#032 身構えている時には不運は来ない
今回もよろしくお願い致します。
天文21年(西暦1552年)3月20日 小田原城 奥の間
「結。ねぇ、結ったら。」
焦りを滲ませる声に、目を開く。
途端に、分厚い掛布団の重さを感じる。
私、寝てた?どうして?
「良かった、目を覚ましたわね。」
先ほどの声の主の方に目を向けると、昼下がりの日光が透ける障子を背に、凛姉様が腰かけていた。
「凛姉…様?」
「結が倒れたと聞いて駆け付けたの。蘭姉様は…写経が一区切り着いたらお越しになるそうよ。」
布団を押しのけ、起き上がろうとする私を凛姉様は慌てて押し留めた。
「もうしばらく休みなさい。兄上…新九郎殿を労わる心掛けは立派だけれど、あなたまで体を壊しては元も子も無いわ。」
「されど…。」
姉様の手を押しのけようとしながらも、強い疲労感を訴える自分の肉体に、私は苛立ちを覚えずにはいられなかった。
新九郎兄者が病に倒れたのは、初陣を勝利で飾り、父上と共に小田原城に凱旋した、まさにその夜のことだった。戦勝を祝う晩餐の席でもしきりに咳をしていたから、若干の不安を感じてはいた。
「性質の悪い風邪をひいてしまったようじゃ。」
兄者がそう言って苦笑していたので、そういうものかと思っていたが、寝ている間に病状が悪化したらしく、朝には起きて来られなくなっていた。
病気で起き上がれない状態がどれだけ辛いか。前世、風邪をひいても家族にロクに看病してもらえなかった記憶が蘇り、私は足元が消え去るかのような心細さを覚えた。
その日から、私は母上に頼み込んで当面の「お勉強」を免除してもらい、兄者を付きっ切りで看病した。
と言っても、数え7つの小娘に出来る事なんて高が知れている。苦しむ兄者の額に乗せた濡れ手拭いがぬるくなったら新しいものに交換したり、首や顔の汗を拭いたり、少しずつ水を飲ませてあげたり、それくらいだ。
今ほど転生する時に何かしらのチート能力をもらえなかった事を恨めしく思った事は無い。
お粥の用意や厠への付き添い、着替えなんかは兄者の近習や侍女がやってくれているし、診察や漢方薬の調剤は父上が呼んだ薬師がやっている。
母上と菜々姉様は兄者の病状が悪化したその日に城を発ち、兄者の回復を祈願するためゆかりの寺院に向かった。
蘭姉様は暇さえあれば部屋に閉じこもり、写経に没頭している。
凛姉様は手持ちの装飾品を幾つか売却し、そのお金を母上と菜々姉様が参拝した寺院に寄進した。
みんな、兄者のために出来る事を一生懸命にやっている。それに引き替え、私は…。
「良い事?今日は私が新九郎殿の看病をお手伝いする。あなたは体を休めなさい。分かったわね?」
そう言い残して、凛姉様は部屋を出て行った。
一人残され、考え込む。他にも何か私に出来る事はないだろうか?
ふと閃いた。日本中を見回って、知識豊富な百ちゃんなら、良い案が出せるかも知れない。
「百。百はいるかしら?」
「ここに。」
口から心臓が飛び出すかと思った。
障子に向かって声を掛けたのに、百ちゃんの声が返って来たのは反対側、つまり部屋の中だったからだ。
急いで首を声がした方に向けると、薄暗がりの中に百ちゃんが控えていた。いつの間に。
「百、いつからそこに?」
「先ほどから控えておりました。」
凛姉様がいた時からって事?全然気配を感じなかったけど。
いやいや、今はその前に聞いておかなきゃ。
「百、新九郎殿の病を癒す手立てに心当たりは無いかしら?」
「申し訳ございません。病の元が分からない事には何とも…。他家の乱破が用いる毒の類であればおおよそ見当はつくのですが…。」
それはそれですごいと思う。
「加えて申し上げれば、若君には既に大殿が召し出された薬師が着いておられます。わたくしめが立ち入るのは領分を侵す事になるかと…。」
申し訳なさそうに言う百ちゃんに、私は無言で肯定した。確かに、私の侍女でしかない百ちゃんが兄者の治療に当たったら、成果が出ても出なくても問題になる。
「恐れながら姫様、今日の所は確と体をお休めください。姫様のお働き、若君はもちろん、大殿も御前様もお喜びにございましょう。また明日からでも遅くはないかと…。」
「…百の言う通りね。分かったわ。もし蘭姉様がいらっしゃったら起こして頂戴。」
今日の所は諦めて、また明日から頑張ろう。そう心に決めて、私は布団に身を埋めた。
翌朝、私を叩き起こしたのは、新九郎兄者が息を引き取ったという知らせだった。
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