#026 Mr.&Mrs.北条
今回もよろしくお願い致します。
満月の明かりが降り注ぐ中、小田原城御殿の一角に一組の男女の姿があった。
着物を何着も重ね着し、正座する女性の膝を枕に、額に刀傷を負った男――北条家当主、氏康が寝転がっている。
「こんなに綺麗に月が出るたぁ、今年はツイてんなぁ。」
「左様にございますねぇ。」
氏康がおもむろに言葉を発すると、女性もゆったりと返事をする。
「なぁ、かあちゃん…。」
「月見団子ですか?どうぞ。」
氏康が自身に伸ばした手に、女性――氏康の正室――は近くの盆から取った団子を握らせた。
「おう。うん…美味い。…ところでかあちゃんよぉ、」
「お酒ですか?どうぞ。」
再び氏康が伸ばした手に、今度は清酒が注がれた皿を持たせる。
「おう。うん…美味い。…あのなぁ、」
「お戯れを。」
皿を空けて脇に置き、再び伸ばした氏康の手を、妻はやんわりと押しのけた。
「そんなこと言ったってよぉ、ずいぶんご無沙汰じゃねぇか。」
「わたくしはもうとっくに女盛りを過ぎた身。もっと若い方々が、奥の間に何人もいらっしゃるでしょう。現にお子まで儲けておられるではないですか。」
「妬いてんのかい。」
「まさか。むしろ同情致しております。殿のお相手がどれだけ大変なことか、身をもって知っておりますから。何人かは親元に帰りたいとさえ申しておりますよ。」
「…しょうがねぇだろう。出来るもんなら毎晩かあちゃんと布団を並べてぇ。だが連中も、俺との間に子を儲けるよう親から言われて来てんだ。それを無碍には…。」
「でも、こんなしわくちゃより、若い娘の柔肌の方が心地良うございましょう?」
「満っ!」
氏康はがばっと起き上がり、妻を押し倒した。
「お前が良い。俺の嫁はお前だけだ。誰が何て言おうと…。」
「…真に、妬いてなどおりませんよ。」
正室――満は氏康の背中に両手を回し、幼子をあやすように優しく叩いた。
「あの時は恐ろしゅうございました。結を産んだ時は…。なかなか産声を上げませなんだゆえ、はや三途の川を渡ってしもうたかと…。殿も死地に向かわれ、二度とお目にかかれぬかも知れぬと、胸が潰れんばかりにございました。」
「俺もお前も、博打に勝ったじゃねぇか。戦には勝った。結も息を吹き返した。」
「子を産むことは博打ではございません。おんなの大仕事にございます。」
満の反論に、氏康は沈黙する。出産は女にしかできない。その事実は覆しようが無かったからだ。
「蘭も凛も、乙千代丸殿も、母は違えどみな殿のお子にございます。側室の方々と力を合わせてお育て致しますゆえ、殿は心置きなく、お励みくださいませ。」
「…何年経っても敵わねぇなあ、かあちゃんには。」
氏康は苦笑しながら、満を抱き起こした。
「しかし何だ、こうして二人っきりで月を眺めるなんざ、何年ぶりのこったい?」
「初めてではございませんか?わたくしがお家に入ってこの方、色々ございましたから…。」
氏康の脳裏を、婚姻以来の出来事が駆け巡った。一か月と経たずして小田原を訪れ、駿河に帰るや否や病没した義兄達。今川家の内紛に心を痛める妻をなだめた夜。今川との手切れを宣言した氏綱に妻の「利用価値」を説いた昼下がり。河東を巡る抗争の終結を見届ける事なく、父がこの世を去った事を知らされた朝…。
「俺も若かったなぁ。公方様や武田から和睦を持ち掛けられて、何て言ったと思う?『父祖が切り取られし土地は一寸たりともお譲り致しかねる』、だ。結局西も東も行き詰まって、河東は今川に返す羽目になった。何が『一寸たりとも』だ、ちゃんちゃらおかしいや。」
「されど、今川は駿河一円を平定し、殿も河越でお勝ちあそばされました。もっと早ければ、などと…詮無き事にございます。」
氏康は無言で答える。北条が河東を保持する益が乏しい事は、当主になる前から分かっていた。
第一に兵糧の問題だ。今川の反撃に備えて河東に相応の兵力を常駐させる必要があるが、その兵糧は現地の村々からの徴発では賄いきれない。よって必然的に小田原から相当量を継続して輸送せざるを得ない。戦のあるなしに関わらず、だ。
第二に道の問題だ。小田原と河東を繋ぐ陸路は箱根の山道しかない。しかし今川は駿府で兵を集めてから河東に出陣するまで、平坦な街道を活用できる。つまり今川の打ってくる手に、北条は常に後手に回らざるを得ないのだ。
それでも和睦の提案を蹴ったのは、ひとえに若さゆえだ。先祖代々切り取ってきた土地を自分の代で失う訳にはいかないと、意地を張っていたのだ。
結局最後は河東から全面撤退し、確保した戦力で河越城の窮地を救う事が出来た。あの戦をきっかけに北条は関東随一の大大名の地位を確立し、今川との関係修復も少しずつ進んでいる。結果的には、あの決断は間違っていなかったのだろう。
「西堂丸も立派に育ちやがった。あいつが元服すりゃあ、俺の仕事も少しは任せられる。そうなりゃお前ともっとのんびりできらぁな。」
「まぁまぁ、ものぐさなお殿様ですこと。西堂丸殿も成すべきことが沢山ございますでしょうに。武田からお嫁をいただくのでしょう?」
「ああ、向こうも乗り気だ。それから、結だがな…。」
氏康は何かに迷うように、一度言葉を切った。
「輿入れが早まるかも知れねえ。蘭や凛よりもだ。」
「…どちらへ、とお尋ねしてもよろしゅうございますか。」
「今川だ。知っての通り今年の夏に、治部大輔殿(今川家当主)の正室が亡くなった。二人の間には息子が一人、娘が二人出来たってこった。そこで長女は武田の嫡男に輿入れ、嫡男はうちから嫁をもらうって話だ。」
「お待ちください。西堂丸殿も武田からお嫁をいただくということは…。」
氏康は無言で頷いた。北条の姫が今川に、今川の姫が武田に、武田の姫が北条に嫁ぐ。あたかも富士山を取り囲むかのごとく、三つの大大名が手を組むことになるのだ。
「今川は公方様にも連なる家だ。当然嫁の血筋にもこだわる。蘭や凛じゃいい顔をしねぇだろう。菜々が善九郎に嫁ぐ以上、残るは一人だ。」
数え6つの四女、結。
「…年明けすぐって訳じゃねぇ。申し立てがあるってんなら今の内に…。」
「かしこまりました。」
氏康が言い終わるより早く、満は頭を下げた。
「…良いんだな?」
「是も非もございません。武家の女子は父、兄、息子の指図に従うのみにございます。」
「…そうかい。確かにそうかも知れねえな。」
「されど。」
再び顔を上げ、続ける。
「嫁ぎ先で何が起ころうと、立派に生き抜けるよう、わたくしが教えられる事は全て教えて参ります。」
「…流石、俺のかあちゃんだ。」
氏康は破顔一笑、再び満の膝枕に頭を預けた。
「あらあら、殿は甘えん坊にございますね。」
「どうせ誰も見ちゃいねえよ。今宵くらいは勘弁しろい。」
月明かりの下、二人の笑う声が重なった。
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