#018 美味しいは嬉しい
今回もよろしくお願い致します。
天文20年(西暦1551年)夏 小田原城 奥の間
「それでは姫様、お休みなさいませ。改めまして此度のご厚情、侍女一同に代わって御礼申し上げます。」
いつもより熱のこもったお梅の口上に、曖昧な笑顔で会釈をして布団に入る。お梅が灯台――船の目印になるでっかい方ではなく、細長い棒の先に皿があり、そこに油を注いでこよりを差し込み火を点ける室内照明――の火を消し、部屋を退出したのを確認すると、
「はぁ~…。」
深々とため息をついた。疲れた。今日は本当に疲れた。
外郎屋からの帰り際、兄上達に絡まれた。西堂丸兄者には、
「結には己の未熟さを痛感させられる。北条を継ぐものとして、わしもまだまだ精進せねばならぬな。」
と、何故か賞賛された。
松千代丸兄者には、
「妹の分際で兄上に恥をかかせるとは無礼千万。今日のことは大殿に申し伝えるゆえ、そのつもりでおれ。」
と、何故か糾弾された。
藤菊丸兄者には、
「いやぁ一本取られた!わしも武芸一辺倒ではいかんな!治世の術を学ばねば!」
と、何故か感心された。
太助丸兄者は…何も言わないので、代わりに侍女が代弁?していうことには、
「姫様におかれましては、今少し慎み深くおられます方がよろしいかと。」
と、何故か慇懃に嫌味を言われた。
兄上達に恥をかかせまいと苦肉の策に出たのに、なんで過剰に褒められたり責められたりしなきゃなんないの?
奥の間に戻ってからがまた大変だった。外郎屋のお菓子を侍女全員に分配すると発表したら、みんな狂喜乱舞してしばらく収拾がつかなかった。どうやら外郎屋のお菓子には私が思っていた以上に価値があったみたいだ。お菓子を食べたお陰か、今夜は夕食の支度から入浴、着替え、歯磨きに至るまで侍女達のテンションが上がりっぱなしだった。
ほんっと疲れた…。でも、みんながいつもより笑顔だったから、まぁ…総合評価で言えば、今日は良い日だったかな。
久し振りに心地良い疲労感に包まれて、私は眠りに落ちていった。
一週間ほど経ったある日、朝食を終えて侍女達に片付けてもらっていると、一人が私の前ににじり寄ってきた。
「姫様、近々また外郎屋さんを訪れる予定などはございやせんか?」
お相撲さんみたいな体型をした彼女の名前はお栗。私付きの侍女の中でも一番の食いしん坊だ。体格に見合った体力の持ち主で、重い荷物も軽々運んでくれるのだが、とにかくよく食べる。私が自由時間に読書していると、こそこそ隠れて木の実やら乾いた米粒やらを食べ始めるので、見かねて最近は彼女と二人の時はおやつを食べながらお喋りするようにしている。
そんなお栗が外郎屋のことを気にするということは…ははーん。
「お栗。あのお菓子はあくまで外郎屋殿のご厚意で頂戴したもの。いつでも手に入るものではないのですよ。」
私もつい最近まで知らなかったけど。
「申し訳ございませんだ。けんど、わっちもあんなにうめぇお菓子を口にしたのは生まれて初めてで…。もう一度いただけるなら、わっちの一番上等な櫛を差し出しても悔いはねぇです。」
こういう事を真剣そのものの顔で言える所が凄いというか、恐いというか。
「そんなことを軽々に申してはなりませんよ。お栗の持ち物がなくなってしまうではありませんか。次にいただいたならば、必ずまた皆に切り分けますから、辛抱なさい。」
私の説得に渋々応じて、お栗は引き下がった。やれやれ、これで当分もらい物は侍女達に分配しなきゃならなくなった。まぁ保存料も冷蔵庫も無い世の中だ、生物は腐る前にみんなで食べちゃった方が有意義ってものだろう。
「姫様、私からもよろしいでしょうか。」
今度はお梅が私の前に座った。まさかお梅までまたあのお菓子を食べたいとか言い出したりしないよね?
「後ほど侍女達の勤め番を改めとうございますゆえ、お時間をいただけませんでしょうか?」
「誰かお役御免に?それとも新しく侍女が加わると?」
シフトを変えるとなると、理由はメンバーが減るか増えるかの二つくらいしかない。ちょっと面倒だけど、早めにやっとかないと後で苦労するのは結局私だ。面倒だけど。
「はい。先ほど大殿からお達しがございました。百が療養を終え、今朝戻ったとのことにございます。」
私は今にも飛び上がりそうな両足を抑えるのに必死だった。
帰って来た。百ちゃんが帰って来たんだ!
お読みいただきありがとうございました。