#021 殿様商売とはいかなる商売か
今回もよろしくお願い致します。
「大殿、こちらが本日最後の案件にございます。」
差し出された書状を手に取ると、氏康は鷹揚に頷いた。
ここは小田原城御殿の一角、言わば執務室である。氏康は文机を前に上座に腰掛け、その前に向かい合う形でズラリと家臣達が並ぶ。家臣達はいずれも刀と脇差を脇に置き、手元の書状をにらみつけている。
「年貢減免の御免状か。今年はどこも苦しいみてぇだな。」
書状に一通り目を通して、氏康が呟いた。手元にあるのは、とある村の今年の年貢の割合を例年より減免するというお達しだ。形式に問題はなく、あとは北条家当主の証、「虎の印判」を押せば完成となる。
北条の領国が広がれば支配下に入る村も増え、年貢も増える。一方でその村々が抱える諸問題の面倒を見る責任も発生する。やれ隣村と境界を巡って揉めているだの、やれ今年は不作で年貢を規定分納められないだのと、何十何百と訴えが届けられるのだ。それらを全て氏康一人で決済することは事実上不可能だ。
そこで登場するのが目の前の文官達だ。彼らが村々の訴えを整理し、前例を参考に妥当な解決策を検討し、裁定を明記した書状を作成する。氏康の仕事は事実上書状に目を通し、印判を押すだけだ。内容に問題がなければ、だが。
「大殿、かの村には昨年も年貢減免を申し付けたばかりにございます。今年は減免分も納めるのが道理のはず、それをまたも減免とは。」
「昨年は苅田狼藉のため、今年は冷夏のためじゃ。村の怠慢が理由ではない。」
「だがこんなことでは、いつ未納分を取り立てられるか分からぬぞ。」
文官達が言い争いを始めた直後、パァン、という甲高い音が響き渡った。
氏康が片手に握った扇子を膝に打ち付けた音だった。
「てめえらの言い分、いずれももっともだ。だが向こうも、減免分を後々納めなきゃならねぇってことは先刻承知のはず。その上で減免を申し出るってこたぁ、相当苦しいのは間違いねぇ。ここで去年の分もまとめて取り上げりゃあ、連中は飢え死にするか、よそに逃散するかだ。」
それは即ち、来年以降その村から年貢が入らなくなることを意味する。押し黙る文官達に氏康は続けた。
「ここは減免で手を打とうじゃねぇか。ただし来年以降、豊作となった暁には余分に納めさせる。そんな所でどうだ?」
「…大殿の仰せの通りにございます。改めて御免状を進上致します。」
先ほどの口論で減免に反対していた文官が新しく紙を取り出し、さらさらと必要事項を書き付けると、立ち上がり、先ほどの書状と引き換えに氏康に差し出した。
「おう、これで一件落着だ。」
そう言うと、氏康は文机に置いてあった印判を掴み、朱色の墨を張った皿に一度漬けると書状の左隅に押した。印判を持ち上げると、「禄寿応穏」の四文字の上に虎が寝そべり、こちらをにらんでいる。
「者どもご苦労。今日はこれまで。」
側近が印判を専用の箱に収めたことを確認すると、首を垂れる文官達を尻目に、氏康は執務室を後にした。
「一件落着、じゃねぇんだよなぁ…。」
別室へと向かう途中、氏康は小声で呟いた。
はっきり言って今回の処置は問題の先送りだ。領内の村々が来年豊作になる保証など、どこにもない。それでも最低限の年貢を確保しつつ領民の不満を抑えるためには、こうして妥協点を見つけるしかなかった。
「おう、待たせたな。」
先に下座で待っていた侍女――百に気付くと、いったん頭痛の種を意識の外に追いやり、声を掛ける。
「結様側付きの侍女、百。本日戻りましてございます。」
「おう、ご苦労。楽にしな。どうだい、土産話は結に楽しんでもらえたかい。」
上座に腰掛けながら問いかけると、百は顔を上げ、憂いを含んだ表情を見せた。
「申し訳ございません。大殿の仰せに従い、諸国の珍味や祭、景勝地を見て回り、姫様に言上申し上げたのですが、さほど関心を示されず…。」
「けっ、相変わらずこまっしゃくれたガキだぜ。折角お気に入りの侍女が方々回って来たってのに、つれねぇことしやがる。」
「さようなことは!現に南蛮人との商いについて、加えて一向宗の動向について、姫様は強く心を寄せておいででした。」
「ほう、南蛮貿易と一向宗か。相変わらず妙な所に目を付けやがる。」
氏康はあごひげを撫でた。南蛮貿易については風魔党からも報告が上がって来ている。特に注目されているのが「種子島」「鉄炮」なる新兵器だ。鉄の筒に鉛玉と弾薬を込め、弾薬に火を点けて爆発させ、その力で鉛玉を飛ばす。従来の飛び道具とは一線を画す武器には西国の大名のみならず、武田家をはじめとした東国の諸大名も関心を示し、その入手を急いでいるという。
当然北条家も外郎屋の伝手を使って現物を取り寄せようと画策しているのだが、なにぶん数が限られており、しかも需要の急増で単価が高騰したため、計画は難航していた。
しかしそれに加えて一向宗とは。突拍子も無い事を言い出すかと思えば、しばしば本質を突く結が関心を示すと言うことは、これから何かが起こる前触れかも知れない。
「…そういや百。てめえはどこの檀家だ?」
ふと気になったことを聞いてみると、
「二親を失い、百文で売り買いされてから、この世に神も仏もないものと信じておりました。されど今はただ一人、姫様こそわたくしの生き仏様にございます。御身を守るためならば、身も心も惜しみませぬ。」
予想を上回る返事に、氏康は苦笑した。生き仏とは、随分と惚れ込んだものだ。
「その覚悟は天晴れだが、ちぃと考えてみな。結はてめえを身内同然に思ってやがる。そのてめえがあっさり死んだら、結も後を追いかねねぇぞ。」
氏康の言葉に、百は青ざめる。
「結を守るのも大事だが、てめえの命も大事にしろってこった。侍じゃあるめぇし、名より命を惜しみやがれ。」
「…ご賢察、誠に恐れ入ります。時に、姫様より言付けがございますれば申し上げたく存じます。」
「ほう、あいつから言付けとは珍しいこともあったもんだ。」
時間的にも、面談が終わりそうな気配を感じながら、氏康はからかうように言った。
「大殿のご政道の見事さに感じ入った、と仰せにございました。」
「…ほう。そうかい。結がそう言ったのかい。ふん、世辞が上手くなったもんじゃねぇか、なぁ。ええおい。」
茶化すような口ぶりだが、百は見逃さなかった。氏康が今にも飛び跳ねそうに両足をぴくぴくと動かし、笑みをこらえきれずに口角が上がってしまっている姿を。
えへん、えへんとわざとらしく咳払いをした後、氏康は真面目くさった顔をして言った。
「全く、娘にそう言われりゃあこっちも褒美をやらなきゃ無作法ってもんだろうが、なぁおい。後で蔵に案内させるから、結に似合いそうな簪か何か、二つ三つ持って行ってやんな。しょうがねぇ。全くしょうがねぇったらねぇなぁ。」
百は静かに微笑んで、深々と頭を下げた。
その夜、突然父から高価な装飾品を贈られた結が、その背景を勘ぐって寝不足になってしまったのは、また別の話である。
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