#040 彼女はチートを活かせるか
今回もよろしくお願い致します。
前世、私にとっては近所の図書館が最高の遊び場だった。マナーさえ守っていれば、無料で本を読んだり、ビデオを観たり出来るからだ。
もちろん置いてある小説が一世代以上昔のシリーズだったり、人気の漫画が何度も読み込まれて補修の跡だらけになっていたりしたけど、そこでは私は別世界の住民になりきり、ほんの一瞬だけ自分の境遇を忘れる事が出来た。
そんな私が一時期夢中になったのが、二、三十年前に出版された児童向け歴史漫画シリーズだった。
中でも印象的だったのはいわゆる戦国の三英傑。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人だ。
織田信長が全国デビューを果たしたのが言わずと知れた桶狭間の戦い。――そこで討ち死にし、信長の踏み台となったのが今川義元。
私がこれから嫁ぐ方の父君…つまり私の義理の父になる人物だ。
「結?どうかしたの?顔色が優れないようだけれど…。」
母上の声にはっと我に返る。
今川家の現当主の諱を聞いた途端に押し黙った私を不審に思ってか、父上は怪訝な顔付きで、母上は珍しく心配そうな表情を浮かべてこちらを見ている。
「申し訳ございません、少し、その…。」
袖で口元を隠しながら、私は頭脳をフル回転させた。
これは…もしかしてついに来たんじゃなかろうか。転生モノのお約束――転生者が未来知識でチートする展開が!
確か今川家は義元の死後、あっという間に滅亡してしまったはずだ。
桶狭間の戦いが起こるのが一年後か十年後かは知らないが、折角これからお嫁に行こうっていう時に、そんな目に遭うのは願い下げだ。ここはどうにか未来のお義父様の危機を予言して、今川家の滅亡を回避してもらおう。
歴史改変を引き起こす可能性もあるが、信長は天才だったんだし、桶狭間の戦いが無くても最終的には天下を統一出来るだろう、多分。
ん?天下統一したんだっけ、信長。
とにかくここは父上に未来知識を披露するために…そうだ、この手で行こう。
「父上、母上。実は幼き頃より、しばしば戦の夢を見た事がございます。それも、何度も同じ夢を。その夢に、今川のご当主様が…。」
「何だと?」
父上が食いついた事に口元が緩みそうになるのをこらえながら、私は前世で読み込んだ桶狭間の戦いの様子を語り始めた。
障子の向こうからざぁざぁと、雨の降る音が聞こえ始めていた。
東海の大大名、今川義元は、上洛を志し、四万五千の兵を率いて尾張に迫った。
尾張、清洲城の小大名、織田信長の手勢は僅か二千。家臣達は籠城を進言するも、信長はこれを退けて就寝。家臣達は織田家の滅亡を確信して絶望した。
しかし翌朝未明、信長の寝所に急報が届く。
今川義元、桶狭間に陣を敷き、既に勝利を確信。前祝いの宴を催しているとの事。
織田信長は飛び起き、陣触れを出すと、「敦盛」を舞い、鎧を身に着け、馬に飛び乗って清洲城を出陣した。二千の兵がその後に続く。
信長が桶狭間に近付くにつれ、雲行きが怪しくなり、激しい雨が降り出す。雨音は信長軍の足音をかき消し、信長は今川軍に察知される事無く、伸び切った今川軍の側面に迫る事が出来た。
信長の号令一下、二千の兵が今川軍本陣に殺到する。勝ち戦を確信し酔いが回っていた今川軍の将兵は応戦もままならず、蹂躙される一方。
馬に乗れず、輿に乗っていた義元は逃げるに逃げられず、そのまま首を取られた――。
ぬるくなったお茶をすする。いっぺんに沢山喋ったせいで喉が乾いてしまった。
誰もが無言になった結果、部屋は外から響く雨音に包まれている。特に夢の話とは言え、弟が討ち死にしたと聞かされた母上の動揺は大きかったらしく、先ほどの私と同様に両袖で口元を抑えている。
もうちょっとソフトな表現にすべきだっただろうか。冷静になった頭で若干後悔していると、考え込んでいた父上が扇子で膝を叩いた。
「まるで見て来たように話すじゃねぇか。確かにただの夢で片付けられる話じゃ無さそうだ。だが、幾つか腑に落ちねえ所がある。」
何かおかしな所があっただろうか?急いで居住まいを正し、父上に向き直る。
「まず義弟殿の大義名分だ。四万五千の大軍で上洛しようとしたって話だったが、何のための上洛だ?」
「それはもちろん、天下を制するために…。」
「京には公方様がいらっしゃるってのにか?公方様をお助けするってんならともかく、取って代わろうってんならそりゃあ謀反だぜ。」
え、えーっと、その辺どうなんだろう?
「次に今川の人数だ。俺の見立てじゃ今川が揃えられる兵は二万と…五千って所だ。残りの二万はどっから来た?北条と武田の兵が加勢してたって事か?」
え、そうなの?いや、漫画にそんな描写は無かったと思うけど…。
「それと、桶狭間だったか?尾張の地勢には明るくねぇが…大軍が縦に伸び切るような死地に本陣構えて、吞気に酒宴をおっ始めるような真似を、あの義弟殿がするってのはどうも合点が行かねえ。」
うっ。そう言えばついさっき、父上も義元殿に苦しめられたと聞いたばかりだった。
今川義元って実は凄い人なの?それともこのパラレルワールドだけの設定?
「あと、義弟殿は馬に乗れねぇんじゃねぇ。乗らねぇだけだ。塗輿は公方様に認められた正当な守護の証だからな。」
えっえっ。
「そういやその…織田上総介だったか?夢の中で義弟殿を討ち取ったのは。前にもその名前に聞き覚えが無えか、方々に聞いて回ってたな。」
えっ、まさか信長も存在しないとか?
「風魔党に探らせたが、確かにいる。尾張の二十そこそこの若殿だっつう話だ。」
よ、良かった。
信長がいなかったら予知夢もへったくれも…。
「ただな、織田上総介の居城は清洲じゃねぇ。那古野だ。清洲は尾張の守護、斯波殿の城だ。…織田上総介は守護殿を追い出したってのか?」
もう、もうダメだ。
今川義元の名前を母上から聞かされた時よりも酷い衝撃に、私は危うく崩れ落ちそうになった。父上の疑問に何一つ明快な答えを返せない。
何だよあの歴史漫画。
全然当てにならないじゃん!
氏康が投げかけた疑問に結が押し黙る事しばし。
気を取り直した満がお茶会の閉会を申し出た事で、部屋の気まずい空気はどうにか払拭された。
「それでは父上、母上、ご無礼仕ります…。」
目に見えてしょげ返った様子で部屋を退出する結とその侍女頭を、氏康と満は無言で見送った。
開いた障子の合間から、雨が止み、雲の切れ端が浮かぶ夕焼け空が見える。
「折角結が夢の話をしてくれたというのに、無駄になってしまいましたねぇ。」
残念そうに、それでいてほっとしたように満が呟いた。
腹違いとは言え、弟が討ち死にする夢を見たと聞いて肝を冷やしたが、どうやら実在する人物が登場するだけのおとぎ話だったようだ。反面、「身内」に迫る不運を感じ取り、取り除けるかも知れないと意気込んでいた娘の熱弁が徒労に終わってしまった事を、残念に思う気持ちもあった。
「まぁな。あいつが語った戦の有様は、理屈に合わねぇ事ばかりだ。ただな…。」
満が夫の方を見ると、氏康は再び考え込んでいた。
「戦ってのはいつでもどこでも理屈通りに動くもんじゃねぇ。実際、河越であれだけの勝ち戦になるとは、俺は思ってもみなかった。もちろんやれるだけのこたぁやった。攻め手に調略を仕掛けて、夜明け前を狙って一点狙いで攻めかかった。それでも精々、攻め手の陣に風穴を空けられりゃあ御の字だろうと踏んでた。…フタを開けて見りゃあ、河越を取り囲んでた大軍は跡形も無く消えちまった。」
当時河越城の指揮を執っていた幻庵と綱成が、援軍の接近を察知して即座に動いた事も戦果の拡大に繋がった。だがそれが分かったのはあくまでも戦闘に一区切りが付いてからの話で、結果的に大勝利を収められるとは予想だにしていなかった。
兵法書を読むだけで名将になれるのなら、誰も苦労はしない。だからこそ、武士は元服したばかりの我が子を、一刻も早く戦場の気配に慣れるようにとの願いを込めて、初陣へと送り出すのだ。
「では、結が見た夢も正夢に…?」
「言った通りだ。筋の通らねえ事が多過ぎる。全部が全部夢の通りにはならねえだろうよ。」
だが、と氏康は誰にともなく呟いた。
「筋が通らねえからこそ乱世…それだけは言えるな。」
軒先から垂れ落ちた水滴が、石に当たってぴちょん、と音を立てた。
お読みいただきありがとうございました。




