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#052 秘密の名前

今回もよろしくお願い致します。

天文22年(西暦1553年)12月末 小田原城 広間


 不思議な感覚だった。

 2年前と同じ場所、同じ顔ぶれ。

 新九郎兄者はもういないはずなのに、上座に「新九郎兄者」が腰掛けている。

 いや、頭では分かっている。

 2年前に「新九郎」を継いだひとがいなくなって、今日別のひとが改めて父上から「新九郎」を継いだ。

 北条(ほうじょう)新九郎(しんくろう)氏政(うじまさ)

 ついさっきまで松千代丸と呼んでいたひとの、新しい名前だった。




 あっという間に時は流れ、気付けば年の瀬が迫っていた。

 例によって年末年始の挨拶のため、父上の親戚一同や重臣、国衆の長、他家の名代(代理人)等々が小田原城を訪れ、大広間を人で埋め尽くした。

 そこで父上が発表したのが松千代丸兄者の元服、そして来年夏の私の輿入れだった。

 一通り儀式や重要事項の伝達が終わると、例によって父上以下親族一同は広間に移動し、内輪で祝宴を執り行う運びとなった。


「若君、よくぞお達者で…ご立派になられました!」


 やはりと言うべきか、司会進行はこの人。玉縄衆を率いる北条(ほうじょう)孫九郎(まごくろう)綱成(つなしげ)殿だ。

 席の配置も2年前とほぼ同じだが、私の向かいの男性陣が座る席が若干さびしく見える。次男の松千代丸…じゃない、新九郎兄者が嫡男になり、四男の太助丸兄者が駿府に行った現状、両親を同じくする兄弟は三男の藤菊丸兄者しかいないからだ。

 もし新九郎兄者がまた急死したら、今度は藤菊丸兄者が次の新九郎に…。

 不吉な想像を振り払うように、私は頭を強く左右に振った。


「新九郎の初陣は当面先だ。しばらくは小田原で評定や治世の手立てを学ぶ事になる。」

「皆の衆、今後も北条を盛り立ててくれ。わしも嫡男として、力を尽くそう。」


 父上に続いて新九郎兄者が声を張り上げると、私達は一斉に平伏した。


「さあ、堅苦しい話はここまで!ご一同、存分にお楽しみくだされ!」


 孫九郎殿の大音声(だいおんじょう)を合図に、膳を抱えた女房(にょうぼう)――女性奉公人――達が一斉に入室し、食器同士が触れ合う音に列席者の明るい声が混じり合う。

 私はこの後の段取りを思い出しながら、自分の前に膳が回ってくるのを待った。




 宴会が始まってまずする事は、今日の主役への挨拶回りだ。新九郎兄者の膳の真正面に長い列が出現し、私はその十番目か二十番目くらいのポジションになった。

 みんな兄者にお酌をしながら、激励したり、ヨイショをしたりして、次の人に席を譲っていき、ようやく私の番が巡って来た。


「元服の儀、誠にお目出度(めでと)うございます。」


 定型文を言いながら、新九郎兄者が掲げた盃に清酒をちょびっと注ぐと、兄者は黙って僅かに首肯し、注いだばかりのお酒を一息に飲み干した。


「わしもこれよりは北条の嫡男として、一層励まねばならぬ。結よ、お主も輿入れの備えは進んでおろうな。」

「なにぶん未熟者にございますゆえ、至らぬ点も多うございますが、今川にて北条の面目を失う事の無きよう、日々稽古に励んでおります。」


 相変わらず自分にも他人にも厳しい兄者に、私はそう返した。

 自分でも頑張っているとは思う。でも準備万端かと言われると、気軽に「はい」とは答えられない。

 そんな気持ちを込めた返事に、兄者がケチを着けて来るのではないかと警戒したが、兄者はあらぬ方向に視線を飛ばしながら、


「…承知。今後も稽古を怠るでないぞ。」


 そう言うに留まった。

 思えば前の「新九郎兄者」――いや、もう「天用院殿」とお呼びしなくては――が亡くなって以来、こうして直に話すのは初めてかもしれない。

 かつて未来の当主をお支えすると意気込んでいた兄者が、自らその立場になる事に不安や葛藤は無かったんだろうか。


「結。後がつかえてんだろうが。一段落したらこっちから呼んでやる。後ろに譲ってやれ。」


 なんと切り出したものか迷っている内に、新九郎兄者の横に控えていた父上に見咎められてしまった。やむなく会釈をして、清酒が入った徳利(とっくり)を定位置に戻し、次の人に席を譲る。

 すでに広間の空気はほどよく温まり、自分の席を立って挨拶回りをする人々でごった返していた。

 自分の席に戻り、一仕事終えた事に安堵していると、


「結。結ったら。」


 声が聞こえた方に目をやると、腹違いの姉、蘭姉様と凛姉様が私をにらみつけていた。


「説明してもらおうかしら。新九郎殿の(いみな)について。」

「取り決めを破ったのであれば、相応の報いを受けてもらう事になるわよ。」


 やっぱりそう来たか。

 大広間で新九郎兄者の諱が発表された時から、二人の刺すような視線を感じてはいた。

 理由も見当が付く。私達三人しか知らないはずの名前を、どうして父上が知っているのか、という事だ。

 さて、どう弁解したものか。

 私は手元の白湯で喉を潤しながら、これが奇跡的な偶然である事をどうすれば二人に納得してもらえるだろうか、と頭を悩ませるのだった。

お読みいただきありがとうございました。

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