#028 名前は一生もの
今回もよろしくお願い致します。
墨が付かないよう敷かれた敷物の上で、私は硬直した。西堂丸兄者の新しい名前が、見当もつかなかったからだ。
そっと横目で蘭姉様と凛姉様の様子を窺うと、二人とも筆を置き、考え込んでいる。まだ猶予はある。そう判断した私は、数少ない知識からそれらしい名前をひねり出す事にした。
まず「氏」は決まりだろう。お祖父様が「氏綱」、父上が「氏康」と続いてるんだし。紙の上半分に大きく「氏」と書く。
さて問題は二文字目だ。同じ字は使えないとすると…ん?待てよ?そう言えば最近他にも「氏」が付く人名を聞いたような…。
答えはすぐに出た。月見の席で菜々姉様に聞かされた、母上の嫁入り直後から始まった今川と北条のゴタゴタだ。確か母上のお父様が「氏親」、その長男が「氏輝」だったはず。一応親戚同士だし、この二つも使えないだろう。そう言えば今川家の現当主の諱、聞きそびれちゃったな。やっぱり氏ナントカさんなんだろうか。
氏…氏…何が良いかな。西堂丸兄者にしっくりくるような名前…。
そうこうしているうちに、蘭姉様と凛姉様が筆を走らせ始めた。やばい。私もそろそろ書かないと。えーと、えーと、西堂丸兄者は何ていうかその、まさに長男、リーダーって感じで、正々堂々とした感じだから…。
「…二人とも書けた?では一斉に見せ合うわよ。けして口には出さぬように。」
蘭姉様の合図に合わせて一斉に掲げる。何とか間に合った。
「ちょっと、凛。」
「あら姉様、口には出さない取り決めよ。それに全く同じではないもの。兄上のお天道様のようなお心の広さを示すのにぴったりではないかしら。」
そう言う凛姉様が出した案はう、うじ…「氏照」だった。前よりマシになったけど、まだ凛姉様の字は解読に苦労する。しかしあえてそう来たか。確かにこれなら「氏輝」と読みは同じだけど違う字になる。
「それより姉様、どうしてそんな堅苦しい字をお選びに?」
凛姉様が言う「堅苦しい字」とは規則の「規」。蘭姉様が掲げた紙には綺麗な字で「氏規」と書かれていた。
「初代早雲様が伊豆に討ち入られてよりはや五十年余り。わが北条家は着々と領内の政を整えて来たわ。兄上が正しきご政道をお継ぎになる事を、父上もお望みではないかしら。」
おお、すごい理詰め。説得力が段違いだ。
「それで、その…結?」
二人の案を見てからだとだいぶ見劣りするが、塗った墨は消せない。
私の案は「氏政」だ。実は最初、「氏」の下に正々堂々の「正」の字を書いたのだが、急いで書いたせいで左に寄せ過ぎてしまい、バランスが悪いのを誤魔化すために付け足した結果「政」になったという訳だ。しかも無理矢理修正したせいで「政」の字が余計不格好になっている。
「そのぅ…わたくしも、兄上が父上と同様に、清く正しきご政道を敷かれるものと思いまして…。」
うーん、この蘭姉様の二番煎じ感。自分で言ってて悲しくなってくる。
「…さぁ、片付けて、先ほどの続きをするわよ。」
微妙な雰囲気を振り払うように、蘭姉様は手元の紙を火鉢に投じた。「氏規」が端っこから黒ずみ、灰になっていく。
「まぁ、そんなに幾度も驚かされていては身がもたないものね。」
ほっとしたような、拍子抜けしたような口ぶりで、凛姉様も続く。何だかよく分からないが、どんな変わった答えを出すか密かに期待されていたらしい。そんな事言われても。若干釈然としないまま「氏政」を火鉢にくべると、「氏照」もろとも灰になっていった。
私達がこの日考えた諱は、いずれもある意味では間違いであり、同時に正しくもあった。後年、冬に火鉢を囲むたびに、私達三人はこの日の出来事を思い出し、顔を見合わせる事になる。
お読みいただきありがとうございました。