#056 北条氏政の器(うつわ)
今回もよろしくお願い致します。
六人の弟妹が各々の席に戻って行くのを見届けた松千代丸――改め、北条新九郎氏政は、広間の真ん中で歌い踊る遠縁の親戚を、上座から見るともなしに見ていた。
「若君、いかがなさいました?どこかお加減の悪い所でも…?」
いつもより抑えた声量で――つまり常人の話し声と同等の声量で――脇に控えていた「玉縄殿」、北条孫九郎綱成が尋ねると、氏政は座布団に腰かけたまま綱成に向き直り、居住まいを正して、ようやく口を開いた。
「不躾ながら玉縄殿。思い違いでなければ、貴殿が当家に婿入りする前の家名は…。」
一度大きく息を吸って、吐く。
「福島ではなかっただろうか。」
「ははっ、相違ございませぬ。」
あっさり認めた綱成に、氏政はとっさに身構えた。かつて祖父が滅ぼした一門の生き残りが、北条家随一の精鋭、玉縄衆を率い、刀を振り抜けば自分の首をはね飛ばせる位置にいる。その事実に背筋が凍り付いたからだ。
「そう気を張るんじゃねえ、新九郎。知恵が回るのは結構だがな、一から十まで疑ってかかっていりゃあ、身が持たねえぞ。」
氏政の背後で、盃に手酌で清酒を注ぎながら、氏康が言った。
「さっきの今川の跡目争いだがな、恵探殿と福島一門を攻め滅ぼした花倉攻めで先手を務めたのは孫九郎の手勢だ。これでもまだ孫九郎の忠節を疑るってのか?」
「…申し訳ございませぬ、父上、玉縄殿。されど、なればなおの事、承服致しかねます。なにゆえ本家を…福島一門を攻め滅ぼした北条に、それほどまでに忠節を尽くされるのですか。」
理解できないものを見る目で問いかける氏政に、綱成は腕を組み、首を傾げた。
「本家を滅ぼした…さように思うた事は無かったやもしれませぬな。」
「なんと…。」
「なにぶん、幼き頃より小田原の皆様には大層面倒を見ていただきましたゆえ。殿とは生まれ年が同じ、元服の年も同じ。その上先代様のお子を娶りました上は、この孫九郎、北条の一門も同然の厚遇を受けて参ったと申すほかございませぬ。御恩は戦での働きでお返しする事が武門の務め。この孫九郎、福島一門の仇を討つ積もりなど、毛頭ございませぬ。」
返す言葉に迷う氏政に、綱成は目じりを吊り上げると、両手を握りしめて床に押し当てた。
「負い目を感じておりますのは、むしろそれがしにございます。」
「負い目…?」
「天用院殿をお守り出来なかった事にございます。御嶽の初陣にて窮地をお救いする事は出来申したが、病よりお救いする事は叶いませなんだ。我が子もとうに元服した上は、天用院殿に代わって三途の川を渡る事こそ、それがしに出来る最後のご奉公と思い定めておりましたが…。」
「俺が引き止めた。つまらねえ事をぬかしてんじゃねえ。真に天命だってんなら、とっくにてめえはくたばって、代わりに天用院殿が回復してるはずだってな。大体、四十路にもなってねえってのに『最後のご奉公』たあ、気が早すぎらあ。」
綱成の覚悟の重さと、氏康の容赦のない言いように、氏政は言葉を失った。
「恐れながら若君。もしや天用院殿に代わって嫡男となられた事に、お心を騒がせておいでではございませぬか?」
「さ、さような事は…。」
氏政は思わず視線を逸らした。綱成が言った通り、心中に不安を抱えていたためだ。
文武に優れ、人当たりも良い長兄が北条の当主となり、自分は一門衆の筆頭格としてその治世を支える。昨年春に天用院がこの世を去るまで、そう信じて疑わなかった。
頭では理解している積もりだった。武家の男子として、兄が亡くなれば代わって跡を継ぐ。それが当然だと。
しかし実際に自身が北条の新たな嫡男になった時、氏政はかつてない重圧に襲われた。自分が伊豆、相模、武蔵、三カ国に住まう家臣と領民の生殺与奪の権を握るのか、と。
家臣の陰口を立ち聞きした事も一度や二度ではない。
『松千代丸様は兄君に比べて器量が小さくあられる』
『北条の行く末が思いやられる』
そんな日は決まって眠れぬ夜を過ごした。
今も内心不安でたまらない。自分に兄の代わりが務まるのかどうか――。
「元服したての小僧が、一丁前に当主気取りか。俺はまだ家督を譲った覚えはねえぞ。」
物思いにふけっていた氏政は、氏康の言葉に、雷に打たれたかのように振り返った。
「確かにお前に天用院殿みてえな人の好さはねえ。だが、兵法書や治世論を何遍も読み込み、当世風に読み解けるってのは大したもんだ。そいつは天用院殿にも出来なかった事だぜ。」
「父上…。」
「最初っから何でもこなせ、なんて無理難題は言わねえ。評定、お公家さんとの折衝、戦の支度…。一つ一つ、覚えていきゃ良いんだ。俺もまだまだくたばる積もりはねえ。横で確と見て、身に着けろ。」
「戦の折は我ら玉縄衆を存分にお使いくだされ。必ずやお役に立ちましょうぞ。」
氏康と綱成の激励に、氏政はうつむいてぎゅっと目をつぶり、鼻をすすった。武家の嫡男たる者、大勢の前で涙を見せる訳には行かなかったからだ。
「…承知致しました、父上。まだまだ未熟者にございますれば、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します。玉縄殿、今後とも北条をお支えくだされ。」
「おう、その意気だ。」
「お任せあれ。」
二人から返って来た返事に、氏政は思わず微笑んだ。
「まあなんだ、新九郎。とりあえずあれはやめとけ、汁かけ飯。」
「…?父上もお召し上がりになっておいででは?」
「食うなってんじゃねえ、もっとガッと行けって言ってんだ、ガッと。見てっとおめえ、かけちゃあ食って、かけちゃあ食って、焦れってえったらねえや。」
「恐れながら父上、汁かけ飯は奥が深うございます。膳が運ばれて間も無い、温い飯に温い汁。汁を吸って柔くなった飯に、たっぷり加えた汁。一食で幾度も味わえまする。こればかりは父上の仰せと言えども、容易には従いかねまする。」
「…へっ、言うじゃねえか。その調子だぜ、新九郎殿。」
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