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#031 御嶽の要害、落城の事

今回は合戦の描写があります。ご注意ください。

食事中の方は特にご注意ください。

天文21年(西暦1552年)3月 武蔵国 御嶽(みたけ)


「北条の若君とお見受けした!その首頂戴仕る!」


 初春の太陽の下、血走った目から放たれる殺気に気圧(けお)され、北条新九郎氏親は迫る白刃をただ見つめる事しか出来なかった。




 少し時を戻して、ここは御嶽城を攻める北条軍の本陣。兵達に総攻めを告げる陣太鼓が鳴り響く中、氏康を始めとした首脳陣が、甲冑を身にまとい、床几(しょうぎ)に腰かけている。いや、氏康の息子、氏親のみ立ち上がり、()(うろこ)――三つの正三角形が連なる北条家の家紋――が染め抜かれた陣幕の前をせわしなく歩き回っている。


「若君。大将たる者、しっかと腰を据えておられませぬと、ここぞという時にもちませぬぞ。」


 列席者の一人、玉縄衆を率いる北条孫九郎綱成が、やんわりと、しかし厳かに忠告した。


「承知しております、玉縄殿。されど、戦場の様子が分からぬ事がかくも落ち着かぬとは…。」


 そこまで言うと、氏親は陣幕を押しのけ、外へ踏み出した。


「どこへ行くつもりだ。」


 鋭く飛んできた氏康の詰問に、氏親は振り返った。


「物見に参ります。醜態は晒しませぬゆえ、ご安心を。」


 氏康がため息だけで、何も言わない事を確認し、氏親は今度こそ陣幕をくぐった。


「…孫九郎。」

「御意。」




 本陣を出て自身の馬に乗り、供回りを引き連れて、味方が制圧しつつある御嶽城の中に踏み込む内に、氏親は自らの選択を後悔し始めていた。

 暑い。まだ春になるかならないかという時期のはずなのに、熱気が辺り一面に立ち込めている。

 人が、将や兵が生み出す熱だ。目を血走らせ、獣のような雄叫びを上げながら得物(えもの)を振るっている。

 既に御嶽城は落城したも同然だ。本丸に続く門は破られ、北条の手勢が雪崩込んでいる。

 そして逃げ遅れた敵兵を追って、北条の兵が矢を射掛け、背中から斬りつける修羅場があちこちに現出している。

 氏親は兜の隙間から流れ落ちる汗を乱暴にぬぐった。

 物心ついた頃から、北条の嫡男に相応しい教育を受けてきた。その中には当然戦場での心得や立ち居振る舞いも含まれている。ゆえに、戦場の過酷さも理解していた、つもりだった。

 だが実際に戦場に立って思い知らされる。現実の過酷さを。源平合戦の絵巻物に描かれたような、武士(もののふ)同士の正々堂々の一騎打ちなど、まるで見当たらない。少なくとも雑兵足軽達には、武士の振る舞いなどかけらも見受けられない。背中を向けた敵に斬りかかる事も、複数で一人を囲んでなぶり殺しにする事も、ためらわず実行する。


「これが…戦…。」


 ふと気が付くと、掘っ立て小屋が建ち並ぶ、人気(ひとけ)の無い一角に踏み込んでいた。


「…城攻めは順調のようじゃ。本陣に戻ろう。」


 供回りに声をかけ、馬の向きを変えようとした時、


 ひゅん、と風を切る音がした。


「ぐぅっ!」「がぁっ!」

「いかがした⁉」


 叫び声の方を見ると、近習の二人が矢を受け、地に倒れ伏していた。

 矢を受けた?なぜ?決まっている、誰かが放ったからだ。では誰が?

 答えはすぐに現れた。


「者どもかかれぇ‼」


 三つ鱗の旗指物(はたさしもの)を背負っていない――つまり御嶽城の兵が、血と埃にまみれた具足をまとい、物陰から氏親達に襲い掛かった。


「若をお守りせよ!」


 慌てて供回りが応戦を開始する。馬上の氏親には、敵兵が自分達よりも少数であることがすぐ分かった。

 だが、味方は奇襲を受けた混乱から立ち直れずにいる。

 先ほど号令を掛けたと思しき敵将が氏親の眼前に立ち、腰の刀を引き抜いた。


「北条の若君とお見受けした!その首頂戴仕る!」


 兜の隙間から殺気を宿した目を覗かせ、敵将が一気に距離を詰めて来る。

 氏親も反射的に太刀を抜こうとするが――抜けない。

 一度引いて態勢を整えた方が良いのでは?いや、このまま太刀を抜き、返り討ちに…。

 思考が混乱する中、白刃が着々と氏親に迫り――


 ぶぅん、と何かが空を裂く音が聞こえた。


 氏親が瞬きをした刹那、敵将は肩に持槍(もちやり)が刺さった状態で、空を睨み、呻いていた。


「勝った‼かぁぁったぞぉぉぉぉぉ‼」


 突然の大声に、誰もが一瞬硬直し、次いでその音源――氏親の背後を見やった。

 そこにいたのは黄色の陣羽織をまとい、「地黄八幡(じおうはちまん)」の旗を背負った玉縄殿――北条綱成とその手勢だった。


「本丸は既に落ちた‼これ以上の手向かいは無用なり‼命惜しくば道を空けよ‼」


 周囲の喧騒が聞こえなくなるほどの大音声(だいおんじょう)に、北条方は活気づき、城兵は色を失う。その瞬間を逃す事なく、綱成は馬に鞭を入れると、手勢を引き連れて氏親の側に駆け寄った。

 たちまち形勢は逆転し、城兵は背を向けて逃亡するか、その場で討ち取られるかの二択を強いられる。


「若君、お怪我は無いようにございますな。さぁ、そこなる者の首をお取りくださいませ。」

「玉縄殿、かたじけない。…城はもう落ちたのか。」

「存じませぬ。」


 あっけらかんと虚言を認めた綱成に、氏親は啞然となった。綱成は対照的に、ひげ面に悪戯坊主のような笑みを浮かべる。


「これも戦の方便にございますれば。さぁ、若君。」


 改めて促され、馬を降りる。何度も繰り返し練習した動作で脇差を抜く。取り落とした太刀を拾おうともがく敵将に近付き、馬乗りになって組み伏せる。力ずくで敵将の顎を押し上げ、露わになった首筋に脇差を押し当て――




 同日夜。

 甲冑を脱いだ氏親は、本陣を囲むかがり火を背に、落城した御嶽城を見つめていた。


「初陣で大将首とは、大したもんじゃねぇか。」


 氏親が振り向くと、そこにいたのは、同様に軽装になった氏康だった。


「父上、面目次第もございませぬ。大口を叩いておきながらこの体たらく、何とお詫びを申せば良いやら…。」

「お前は本当にくそ真面目っつうかなんつうか。親父が褒めてんだから素直に受けとりゃ良いのによ。」


 ほれ、と氏康が差し出した杯を氏親が受け取ると、氏康はそこに酒を注いだ。


「ぐいっと行きな。戦勝祝いだ。」

「…では、有難く。」


 氏親が杯を空にするのを待って、氏康は口を開いた。


「どんなもんだい、戦場ってのはよ。」

「…何と言えば良いのか…なおも震えるこの手が、今は情けのうございます。」

「誰でも最初は初陣だ。場数を踏みゃあ慣れて来る。…漏らしたか?」


 氏康が小声で発した問いに、氏親は危うく杯を取り落とす所だった。顔を赤くしながら、答える。


「…まこと、面目ございません。『小』をいかばかりか…。」

「なら、俺の勝ちだな。」


 氏康の言葉に、氏親は怪訝な顔つきになった。


「俺は初陣で『大』を漏らした。」

「は…ふ、ふっふっふ、は、はっ、くしゅん!」


 忍び笑いを漏らしていた氏親がくしゃみをすると、氏康は肩を軽く叩いた。


「まだ夜は冷える。続きは陣幕の中でやろうや。戦の後は酒を吞むもんだ。」

「ははっ。…しかし『相模の獅子』殿が初陣で…ふふふ。」

「おうてめえ、あんまり言いふらすんじゃねぇぞ。それとその『相模の獅子』ってのはなんでぇ。」


 親子は軽口を叩き合いながら、御嶽城を背に、本陣へと戻っていった。




 北条氏康と氏親、親子が揃って出陣した、最初で最後の戦の夜の事だった。

お読みいただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 氏親初陣での「落城したも同然だ」とはいえ物見で、たじろぐ若武者のみごとな描写。奇襲に方便での勝ちと父子のやり取りの巧みさに感心。構成力と展開力が優れていると思いました。
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