#039 本音と建前と雑談と驚愕と
今回もよろしくお願い致します。
翌日午後、「お勉強」を終え、身支度を整えた私は、侍女頭のお梅を連れて母上の部屋に向かっていた。
ぶっちゃけ百ちゃんに着いて来て欲しかったが、百ちゃんにはここ数か月間、特訓スケジュールの作成から実地指導に至るまで負担をかけまくっている。たまには休んでもらわないと。
天候はあいにく曇りで、肌を刺すような直射日光を避ける事は出来るが、代わりに潮の香りが混ざった湿気がまとわりついて来る。海辺に建つ小田原城の数少ないマイナスポイントだ。
そんな益体も無い事を考えながら廊下を進んでいると、母上の部屋が見えて来た。そう言えば、こうして個別に母上とお話するのはひょっとすると初めてかも知れない。
部屋の前の侍女二人が軽く頭を下げ、両脇にどく。入れ替わるように障子の前に両手両膝を着き、頭を下げる。
「結にございます。お召しにより参上仕りましてございます。」
「あら、来てくれたのね。入って頂戴。」
室内から聞こえて来た母上の声に、脇に控えていた侍女が静かに障子を開く。
上座に座っているであろう母上に挨拶しようとして、私は硬直した。
「おう、よく来たな。まぁ上がりな。」
上座に、このお城の最高権力者である父上が腰かけていたのである。上座にいるはずの母上は、その横で何やら湯気を噴き上げる黒い物体を前に微笑んでいる。
「ちちっ、父上におかれましてはご機嫌麗しゅう…。」
「ああ、わぁったわぁった。時間が取れたんでな、奥の間の様子を見に来たって訳だ。もう挨拶は良いから、こっちに上がりやがれ。」
反射的に五体投地の姿勢を取った私に、父上が焦れたように言った。
最初から父上がいると知っていれば、理由を付けてサボれたかも知れないのに。後悔先に立たず、という格言を嚙み締めながら、敷居をまたいで父上の真正面、母上のはす向かいに正座する。
「お梅、で良かったかしら。あなたもどうぞ。」
母上に促され、お梅も私の斜め後ろに座る。背後で障子が閉じられる気配がした。正直鉄の扉が閉められたような気持ちだ。
「今かあちゃんが茶を点ててくれる所だ。楽にして待ちな。」
言われて見ると、母上の前にあるのは茶釜や茶碗といったお茶の道具だった。
「今日は身内で飲むだけですもの、作法は気にしないで頂戴ね。」
母上はそう言いながらお茶を点て、父上、私、お梅、自分の順番で配った。
茶碗を見ると、父上だけ白地に何やら青い模様が入ったお椀で、私達三人はお揃いの黒いお椀だった。まあこの中で一番偉いのは父上なんだし、当然と言えば当然か。
私も茶道の初歩は習っているので、音を立てずに少しずつ飲む。相変わらず、苦いけど不味くは無い、不思議な味だ。と、同じようにお茶をすすっていた父上が口を開いた。
「時に結。近頃随分と根を詰めてるそうじゃねぇか。」
侍女達とやっている特訓の事で、何か言われるんだろうか。身構える私の目の前で、父上は脇に置いてあった弁当箱サイズの箱を手に取った。
「こいつをやる。お梅。」
父上の呼びかけにお梅が素早く立ち上がり、しずしずと父上の側に寄ると、箱を受け取り、私の前にそっと置く。正直まどろっこしいが、偉い人と物のやり取りをする時はこうして身分が低い第三者を介するのが常識、らしい。
「開けてもよろしゅうございますか?」
「良いに決まってんだろうが、ちゃっちゃと開けやがれ。」
父上の許可を得て箱を開けると、中には茶色と黄色の中間のような色合いの、スポンジ状の長方形が入っていた。
「…南蛮菓子の『かすていら』だ。外郎屋が仕入れて献上して来た。」
かすていら…カステラ?
嘘、ちょっと待って。あのカステラ?前世、家族が食べて捨てた後、生地が僅かにこびりついた台紙をゴミ箱から探り当てて舐めた、あのカステラ?
「その、何だ。近頃輿入れに備えて大いに励んでると聞いたもんでな。折良く『かすていら』が手に入ったのも何かの縁だ、褒美にくれてやる。」
父上の言葉に有頂天になった私は早速カステラを手に取ろうとして――自分にストップをかけた。本当にこのまま食べてしまって良いのだろうか?
私は現在花嫁修業の真っ最中だ。良い嫁とは、常に父、夫、息子を立てるものだ――と習った記憶がある。それなのに、ここで勧められるままカステラを食べてしまって良いのだろうか?
「どうした、何か不服でもあんのか?」
中々カステラに手を付けない私に業を煮やしたのか、父上が不満を滲ませた声で問いただして来た。
「…いえ。不服など。滅相もございません。父上のご厚情で胸が一杯になりましてございます。お家のため修練に励むのは当然の事。どうぞこの『かすていら』は、私よりも松千代丸殿に下されますよう…。」
「莫迦か、てめえは。」
断腸の思いを押し殺し、しおらしい態度でカステラを返却しようとした途端、予想外の罵声が返って来た。
「情けで胸が一杯だ?それとてめえの腹と、何の関わりも無えだろうが。四の五の言わず食え。」
「さ、されど、かように希少なもの、私には勿体のうございます。」
「あのなぁ…。」
「結。殿のお気持ちを汲んで差し上げて。」
またも父上が予想外の反応を見せた事に狼狽していると、にわかに母上が口を開いた。
「もうすぐお嫁に行く結に、出来る限りの事をしてあげたいの。私も同じ気持ちよ。」
「松千代丸には俺からその都度褒美を出す。たまにゃあ素直に受け取れ。」
そう言って、父上はそっぽを向いてしまった。
本当に、本当に食べて良いんだろうか。恐る恐る箱からカステラを取り出し、一口かじる。
…うん。甘い。甘いけど…何かちょっと思ってたほどじゃないって言うか…。よく考えたら前世のパッケージに写ってたような綺麗な色じゃないし、生地もちょっとパサパサしてるし…。
「どうだい、『かすていら』の味は。外郎屋の練り菓子とどっちが美味ぇ?」
横目で私を見る父上に、私は一瞬迷った挙句、率直な感想をオブラートに包んで返した。美味しい事は美味しいが、私は外郎屋の練り菓子の方が好きだ、と。
父上は目をつぶって押し黙ったかと思うと、小刻みに震え出し、やがて大口を開けて笑い出した。私が転生して以来初めて見る大笑いだった。
「外郎屋の喜ぶ顔が目に浮かぶぜ。南蛮菓子よりもてめえの菓子の方が美味えと、お墨付きをもらったんだからな。」
私は何と返したものか分からず、曖昧な笑顔のままカステラを胃に収めたのだった。
母上がお茶のお代わりを配ってから、話題は私の嫁ぎ先、今川の事に移った。
京の公方様に連なる名門であり、日の本各地の大名が時勢に乗り遅れて没落する中、未だに領国を保つ稀有な家である事。
母上が北条に輿入れする際に身に着けて来たという装飾品には、今川の家紋、「足利二つ引両」が入っていた。丸の中に横線を二本引いただけのシンプルな形だが、よほど家格が高くないと、この家紋は使えないらしい。
先先代当主――現当主の父君である氏親殿は、当初こそ叔父、つまり北条家初代早雲様の力を借りて当主になったものの、やがて自力で領国をまとめ、多くの大名の手本となる「今川仮名目録」を制定した事。
父上も評定の際はよく参考にするらしい。
「それに加えて当代殿は戦上手と来たもんだ。もうあんな戦は御免だぜ。」
父上が心底げんなりした調子でそんな事を言うものだから、私はびっくりして聞き返してしまった。父上にそう言わしめるお方の名を、お伺いしてもよろしゅうございますか、と。これから嫁ぐ家の事だし、知っておいて損はない、と思ったのだ。
「正直、口にしたくもねぇんだが…。」
「あらあら、殿にとっては義弟に当たられますのに。私が代わってお伝え致しましょう。」
母上が片手を口元に当てるのを見て、私も耳を寄せた。
「今川の現当主殿は、五郎義元殿ですよ。」
当主なのに五郎なのか。私の最初の感想はそれだった。
まぁウチも当主の仮名は代々新九郎だし…ん?
今川義元?
その名前は聞いた事がある。歴史の授業が苦手だった私でも覚えている、日本戦国史上有数の大事件、「桶狭間の戦い」。
そこで討ち死にした男の名前だ。
お読みいただきありがとうございました。




