#165 謀略の代償
誠に勝手ながら、本作の更新を今年いっぱいで一時停止させていただきます。
詳細は活動報告に記載いたします。
永禄7年(西暦1564年)10月 駿府館
遠江国一帯で勃発した今川に対する国衆たちの反乱――人呼んで『遠州忩劇』は、一応の収束を見た。五郎殿が一年近い時間を費やし、一部の謀反人を大甘な条件で受け入れて、ようやく。
その間に松平家康殿は、総兵力では勝っていたものの連携が取れていなかった一向衆や有力領主を各個撃破して…結果的に、西三河での地位を確立してしまった。
いや、西三河だけじゃない。東三河における今川の勢力圏は大きく縮小したし、一時は遠江まで家康軍の侵入を許してしまった。
軍事に疎い私でも分かる。攻守逆転だ。
岡崎城を落とす所か、どうすれば遠江国を家康殿から守れるかを考えなければならない段階に入ったのだ。
ぶっちゃけ周りの物に当たり散らして、全ての公務をボイコットして自室に引きこもっていたかったが、そんなワガママが言える情勢でもなかった。
五郎殿が軍勢を率いて遠江の鎮圧に当たっている間、混乱する駿府の武士や公家と面談したり、手紙をやり取りしたりして騒ぎが収まるよう尽力し。
遠江の政情不安の影響をモロに食らった商会の臨時株主総会に出席し。
一度は支援を約束した三河の反家康勢力の皆さんに、出陣は『当面』先になった――実質『共同戦線は無かった事に』というメッセージだ――という連絡をした。
送付先の半分からは恨みつらみがたっぷり籠った返事が届いたが、もう半分は返事すら無かった。
雛菊を始めとした教養ある侍女がいなければ全ての手紙を丸ごと書かなければならなかったし、友野屋次郎兵衛殿のサポートが無ければ度重なる事業縮小を商人達に納得してもらう事は出来なかっただろう。
だがまあ…とにもかくにも…遠州忩劇は終わった。五郎殿も駿府館で一息つけた。
竜雲寺に隠棲していた寿桂様が駿府館を訪れたのはそんなある日…秋も終わりの事だった。
「背筋を伸ばして胸を張りなさい。あなたは今川の御前様なのですから。」
「は、はいっ。」
自宅の応接間で五郎殿を待っていた私は、寿桂様に指摘されて姿勢を正した。一応私が上座、寿桂様が下座なのだが、正直逆じゃね?と思わざるを得ない。
程なくして五郎殿が入室し、私の隣、上座のど真ん中に着座した。
「寿桂様、お久しゅう…ご健勝のようで何よりにございます。されど、急用とあらば儂の方が沓谷までお伺いしたものを…。」
長期遠征の疲れから回復した様子で、五郎殿は寿桂様を気遣った。
「勿体無いお言葉…此度はわたくしの不始末について、お詫び申し上げるべく参上仕りました。」
「不始末…三河の一向一揆を焚きつけた事にございましょうか。」
やっぱりその件か。
私は思わず身をこわばらせた。
「西三河の国衆に加えて一向衆まで兵を挙げれば、蔵人佐(家康)殿は窮地に立たされる…老いぼれの浅知恵にございました。」
「寿桂様、武具兵糧の売買を担ったのは私…」
「あなたは黙っていなさい。」
寿桂様にぴしゃりと言われて押し黙る。
「西三河の国衆や松平の庶流…それに一向衆が、敵とも味方ともつかぬままであった方が岡崎松平には不都合でございました。此度の今川の窮地を招いた責はわたくし一人にございます。どうぞ、何なりと…。」
「寿桂様、お顔をお上げくだされ…そもそも窮地とは何の事でござろう?」
とぼけたような五郎殿の声音に、寿桂様がぱっと顔を上げて瞬きをする。
私も恐る恐る五郎殿の顔色を窺ったが、その表情は全くの平静だった。
怒りたいのを我慢しているようにも、寿桂様をいたぶろうと皮肉を言っているようにも見えなかった。
「かつて聞いた所によれば…義元は家督を継いだ折、北条と仲違いを起こして河東(かとう=静岡県東部)を失い…その上遠江と三河の国衆に背かれてしまわれたとか。されど、鬼謀神算を尽くして河東を取り返し、北条と結び…遠江と三河の再平定を成し遂げられた。父上が味わった苦汁に比べれば、今の儂の苦境など、苦境と呼ぶに値しませぬ。」
予想以上のポジティブ思考に圧倒される私達に、五郎殿はにっこり笑って頷いた。
「寿桂様、ご安心あれ。儂はまだ諦めてなどおりませぬ。何年かかろうとも必ずや三河を取り返し…今川の武名を日の本に知らしめてご覧に入れましょうぞ。」
「わたくしは御屋形様の将器を見誤っていたようです。あの若さで…相次ぐ謀反に怒り狂っていてもおかしくないと言うのに。」
寿桂様を玄関まで送る途中、背後で呟く寿桂様に、私は内心で激しく同意した。
私が五郎殿と同じ立場だったら、没落する一方の情勢に堪えかねて当主の立場を投げ出すか、疑心暗鬼に陥って誰彼構わず当たり散らしていただろう。
義元殿のピンチに比べれば大した事無いとか、並の武士じゃ逆立ちしても言えっこない。
…そんなすごい五郎殿を見限った家臣達は何だったんだと言いたくもなるが。
「結…あなたは当分の間、沓谷衆の務めから手を引きなさい。」
玄関での別れ際、寿桂様が、いつもよりどこか弱々しい目付きで私に言った。
「…は?それは、どういう…。」
「此度の遠州勢の謀反…あなたが家中の声を拾い、不満を和らげていれば、或いは防げたかも知れません。…無論、それを妨げていたのはわたくし。謀に現を抜かして、足元を疎かにしてしまった。」
「それは…!」
違う、とは言い切れなかった。私自身、薄々思っていた事だったからだ。
でも、それを認めたら…寿桂様に全ての責任を負わせる事になってしまう。
それは嫌だった。
「案ずる事はありません。守るべきものは何か…それを心得ていれば、一大事に直面したとしてもきっと乗り越えられるでしょう。…あなたは優しい女御です。当分は謀に加担せず、以前のように家中や領民の和を保つ事に専念なさい。」
「寿桂様、お待ちを!せめて…せめて、連絡役に百と七緒を残していただきたく存じます。火急の用が生じた折など、役に立つかと…。」
「…よいでしょう。火急の用には遣いを出します。ですが…くれぐれも深入りはしないように。」
了承の意を込めて頭を下げながら、私は小さく安堵のため息をついた。
たとえグレーで殺伐としていても、寿桂様とのホットラインが維持できた事は私にとって幸いだった。
寿桂様をお見送りした私は、五郎殿に呼ばれて応接間に戻った。
そこで待っていたのは、さっきまでと同様に上座で微笑む五郎殿と、下座でひしめき合う侍女や使用人達だった。
「これは一体…?」
私の入室と共に、海が割れるように人が左右に分かれて道を作ってくれる。そこを通って五郎殿の隣に座ると、侍女や使用人達が一斉に平伏した。
…え、何?
まさか一斉退職の申し出⁉
「我ら一同、これからも御屋形様と御前様をお支え申し上げます。」
「「「「「お支え申し上げます‼」」」」」
侍女頭のお梅に続いて、みんなが一斉に宣言する。
私は一瞬呆気に取られたあと、湧き出た涙を袖口でぬぐった。
「案ずるな、結。この一年、苦労をかけた…いや、これからも苦労は絶えぬやも知れぬ。されど…まだこうして我らに忠節を尽くしてくれる者達がおる。」
「はい…はいっ。」
五郎殿の言葉に頷きながら、泣き顔を必死で隠す。
私は幸せ者だ。
こんなに大勢の人に支えてもらえて。
状況は悪いけれど、何も終わってはいない。
明日からまた頑張ろう――そう決意を新たにした一日だった。
これからも細々と投稿を続けていく所存ですので、目に留まった折にはどうぞよろしくお願いいたします。




