#006 左京大夫氏康、幻庵宗哲と諮(はか)るの段
今回もよろしくお願い致します。
「どう思うよ、叔父御。」
少女の軽い足音が十分遠ざかるのを確認してから、北条家当主、左京大夫氏康は口を開いた。
「いやはや、聞きしに勝るとはこのことじゃのう。」
氏康の仏頂面とは対照的に、幻庵は愉快そうに言いながら、地図と系図を畳み始める。
「産まれてしばらく泣き出さなかった、と聞いた時は肝をつぶしたのう。三つで口を利いたと聞いて、もういっぺん肝をつぶしたわい。」
ほっほっほっ、と笑う幻庵を横目に、氏康は思い出す。娘が産まれてから今日までのことを。
正室が無事出産した、という知らせを聞いたのは天文15年、武蔵国、河越城の一室だった。北条家の浮沈をかけた大博打に勝った翌朝、額の刀傷に巻いた包帯を押さえながら。
身重のまま残してきた妻に対する申し訳なさ、産まれたばかりの娘に一刻も早く会いたいという期待、全て押し殺して戦の後始末を済ませ、それからようやく供回りだけを連れて馬を飛ばして小田原に戻って見れば。城内は歓声と悲鳴が飛び交う混沌と化していた。
いわく、産まれた姫が産声を上げなかったため死産と思われたが、息を吹き返した。
半信半疑で正室の侍女たちに話を聞けば、ほぼ事実であることが判明した。だが、その時は妻も博打に勝ったのだと、自身の正室に惚れ直しただけだった。
不審を覚え始めたのはしばらく経ってからのことだった。世話係から取り立てて申し立てがあった訳ではない。むしろその逆、『聞き分けが良すぎた』。
前年に産まれた息子、助五郎と比べれば歴然だ。赤子は不意にぐずり出し、周りがあやそうが怒鳴ろうがお構いなしで泣きわめくものと相場が決まっている。
だが結は違った。
泣き出すのは決まって腹が空いた時、或いは大小便を漏らした時。周囲が対応すればすぐに泣き止む。
這って歩けるようになってからも、部屋から無闇に出ようとしない。
玩具に余り関心を示さず、周囲の会話を聞き取ろうとするようなそぶりを見せる――。
極め付きは一人で立ったり座ったりできるようになり、口を利き始めた頃からの発言。「おだのぶなが、とよとみひでよし、とくがわいえやす、このかたがたにききおぼえはございませぬか?」
なぜ城から出たこともない娘が、会ったこともない人間を気にするのか。奥の間に出入りしていた人間に聞き取ったものの、三つの人名に聞き覚えはなく、当然結の枕元で口にした覚えもないという。それだけなら妙な夢を見たのだろう、と片付けることもできた。
念のため北条家子飼いの乱破――忍者の呼称の一つ――風魔党に調べさせたところ、上がってきた報告に氏康は目を剝いた。
「尾張国下四郡守護代、織田大和守殿家中に織田備後守なる者あり。嫡男吉法師、天文十五年のおり齢十三にして元服したるよし。織田三郎信長なり。」
遥か西の、守護代の家臣の息子の名を言い当てた。自分が産まれた年に元服した男の名を。その事実は結に注目する理由として十分すぎた。
だが氏康の苛立ちは“そんなこと”に起因しているのではない。産まれてこのかた結が自分に向けてくる、あの目だ。
結は自分を恐れている。その上で、自分の機嫌を損ねまいと、まるで新参の家臣のように接してくる。少しでも所領を多く分け与えて貰おうという魂胆が透けて見えるあの目でだ。
氏康は乱世の大名だ。欲を否定することは決してしない。だが、年端もいかぬ娘がまるで成人のように感情を押し殺し、いかにも私は手前勝手の許されぬ武家の女子にございます、と振る舞っているのが気に食わない。
自分もそうだったが、わがままを言って許されるのは子供の特権だ。一つ、また一つと年を重ねるごとに、自分の心中を大っぴらにすることは許されなくなっていく。もちろんそのわがままが認められるかどうかは全くの別問題だが、最初から諦められては手応えがない。
今回、幻庵を呼んでまで先祖の業績を明らかにしたのは、妻や子にも行ってきた通過儀礼を兼ねてのことだったが、結の心中を探るためでもあった。
坂東の戦乱を切り開き、基盤を築いた初代。名乗りを改め、安定をもたらした先代。二人に対する評価は様々だった。
かく言う氏康も九つの頃――大永3年=西暦1523年――父氏綱から名乗りを北条に改めると告げられ、大いに反発し、窘められた苦い思い出がある。当時は「論語」を始めとした“道徳的な”本に執心していたため、損得勘定で父祖伝来の名字を捨てることに抵抗があったのだ。
長男西堂丸は、「乱世のことなれば、致し方無い仕儀と存じます。」といかにもわきまえた風の感想だった。
では結の見方はどうだったか。
「初代様も先代様も、勇気のあるお方。自分には到底真似できない…か。」
結局、結の心中を推し量ることはできなかった。それは娘がやはりひたすらに聞き分けのよい女子であるということか、それともまだ何か隠しているのか。
いずれにせよ。
「当主殿。良ければわしが面倒を見るが?」
結に見せていた笑顔を引っ込めた幻庵が聞くと、氏康は首を横に振った。
「あいつはまだ六つだ。それに、叔父御には息子どもの器量を見てもらわなきゃならねぇ。とは言え、あいつに通り一遍の嫁入り修行だけってのはもったいねぇな…。」
湯吞みを持ち上げ、中身が空になっていることに気付き、再び降ろす。
「…風魔党に掛け合う。気の利いた女乱破がいたらそいつを側付きにさせて様子を見る。」
「それは面白そうじゃのう。」
ほっほっほっ、と笑う幻庵につられて氏康も口角を上げる。
「さぁて、この博打はどんな目が出るかねぇ…。」
お読みいただきありがとうございました。