#025 めでたしめでたし、それから
今回もよろしくお願い致します。
「今夜はこうしてあなた達と顔を合わせることが出来て、本当に良かったわ~。」
鼻をすすりながら三人からもらったお菓子を食べていると、不意に菜々姉様が言った。
「姉様、もしや婚姻の日取りが正式に…?」
期待と不安が入り混じった声色で蘭姉様が聞くと、菜々姉様は首を横に振った。
「まだ何も。もう少し時を置いて、ということかしら。ただ、今年か来年には、西堂丸兄上の元服があるでしょうから、父上や母上、兄上やあなた達と膳を共にすることも、もう無いかも知れないと思って。」
思わぬ人名の登場に、私は目を瞬いた。そう言えば、数えで15歳になれば武士として一人前、みたいな話を聞いた覚えがある。西堂丸兄者は年が明ければ15歳、年齢的にベストタイミングということだ。
「侍女達の噂を聞いたわ。元服に合わせて、甲斐の武田家から嫁を迎えることになるんじゃないかって。あの西堂丸兄上に嫁入りできるなんて、仕合せなお方。」
凛姉様が乗ってきた。甲斐の武田、どっかで聞いたような…。
「あら、お嫁に行けば仕合せになれるとは限らないわよ~?」
「ゲホッ、ゲホッ。」
今まさに婚約中で幸せの絶頂にあるはずの菜々姉様の発言に、白湯をすすっていた私は思いっ切りむせた。すぐさま百ちゃんが背中をさすってくれる。
「母上も父上の元に嫁いで来られてから、大変苦労されたんですもの。私達も覚悟しておかないと。」
何それ、初耳なんですけど。蘭姉様も、凛姉様も、顔に戸惑いの色を浮かべている。
「あら、あなた達は知らなかったのね?この機に話しておきましょうか~。」
北条家は初代早雲以来、駿河、遠江――現在の静岡県中部と西部あたりか――を領有する今川家と友好関係にあった。以前幻庵おじさんが話してくれた通り、今川家当主の氏親の母、北河殿は早雲の姉。つまり親戚関係にあったからだ。
しかし氏親、北河殿、早雲の死去に伴い、関係を再構築する必要に迫られる。そこで持ち上がったのが、北条家第二代当主氏綱の息子――つまり父上――と、氏親の娘――つまり母上――の縁談だった。
縁談は滞りなく進み、天文5年の正月に二人は結婚。翌月には氏親の後を継いだ長男の氏輝と、その弟、彦五郎がわざわざ小田原を訪問した。妹の無事を確かめた二人は一か月も滞在した後帰国。北条と今川の未来は明るい、誰もがそう思った。
帰国直後に氏輝と彦五郎が病に倒れ、この世を去るまでは。
今川家当主の座を巡って駿河は内戦状態に陥った。これを制したのが、甲斐――現在の山梨県――の武田家と相模の北条家、双方の支持を取り付けた、現在の今川家当主だった。
ところが今川家の新当主は、北条家と敵対関係にある武田家から妻を迎え、同盟を結んでしまった。面目を潰されたと怒った氏綱は駿河国東部の河東を占領。以降、北条と今川は交戦状態に入った。
幸い母上が実家に送り返されることはなかった。高度な政治的判断だったとのことだが、本当に良かったと思う。既に長男、つまり西堂丸兄者を身ごもっていたからだ。
河東を巡る戦いは十年近く続いた。氏綱が死んで父上が家督を継いでも終わらなかった。
今から6年前の天文14年、つまり私が産まれる前の年、北条が河東から全面撤退することでようやく和睦が成立した。母上は四男一女の母になっていた。
それ以来、今川と北条は再び信頼関係の構築に努め、同盟の復活を画策している…。
「二人は夫婦となって末永く仕合せに暮らしました、目出度し目出度し。で終わるのはおとぎ話の中だけ、ということねぇ。」
…。は?えっとここは…小田原城の、客間。私は…結、だよね、うん。
ちょっと目の前に座る少女が誰か分からない。私の知ってる菜々姉様はいつもニコニコ、どこの誰でも長所を見つけて褒めちぎる聖女だったはずだけど、こんなえっぐい話をいつもと同じペースで話せるってどういうこと?
「どうしたの、結。」
「え、ああいや、その、」
うまく言葉を出せないでいる私の頬に、菜々姉様がそっと手を当てる。一瞬冷たい刀身を押し当てられたような錯覚をしたが、姉様の手は至って温かった。
「怖がらせてしまったわね。蘭、凛も。ごめんなさい。でも、いつかは知らなければならないことよ。武士の娘に産まれ、武士の家に嫁ぐということがどういうことなのか。」
菜々姉様は手を離すと、縁側の善九郎殿に向き直り、深々と頭を下げた。
「無論、善九郎様の妻となる者として、如何なる道をも共に歩む覚悟は出来ております。善九郎様、何卒末永くお願い申し上げます。」
「…うむ。そなたを妻に迎えられるわしは果報者じゃ。よろしく頼むぞ。」
二人の神妙なやり取りに誰もが言葉を失った。時間が止まったかのような感覚さえし始めた瞬間、
「あら、雲が出て来てしまったわねぇ。」
顔を上げた菜々姉様が、とぼけた声で言った。言葉通り、ぽつぽつと流れて来た雲が満月にかかり始めている。
「冷えて来たし、今宵の月見はここまでかしら?」
その言葉に突き動かされるように、私達は後片付けを始めた。
今夜は眠れないかも知れない。急いで障子を閉じながら、私はそう思った。
お読みいただきありがとうございました。




