#035 北条結の覚悟
今回もよろしくお願い致します。
母上の発言に、私は一瞬フリーズした。
今川の嫡男殿に嫁ぐ?私が?
「…順を追って話すわね。」
私の戸惑いを察してか、母上は縁談の背景を説明してくれた。
甲斐の武田、駿河の今川、そして相模の北条の間に、同盟を結ぶ機運が高まっている事。その証として、三家の間で縁談が進められてきた事。既に今川の姫が武田に、武田の姫が北条に嫁ぐ事で話がまとまりつつある事。
つまり、後は北条の姫が今川に嫁げば同盟は完成する。
でも、次期玉縄殿との婚約が決まっている菜々姉様は除外するとして、どうして一番幼い私が?蘭姉様や凛姉様を差し置いて。
「今川は京の公方様にも連なる家柄。当主の正室にも相応の格が求められるの。二人には申し訳ないけれど、私の子でなければ今川は中々首を縦には振らないと思うわ。」
母上には珍しい冷淡な物言いに若干怯みながらも、私は納得せざるを得なかった。
「けれどね、結。あなたがどうしてもと言うなら、出家してしまっても良いのよ。今なら、新九郎殿の菩提を弔うという体で、剃髪しても許されると思うわ。」
「えっ?」
母上の提案に、私は思わず間抜けな声を上げた。
出家?尼さんになるって事?いやそれ以前に、お嫁に行かなくても良いって言う事?
「されど母上、それでは今川との縁談は…。」
「心配には及ばないわ。」
「私の代わりに誰が…。」
「きっと何とかなるから。」
うーん。何一つ具体的な対案が示されない。母上の気持ちはありがたいが、どうやら私が嫁ぐ以外の選択肢は無いも同然のようだ。
実際、今から代役を立てるのは無理だろう。私を最後に、母上の実子はいない。年齢的に妊娠出産が厳しい、という事だろう。
仮に父上と母上が、その…頑張って、新しく妹が産まれたとしても、結婚出来る年齢――私に縁談が来てる時点で現代日本よりだいぶ低めのようだが――に達するには何年もかかる。その頃には縁談がパァになって、同盟の話も無かった事になりかねない。
そこまで考えて気付いた。私がこの縁談を受けるか、迷っている事に。
大大名の娘に産まれたアドバンテージを最大限活かして、同等以上の大大名に嫁ぐ。それがこの世界に転生した私の人生プランだったはずだ。
今川は駿河、遠江、そしてギリ三河を治める大大名。しかも母上の言う通り、血筋も申し分無い。これ以上の好条件は無いはずだ。
なのに、どうして迷ってるんだろう。
「この縁談が三つの家と、その領国、領民に等しく利をもたらす事は間違いないわ。でもね、結。本当に我儘だけれど、子供達には出来るだけ自身の生き方を自身で決めて、そして仕合せになって欲しいの。菜々にも、蘭にも、凛にも、そして結にも。」
大名の正室とは思えない母上の言葉に、さらに迷う。
私は、どうしたい?どうすれば――。
「ご無礼仕ります。」
部屋の外から聞こえた百ちゃんの声に顔を上げると、既に日は沈み、部屋は暗がりに沈んでいた。
「火種と夕餉をお持ち致しました。入ってもよろしゅうございますか。」
「母上。」
許可を求める私の小声に、母上はすんなり頷いてくれた。
「入って頂戴。」
「かしこまりました。」
障子が開くと、火種を持った百ちゃんと、膳を抱えた侍女――食いしん坊のお栗がいた。
百ちゃんが部屋の隅の灯台に火を灯し、お栗が膳を私の前に置く。
「とにかくお上がりなさい。沢山泣いた後は、沢山食べた方が良いわ。」
「はい、母上…ん?」
膳の上には喪中に相応しい、油っ気の無い献立が並んでいた。その中で私が引っかかったのは、いつものお椀の中で冷え切った玄米ご飯とは別に置かれた、不格好なおにぎりだった。
「握り飯なんて、珍しい。どなたの心配りかしら。」
「や、それはわっちらのぶぶぶぶぶ。」
奇声に驚いて目をやると、百ちゃんが両手でお栗の口を塞いでいた。
百ちゃんの事だから私のためにやってくれたんだろうけど、途中で遮られるとそれはそれで気になる。
「百、離してあげなさい。お栗、どういう事かお話しなさい。」
私の言葉に、百ちゃんが渋々手を離し、お栗もちょっとだけ困った顔をしてから口を開いた。
「わっちらのような者共が姫様の事を心配するなんざぁ、おこがましい事だぁ。だども、ちっとでも気を取り直していただけにゃあもらえんかと、みんなと相談しただ。そんで、せめて姫様に、いつもより多めに召し上がってもらおうって、みんなの晩飯からちいっとずつ飯を寄せ合って、握り飯を拵えたんだぁ。」
何それ。
視界が滲む。
もう涙なんか出ないくらい泣いたと思ったのに。
「…ありがとう。心を込めていただくと、皆に伝えて頂戴。」
私の言葉に、お栗は恐縮しながら退出して行った。
喪服の袖で涙を拭う。
「母上。今川への輿入れ、謹んでお受け致します。」
「…本当に良いのね?」
念を押す母上に、深く頷く。
「母上のご厚情、かたじけのう存じます。この結、覚悟は決まりました。幸いにも、」
おにぎりを両手で持ち上げる。不格好なそれには、同じ大きさの金塊よりも価値があるように思えた。
「私には心強い味方がございます。かくなる上は今川に嫁ぎ、志半ばでこの世を去られた兄上の分までお家に尽くしとうございます。その上で――兄上の分まで仕合せになりとうございます。」
視界の端で、百ちゃんが鼻をすすった。
私の決意表明に、母上はいつもの柔和な表情で「そう。」とだけ言うと、立ち上がった。
「あなたの心掛けの立派な事、殿にお伝えしておくわ。今日はしっかり食べて、身を清めて、暖かくして眠るのよ。」
「かしこまりました。」
私が頭を下げると、母上は来た時と同じように、ゆったりとした足取りで部屋を出て行った。
障子が閉まるや否や、不格好なおにぎりにかぶりつく。
明日から忙しくなりそうだ。
お読みいただきありがとうございました。