#166 踏まれて繁る三つ葉葵
本作の更新一時停止を惜しむコメントを送ってくださった皆様、ありがとうございます。
来年春から開始予定の『続編』も楽しんでいただけるよう、準備を進めて参ります。
本作から『続編』を続けて読まれる方からするといきなり数年分の時間が飛んだように感じられるかも知れませんが、不自然にならないよう注意して参ります。
永禄7年(西暦1564年)12月末 岡崎城
大晦日が迫る中、岡崎城本丸の大広間において、松平家康と配下の武将達が対面していた。
それ自体は例年と変わらぬ恒例行事であったが、昨年までとは明確に異なる点が一つあった。家康との距離の近さが家臣団の序列に基づいて厳密に定められており、松平の姓を持つ分家の一部でさえも、有力な譜代家臣と同等、あるいはそれ以下の席次に置かれているのである。
これと言うのも、有力な領主や一向衆の一斉蜂起によって一時は存亡の危機に立たされた家康が、織田信長――厳密にはその意を受けた水野信元――の支援を受けながら四方の敵を各個撃破し、西三河を力ずくで支配下に置く事に成功したためである。
かつては岡崎松平をおびやかす程の威勢を誇っていた桜井松平や大草松平、三河一向衆の中核たる三河三ヶ寺といった勢力は国外退去を余儀なくされ、辛うじて許された国衆達は家康への従属を誓わなければならなかった。
家康を追い詰めたはずの三河一向一揆は、一転して家康が三河における覇権を確立する結果を招いたのである。
「者ども、大儀である。」
家康が厳かに口を開くと、『新生家康家臣団』が一斉に頭を下げた。
「知っての通り、わしは今や三河国主も同然…なれど名も実も伴っておらぬ。まずは戦で荒廃した領地を復興し、その上で公方様に国主たる証を頂戴する腹積もりじゃ。そのためには皆の助力が欠かせぬ…既に謀反人の成敗は終わった。これよりは一同、遺恨を水に流して忠節に励んでもらいたい。」
「はっ!」
「ははっ!」
最前列の家臣達がいち早く快諾の声を上げ、後列がそれに続く。
無数の武士の頭頂部が自身に向けられている事に、家康は満足気に頷くのだった。
「家康家臣団」が続々と大広間を退出した後、家康は自室で酒井左衛門尉忠次と面談していた。
「改めてお祝い申し上げまする。今や殿は三河国主も同然。あとは公方様から三河守に任じられれば、名実共に…。」
「名実共に…か。」
先ほどとは打って変わって憂いに満ち満ちた主君の声に、忠次は深々と下げていた頭を跳ね上げる。
家康は声に違わぬ鎮痛な表情で、明後日の方向に視線を飛ばしていた。
「お主の申す通り…岡崎松平の武威は大いに高まった。されど、それはわしが諱を改めたがゆえではない。お主を始め…窮地にあってなおわしに忠節を尽くしてくれた者達が、謀反人の討伐に力を貸してくれたがゆえじゃ。…弥八郎(本多正信)の諫言を聞き入れておれば、斯様な事には…。」
「殿、弥八郎の事はもう…。」
家臣にさえ易々と弱みを見せられない立場にある家康が、内心の苦悩を明かしてくれた事に密かな喜びを覚えながら、忠次は咄嗟に嗜めた。
家康は一連の反乱を鎮圧するに当たり、謀反人全員を抹殺するのではなく、和睦と赦免を基本方針に据えて臨んだ(総兵力で圧倒出来ない以上、それ以外の方法が無かったとも言える)。
これによって謀反を起こした諸将や一向衆は一族郎党皆殺しの憂き目を免れたが、それは彼らの地位や財産が従来のまま保全される事を意味しなかった。
家康の家中に組み込まれる事を受け入れられなかった有力領主や、一向一揆の蜂起に伴って一揆勢と合流した侍達(本多正信含む)は原則として国外退去。
一向宗寺院は、織田信長の意向に従って家康に加勢した水野信元の仲介で一旦は家康との和睦に応じたものの、その後の交渉で折り合いがつかず、同様に三河からの退去を余儀なくされる。これにより、一向一揆の発火点となった寺内町の利権も消滅してしまった。
西三河平定の代償は、決して安くはなかったのである。
「わしは驕っていた…太守様(今川義元)のお引き立てで今川の御一家衆並みの暮らしを送る内に、生まれながらの国主であるかのような思い違いをしておった。されど…血筋や家格で政が進み、戦の勝敗が決する世であれば、そもそも乱世になどなってはおらぬ。」
家康は嘆息すると、懐から折り畳まれた紙を引き出した。
「駿府で学んだ事が無益だったとは言わぬ…されど、一国一城の主を志す身として手本にすべきは、むしろ小田原の北条であったやも知れぬ。」
家康が紙を広げると、そこには五箇条の戒めが書き記されていた。
かつて家康が駿府に居住していた頃、関口刑部少輔家の姉妹を介して義兄弟の関係にあった北条氏規から聴いた、北条氏康の父、北条氏綱の遺言である。
「一つ、大将によらず諸侍までも義を専らに守るべし。一つ、侍中より地下人、百姓等に至るまでいずれも不憫に思うこと。一つ、侍は驕らず諂わず、自身の分限を守るのが良い。一つ、万事倹約を守るべし。一つ、勝って兜の緒を締めよ…わけても『侍中より地下人、百姓等に至るまでいずれも不憫に思うこと』、これを疎かにしておった。」
「それは、その…。」
忠次は家康の自嘲に、『仰せの通りにございます』とも『それは間違いにございます』とも言えずに言いよどんだ。
「すまぬ、埒も無い事を…ともあれ、お主達が残ってくれた事は真に幸いであった。流れは完全にこちらにある…いずれはお主に東三河を任せる事になろう。」
「拙者が寄親に…?」
家康の支配地域が広大化した事で、岡崎城から一元的に指示を出す体制には無理が生じ始めている。そこで浮上した代替案が、今川家が構築していた『寄親寄子制』の採用――即ち、下級家臣を『寄子』、上級家臣を『寄親』とし、一定数の寄子を寄親に統率させる事で、家康の負担を軽減する、というものだった。
要するに、ある程度の下級家臣を統率するに相応しい人格、能力、家格等を持ち合わせている家臣に指揮権限を委譲するという訳だ。
家格や軍功を考慮すれば、自分も寄親の候補に入るであろう、との自負は忠次にもあったが、口約束とは言えこれほど早く内定を与えられるとは思っていなかった。
「吉田城を落としてからの話になるが、な。遠江への先手を任せられるのはお主をおいて他におらぬ。…頼みとしておるぞ。」
そう言ってほほ笑む家康に、一年前とは比べ物にならない風格を見た忠次は、自然と背筋を伸ばし、改めて平伏するのだった。
明けて永禄8年(西暦1565年)、家康は東三河に残された今川の拠点である吉田城と田原城の攻略を開始する。
程なくして両城は陥落し、吉田城には酒井忠次が、田原城には本田広孝が城代として任ぜられた。
そして東三河の寄親に忠次が、西三河の寄親に石川家成――石川数正の叔父――が就任。
それは、家康がただの有力国衆から一段階成長し、『戦国大名』と呼ぶに相応しい存在になりつつある事を示していた。
改めて、これまで拙作を閲覧し、応援してくださった皆様にお礼申し上げます。
暗いエピソードが続いているとは言え、ちゃんとした「終わり」を迎えないまま完結する事は私としても不本意ですので、いつか必ず「エピローグ」まで執筆し、投稿したいと思っております。
これからも「北条結」の物語をお楽しみいただけるよう、精進して参ります。