#036 月が見えない、こんな夜は
今回もよろしくお願い致します。
自室に向かっていた北条の御前様――氏康の妻は、半開きの障子から漏れる灯台の灯りに気付いた。
部屋の外に待機していた侍女もこちらに気付き、小走りに駆け寄ってささやく。
「大殿がお待ちにございます。今宵はこちらで夕餉をお召しになると…。」
一つ頷いて、自室の前に膝を着く。
「満にございます。」
「おう、邪魔してるぜ。入ってくれ。」
氏康の返事を確認した上で、自室に入る。
左右に向かい合うように夕餉の膳が二つ置かれ、左側に氏康が腰かけていた。
「たまにはかあちゃんと差し向かいで食いたくてな。構わねぇか。」
「何の障りがございましょう。殿と夕餉を共に出来て、嬉しゅうございます。」
氏康の向かいに腰かけながら、ちらりと氏康の膳を見る。全くの手付かずだ。
「んじゃ、いただくとするか。全く、葬儀に来た連中の相手をしてたら、こんな遅くになっちまった。」
氏康の愚痴を合図に、箸を取り、料理を口に運ぶ。
献立は先ほど結の部屋で見たものと大差無い。汁物も飯も冷え切っている。
だが、今の満にはそれが何より嬉しかった。
膳を用意させてから自分が戻るまで、夫がずっと待っていてくれた証だったからだ。
「結の後始末をさせちまって、手間かけさせたな。」
しばらく無言で夕食をつついていた氏康が、おもむろに口を開いた。
「いいえ。奥向きの事にございますもの。されど、やはりあの子は聡い子にございます。すっかり立ち直ったばかりか、今川への輿入れを承知してくれました。」
「…そうかい。」
氏康は不機嫌そうに、音を立てて汁物をすすった。
「あら、まだ何かご不満の種がございまして?」
「結が心を決めたってのは何よりだ。ただな、今川からの弔問客が念押しして来やがった。」
満が箸を置き、続きを促すように姿勢を正すと、氏康も持っていた箸を、がちゃん、と音を立てて置いた。
「『数え7つの姫君が、身寄り無き地へ一人で参られるのは心細い事にございましょう。ご兄弟のいずれかお一人、駿河へご同道との取り決め、お忘れ無く』…だとよ。」
氏康の言葉に、満は黙して考え込んだ。
今川の要求の意図は分かる。正室として扱うには結が幼すぎるため、同盟の保証としてもう一人兄弟を預かりたい、という事だ。
問題は、それを誰にするか、だが――。
「新しく後継ぎとなられた松千代丸殿は論外。藤菊丸殿も、こたびのような事に備え、お手元に置いておきたい。残るは太助丸殿、という事になりましょうか?」
「…年端も行かねぇ息子と娘を、揃って他所に預けるたぁな。」
言ってから、氏康は自分の発言を否定するように首を何度も横に振った。
「お家のためだ。分かってもらう他ねぇ。」
「心配無用にございます。」
氏康が顔を上げると、満がいつもの笑顔を浮かべていた。
「結も太助丸殿も、今川の母上からすれば実の孫でございますもの。決して疎かにはなさいませんわ。それに、二人ともとても聡く、強い子にございます。きっと駿河で立派に育ってくれましょう。」
主観と客観が混ざった激励に、氏康はため息をつきながら何度も頷いた。
「…こんなに早く親元を離れるとは思いも寄らなかったぜ。いや、俺が戦と政に現を抜かしてた報いか。」
「まあ、報いなどと…。」
「新九郎にもな、教えてやりてぇ事はまだまだ沢山あった。帰参した国衆への安堵状、戦で逃散した百姓達に村に戻るよう促すお達し。こないだの戦から戻ったらじっくり教えてやろうと思ってた。…結局、全部俺が済ませちまった。」
どちらからともなく、食事を再開する。
一足早く食べ終えたのは、満の方だった。
「殿、よろしければ、戦場での新九郎殿のお働きなど、お聞かせ願えませんでしょうか。代わりと言っては何でございますが、奥の間で私が見聞きした新九郎殿のご様子を、お話ししとう存じます。」
夕餉を終えた氏康が箸を置くと、満の侍女達が手早く膳を片付け、白湯が入った湯吞を一つづつ、二人の前に差し出した。
相変わらず気の利く事だと、氏康は苦笑した。
「…そうだな。今宵はもう少しばかり、あいつの事を話そうか。」
さて、何から話そう。
たった一度の息子との出陣に思いを巡らせながら、氏康は白湯を一口すすった。
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