれた。

 三人の前に置かれた盆にはそれぞれ、白湯が入った湯吞と箸、それに空の茶碗が二つ。そして氏康と二人の間に、うっすら味噌の香りをまとった湯気が漏れ出す桶と、炊かれた米がぎっしり詰まった米びつ。大皿に山と積まれた数種類の漬物。


(これではまるで、好きなだけよそって食え、とでも言うような…。)

「おう来たな。好きなだけよそって食え。俺も容赦しねえ、まごまごしてっと無くなるぞ。」


 言うが早いか、氏康は米びつと桶のフタを開け、茶碗の一つに米を盛ったかと思うと、そこに味噌汁をさっとかけた。


「あ、いや、実はそれがし共、それ程腹が空いてはおりませぬゆえ…。」


 グゥゥゥゥ。


 馬蔵の言葉を遮るように、二人分の腹の虫が騒ぐ。

 氏康は汁かけ飯を一口二口かき込み、幾度か咀嚼(そしゃく)して飲み込むと、意地悪く笑った。


「誰の腹が空いてねえって?」

「…謹んで、ご相伴(しょうばん)(あずか)り申す。」

「それがしも、謹んでご相伴に与り申しますだ。」


 馬蔵と牛吉は赤面しながら、箸と茶碗を手に取った。




「おめえらに聞いときてえ事がある。」


 しばし無言で飯を食らう中、二杯目を空にした氏康が茶碗と箸を置いて切り出した。


「ああ、慌てんな。今口に入ってる分を飲み込んでから返事すりゃあ良い。…おめえら、今の実名(じつみょう)(こだわ)りはあるか?」


 馬蔵が隣に目を向けると、牛吉もこちらを見ていた。その目には戸惑いが浮かんでいる。

 馬蔵は氏康の質問の意図を察し、口の中の米と漬物を飲み込んで、茶碗と箸を置いた。


「恐れながら大殿。それは我らに偏諱(へんき)を下さるとの仰せにございますか。」

「不服か?所領や太刀、銭の方が良いってんならそれでも構わねえが…。」

「…率直に申し上げますと、こたびの働きで偏諱を頂戴するは、あまりにも過分のご沙汰かと…。」


 馬蔵は慎重に言葉を選びながら言った。

 今の実名は牛吉と相談してやっつけ仕事で決めたもので、とても重みがあるとは言えない。昼夜を共にした事で、主君の篤実ぶりは身に染みて分かっている。

 だからこそ、戦場で一番槍を着けた訳でもなく、大将首を上げた訳でもない自分達が、『康』の一字を賜る事に抵抗があった。


「実はな、おめえらに頼みてえ事がある。結の輿入れに同行して、駿河(するが)に行ってもらいてえんだ。」


 馬蔵は新たな驚愕に襲われると共に、氏康が偏諱を与えようとする意図にも思い至った。


「姫様に随行する我らに(はく)を付けたい…そう捉えてよろしゅうございますか。」

「まあ、そう言うこった。おめえらは戦慣れしてるし、一通りの作法も心得てる。その上結とも顔見知りと来た。おめえらが結の脇を固めてくれりゃあ、これほど心強い事はねえ。」


 馬蔵は唇を引き結び、考え込んだ。

 自分には妻も子もなく、北条の(ろく)()んではいるが所領はない。小田原から駿府への移住に、さしたる障害は無い、という事だ。

 問題は、今は亡き父や祖父が守り通して来た土地を諦めるのか、という点だが、当の所領は戦乱に巻き込まれて荒れ地同然になったと聞いている。今から坂東で家を再興するという事は、無人の野に一から村落を築くも同然だろう。

 あとは、牛吉がどう返事するか、だが…。


「大殿。おら、いんや、それがしは、大殿の仰せの通りに致したく存じます。」


 馬蔵が物思いから覚めると、牛吉が今まで見た事もないような真剣な顔付きで、氏康を見つめていた。


「姫様は優しくて、聡明なお方だ。それがし共で姫様をお守り出来るってんなら、そのお話、喜んでお受け致しますだ。」


 深々と頭を下げる牛吉の姿に、馬蔵は即座に心を決め、氏康に向かって同様に頭を下げた。


「この馬蔵、牛吉と同心(どうしん)にございます。『義』も『利』も頂戴しましたからには、大殿より偏諱を賜り、姫様に同道して、駿河にても御身(おんみ)をお守り致しとう存じます。」

「…そうかい。二人とも、助かるぜ。(おもて)を上げな。」


 穏やかな微笑を浮かべた氏康は、盆を脇にどけると一度立ち上がり、背後にあった文机を代わりに置いた。


「こういうのは早い方が良い。万に一つ、縁起の悪い字だったら直してやるから遠慮なく言いな。」

(さすがに、大殿がお決めになった実名にケチをつける度胸はないのだが…。)

(やっぱり『康康』みてえな、変な名前にはしてほしくはねえだよ…。)


 若干の不安を抱きながら見守る二人の前で、氏康は二枚の紙に筆を走らせた。


「こいつでどうだ。」


不破(ふわ)馬蔵(うまぞう)康隆(やすたか)

門脇(かどわき)牛吉(うしきち)康興(やすおき)


 二枚の紙にはそれぞれそう書かれていた。


「文句の付けようもございません。有難く頂戴致します。」

「右に同じにございますだ。有難く頂戴致しますだ。」


 それは二人の、噓偽りない本音だった。

 氏康は満足そうに笑うと、再び文机を元の位置に戻し、不破馬蔵康隆と門脇牛吉康興に促して、自身も食事を再開するのだった。




 翌朝、朝食を終えて早々に、氏康は妻を始めとした一門衆と向き合っていた。


「一同、天用院殿の三回忌法要をつつがなく終え、帰城致しましてございます。」


 氏康の正室――(みつ)に続いて、子供達が一斉に頭を下げる。その顔ぶれに違和感を覚えながら、氏康は一同を(ねぎら)った。


「おう。皆、面を上げて楽にしな。はるばる早雲寺までご苦労だった。俺の分まで、しっかりお参りしてくれたな?」

「勿論にございます。」


 いつも通りの妻の微笑に底知れぬものを感じながら、氏康は鷹揚に頷いた。


「うん、上出来だ。時に、結はどうした?早雲寺で迷惑を(こうむ)った、と聞いた、が…。」


 喋っている途中で、氏康は妻から放たれる威圧感に言葉を失った。


「…ええ、それはもう大変な迷惑を。それについて殿に申し上げたい儀がございます。人払いをお願いしても、よろしゅうございますか。」

「あー、分かった。おめえら、席を外せ。二人っきりで話を…。」

「恐れながら、拙者も同席致しとう存じます。」


 そう言って進み出たのは、嫡男の新九郎氏政だった。


「いや、新九郎、あのな…。」

「よろしゅうございますよね?近習の方々も。」

「お、おう。」


 氏康が妻に押し切られる形で氏政と近習の同席を許すと、残る兄弟姉妹は少なからず興味を持った素振りを見せながら、ぞろぞろと退出していった。


「結は遅れてやって来るよう、言い含めてあります。」


 ややあって、満が口を開いた。


「あのような目に遭って、なんと不憫な…。」

「いや、あいつは大したもんだぜ。大の男の打ち込みに耐えやがったんだ。日頃の鍛錬が活きたってこったな。」

「何を吞気な。こたびはたまたま賊の腕前が劣っていただけの事。刺客が音に聞く伊賀(いが)甲賀(こうか)の手先だったら、どうなさるおつもりだったのですか。」


 結を褒めたつもりが満にバッサリ切って捨てられ、氏康は言葉に詰まった。


「いや…いや、だがよ、どこに潜んでいるかも分からねえ連中を(いぶ)り出すためにゃ、こうするのが一番…。」

「つまり、殿は釣りをなさった訳でございますね?池に腹を空かせた魚がいると知っていながら、釣り糸を垂らした。針に自分の娘を括り付けて。」

「…ぶ、無事だったから良かったじゃねえか!」

「最後に無事であれば良い、と。では次の戦の折には、わたくしを(えさ)に釣りをなさいませ。家中の皆様が殿のお指図通りに動けば、わたくしに傷一つ付く事なく、勝利を収める事が出来ましょう。」

「そんな危ない真似、出来る訳ねえだろうが!」

「結は良くて、わたくしは駄目と。あらあら、分からなくなってしまったわ。左京大夫(うじやす)殿は娘の命と、今川との婚礼を何と心得ていらっしゃるのかしら。」


 無言で片膝を揺する氏康に、次に口を開いたのは氏政だった。


「父上は拙者の元服の折、こう仰いました。まだこの世を去るつもりはない、横で仕置きの様子を見て、身に付けろ、と。…父上がお伝えしたい儀とは、三か国の大将が身分を偽り、賊と切り結ぶ手立てにございましょうか。」

「随分と口が達者になったじゃねえか、新九郎。大封(たいほう)の主が刀の稽古をしてちゃおかしいってのか?」

「そうではございません。お体をもっと大事に扱っていただきたいと申しております。拙者は元服して日も浅く、家中の大半が父上を主君と仰いでいる事、疑いございません。万に一つ、かような時に父上が落命致さば、帰服して日の浅い国衆を始め、大勢が北条を見限る事、火を見るよりも明らかにございます。」


 氏政は、氏康ににらまれても怯む事なく、とうとうと反論を並べ立てた。


(むすめ)を気遣うそのお心、まこと感嘆に堪えませぬ。されど北条の当主としては、自ら出張る事なく、警固を手厚くするなどして討ち入りに備えるべきではなかったかと。」


 氏康が沈黙する中、障子の向こうから警護の侍が声を張り上げた。


「殿。結姫様がお越しにございます。」


 その言葉に、いつしか膝を寄せ合っていた親子三人は、示し合わせたように長いため息をついた。


「今日はこのくらいに致しましょう。殿、今後はあまり『お遊び』で周りの方に迷惑をかけないよう、ご注意を。」

「…分かった、気を付ける。」

「父上、決裁待ちの書状が溜まっております。結との話が終わり次第、評定へお出ましを。」

「それも分かった。」


 氏康の言質(げんち)を取った母子(おやこ)が一礼すると、氏康は声を張り上げた。


「おう、よく来たな。まあ入れ。」


 満と氏政は、しずしずと入室する結と言葉を交わしてすれ違い、部屋を後にした。




 同日、夕方。

 評定の間には、疲労困憊(ひろうこんぱい)した氏康と氏政、そして文官達の姿があった。


「急を要する訴えについては、大方片付きましてございます。」


 氏康の側近の言葉に、誰もが大きく息をついた。さすがに今日ばかりは、不作法と咎める者もいない。


「皆、大儀である。明日に備えてよく休まれよ。」


 氏政の言葉を合図に、列席者は立ち上がり、ぞろぞろと部屋を出て行く。それは氏康も例外ではなかった。

 ただし、それは一刻も早く休むため、ではなく、別の仕事を片付けるためだった。


「本日もご機嫌麗しゅう…殿、やはりお加減が優れぬようにお見受け致しますが?」


 謁見の間の上座に氏康が座り込むと、下座で待っていた風魔小太郎が気遣わし気に言った。


「ああ、ちっと評定が長引いてな。銭は耳を揃えて用意した。目録と一緒に賊を捕らえた連中の名が入れてある。三人に一貫ずつ、間違いなく渡してやってくれ。」


 ひと月前と同様に、氏康の合図で近習達が黒塗りの箱を持ち上げ、小太郎の前に置いた。

 じゃりりん、と箱の中の銭が触れ合う音を聞いた小太郎は、中を見る事なく、頭を下げた。


「中を(あらた)めねえで良いのか?」

「この風魔小太郎、乱破(らっぱ)の頭領とは申せ、いささか人の心がございますれば…一刻も早くお休みくだされ。」

「…へっ、おめえにまで心配されちまうとはな。」


 氏康、小太郎、そして近習達の誰もが、言い知れぬ気恥ずかしさに口を閉ざしていると、たまりかねた小太郎が氏康に話しかけた。


「しかしこたびは殿も骨を折られましたな。あちらに褒美を出され、こちらに都合を付け。にもかかわらず所領の一つも手に入らないとは。まあ、相手が凶賊であれば致し方ありますまいが…。」

「いや、褒美はもらったぜ。とびっきりの奴をな。…この短刀、なんてえか知ってっかい?」


 氏康が懐から取り出した短刀に目を凝らし、小太郎は首を左右に振った。


「無理もねえやな。これから銘を打ってもらう所だ。…東条源九郎。命の恩人の名を銘打ってほしいと、結のたっての願いだ。」


 氏康は短刀を顔の前で持ち、途中まで抜いて、刃こぼれだらけの刀身に微笑んだ。


「こいつは結と一緒に箱根の峠を越えて、向こうでもあいつの身を守ってくれる。…そいつが俺の何よりの褒美だぜ。」


 『東条源九郎』の刀身は、夕陽を反射して鈍く輝いていた。

お読みいただきありがとうございました。

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