#043 濃尾平野の中心で哀を叫ぶ
今回もよろしくお願い致します。
お栗の父親は、村で一番の地主の傍流だった。
一族が所有する田畑は広かったものの、そこでの米や野菜作りには、分家の者、つまりお栗達も協力しなければならなかった。
勉学に励む時間も金も無かったため、当時のお栗は読み書きすら出来なかった。しかし周りの大人達も似たり寄ったりの状態では、それを苦に思う事は無かった。
夜明け前に起き、母を手伝って朝食の支度をする。朝食をさっさと済ませ、手早く後始末を済ませたら農作業の時間だ。半日で終わる日もあれば、一日かかっても終わらない日もある。太陽が山にかかり始めたら家に戻り、母を手伝って夕食の支度。日暮れ前に夕食を済ませ、ぺらぺらの布団を引っ被って寝る。一年の大半はこうして過ぎていく。
秋になると、暮らしに余裕が出て来る。田んぼの水を抜いて稲を刈って束ね、木組みに架けて乾かす。頃合いを見計らって倉に運び込み、脱穀。中身が詰まっている良い籾だけを選り抜いて精米。米粒を俵に詰め、期日までに一定量を年貢として納めればひと段落だ。
注意すべきは、年貢の納入先だ。村は尾張とも美濃ともつかない境目にあり、どちらか一方に年貢を納める事はその勢力への帰参を意味していた。もう一方の不興を買う事態を避けるためには「半手」――つまり年貢を均等に分け、双方に半分ずつ納めるしか無かった。
ともあれ、子供達にしばしの休息が訪れる。野山で遊んだり、豊作を願う祭りに加わったりと、冬までの短い休みを目一杯使うのだ。
冬は秋までに貯め込んだ食料で食いつなぎながら、次の田植えに備えての下拵えを手伝う。種籾の管理、農具の手入れなど、やる事は山積みだ。
冬が終わり、村人総出で社に豊作の祈りを捧げると、倉で育てていた苗を引っ張り出し、田植えを始める。
それがお栗にとっての全てだった。
他の生き方を知らない以上、不満に思う事も無かった。
たまの楽しみの一つは、村に立ち寄る行商人だった。美濃の稲葉山城に近いという立地条件から、城下町を訪れた行商人が、尾張に向かう途中しばしば村を訪れ、小さな市を開いていた。
手持ちの銭が無い以上、お栗は商品を眺める事しか出来なかったが、傷一つ無い漆塗りの箱や、細かい装飾が施された櫛や簪を見ながら兄弟姉妹とあれこれ語らうのは、年に数回あるかないかの、限られた贅沢だった。
今からおよそ5年前、その年の収穫も終わり、お栗が同年代の友人達と祭りの相談をしていた頃だった。大人達が不安そうに話し合っていたのは、尾張の国衆達が一斉に兵を集めているという噂だった。
美濃に攻め入る前触れではないか――不安に思った名主は、乱暴狼藉を禁ずる禁制を出してもらえるようあちこちに掛け合ったが、その努力は水泡に帰した。尾張の織田なにがしが、国衆達を率いて美濃に攻め入ったのだ。
軍勢が迫っていると知り、村の者達は揃って山に避難して難を逃れた。
だが軍勢が通り過ぎた後、村に戻ったお栗が見たのは、焼き払われた家々とぐちゃぐちゃに踏み荒らされた田畑、そして米俵が根こそぎ持ち去られ、空っぽになった倉だった。
村人達は落ち込む間も無く、家の立て直しと食料の確保に奔走した。当然お栗も例外では無かった。野山に分け入って食べられる草や実を探し、犬や猪を仕留めて持ち帰った。
しばらくして、稲葉山の城に攻め入った尾張の軍勢が大敗を喫したという噂が流れた。それを聞いた男衆数人が槍を担いでどこかへ向かい、数日後には幾らかの金品を携えて戻って来たが、日々の生活に追われるお栗にその出元について考える余裕は無かった。
地主が隠しておいた銭で種籾や当面の食料を買い付け、どうにか冬を越す目処が立った辺りで、主立った村民が集会を開いた。来春以降の村のやり繰りについての寄合だ。
尾張勢に踏み荒らされた田畑の修復は、一部を除いて完了した。しかし商人から仕入れた種籾の量では、仮に来年の年貢が免除されたとしても、村人全員を養う事は難しい。誰かが犠牲にならなければ、共倒れになる。
寄合の出席者がお互いの顔色を伺う中、お栗の父が名乗りを上げた。村を出て、相模にいる遠縁を頼る、と。進んで口減らしに協力してくれたお栗の父に、男衆は感謝し、手持ちの銭を少しずつ出し合って贈った。
数日後、お栗は家族と共に荷物をまとめ、10年余りを過ごした故郷に別れを告げた。
村を出た顔ぶれは父と母、そして自分を含めた子供達、合わせて8人。
尾張、三河、遠江を過ぎ、駿河に入る頃には兄弟姉妹の半分、3人が命を落としていた。そして更に、相模に入るために箱根の峠を越える途中2人が落命。
小田原に着いた時には、両親の子はお栗ただ一人になっていた。
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