#163 第二次国府台合戦(前編)
北条と里見の一大決戦、第二次国府台合戦を前後編でお送りします。
資料によって物事の有無や順番が異なるため、解釈違いと感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、説得力を感じていただければ幸いです。
永禄7年(西暦1564年)正月8日 下総国 国府台
天候は曇り、風は微弱。
南武蔵(東京都)から太日川=江戸川を東に越えてすぐ、下総国(千葉県北部)市川に隆起した台地、国府台。
そこには近年稀なる光景が広がっていた。
坂東随一の国力と軍事力を誇るはずの北条の軍勢が、三方を海に囲まれ、山がちな領地しか持たない里見の軍勢に背を向け、敗走している。
それは長年に渡って苦汁を舐めてきた里見の飛躍の第一歩になるかに思われた。
「御免!左馬頭殿、おられるか!」
国府台の西端に築かれた国府台城本丸御殿の一室に、具足を鳴らしながら男が踏み入ると、中にいた男――里見勢総大将、左馬頭義弘が振り返った。
「これは太田殿、いかがした。」
「いかが、ではない。なにゆえあれを――」
太田康資は大股で北の窓に歩み寄ると、そこから見える光景を指差した。
「北条への追い討ちを野放しにしておられる!高所の利を捨てるべきではないと、評定で申し上げた筈にござろう!」
言われて窓際に歩み寄った義弘は、迷惑そうな顔で「むう」と吐息を漏らした。
「しかしのう、ここ国府台はかつて小弓公方様が非業の死を遂げられた因縁の地。そこで北条に痛撃を浴びせられるとなれば…現にご覧あれ、北条の軍勢は矢切の渡しにも辿り着けず、川べりに追い詰められておる。旗印からして大将は北条新九郎(氏政)であろう。このまま攻め立てれば、討ち死にするか、自ら腹を切るか…。」
持論に自ら首肯して確信を深めた義弘は、康資に気遣わし気な目を向けた。
「北条の先手を引き寄せる手際、見事にござった。しばらくここで戦況を見守られては…。」
額に青筋を走らせた康資は、憤怒の声を押し殺し、合戦の推移に目を凝らした。
(あの北条が、易々と勝ちを譲るとは到底思えぬ…おのれ、やはり打つ手を誤ったか。)
太田道灌――坂東の武者で知らない者はまずいない、日の本屈指の名将である。
坂東の覇権を巡って繰り広げられた享徳の乱において、宿敵長尾景春と鎬を削った道灌は、その才覚を疎んじた主君によって誅殺されたものの、有形無形の遺産を遺した。
坂東各地の要所に築かれた城塞、従来の常識を覆す用兵術――そして自らの血筋。
太田康資は道灌の曾孫であり、北条氏の坂東進出に際して岩付太田氏と袂を分けた、俗に『江戸太田氏』と称される一族の当主だった。
母は北条氏康の姉、妻は氏康の養女。加えて北条家の中でも指折りの広大な所領を江戸地域に保有するとあっては、康資が北条を見限る理由など存在しない――筈だった。
雲行きが怪しくなったのは、傍流の太田大膳亮家が北条に取り立てられて康資と同格となってからだ。大膳亮家の所領の大半を江戸太田氏が都合した結果、康資の所領は大きく目減りしてしまった。
康資の、氏康に対する不信に追い討ちをかけたのは、二年前――永禄5年の事。
里見家に奪われた葛西城を取り返した暁には、その報酬として、葛西領を任せるという氏康の約束。康資はそれを信じて知恵を絞り、武勇を振るい…見事葛西城を取り返した。にもかかわらず――葛西領を与えられたのは北条の宿老にして江戸城代、遠山綱景だった。
このまま北条に従っていても、江戸太田氏の立場は悪くなる一方ではないか――康資の疑心暗鬼に呼応するかのように、坂東の戦況は北条の不利へと傾いていく。
毎年の恒例行事のごとく坂東へ襲来する越後国主、上杉輝虎に対して、氏康は有効打を加える事が出来ず、戦国大名として致命的な『頼もしからず』という噂さえ立てられてしまった。
そして昨年――永禄6年(西暦1563年)末、輝虎が再び坂東出兵の動きを見せると、これを迎え撃つべく氏康は北武蔵(埼玉県)の松山城に入った。
「もしも今…我が江戸太田家が里見に寝返り、手引きをすれば…左京大夫(氏康)は南北に大敵を抱え、身動きが取れなくなる。あるいはそのまま大敗するやも…そうなれば功第一はこの康資、江戸も葛西も我が物となろう…!」
壮大な絵図を夢想した康資は、里見に内応の意を示す密書を送ると共に一族郎党を招集し、評定の場で自身の構想を披露した。…その結果は悲惨だった。
戦力として当てにしていた有力家臣を筆頭に、家中のほとんどが真っ向から北条からの寝返りに反対したのである。
このままでは自身の命さえ危うい――一転して追い込まれた康資は、辛うじて賛同した一部家臣と手近な兵をかき集め、里見の勢力圏に駆け込んだ。そして土地鑑を活かして里見義弘の軍勢を先導し、葛西城への攻撃を手引きする事に成功。年明け早々に氏康を挟撃する態勢が整った、かに見えた。
…だが、氏康と義弘、両者の決断が康資の目論見を狂わせた。
氏康は仕切り直しとばかりにあっさりと小田原に後退。
義弘も、葛西城攻略を取り止めて転進し、国府台南方の市川に布陣して、岩付太田氏が籠る岩付城への兵糧輸送に熱を上げ始めた。
「岩付城が兵糧不足に悩んでいる事は先刻承知。なればこそ、葛西城を落とせば自ずと岩付城の囲みを解けると申すに…なにゆえわざわざ市川までお退きなさるのか。」
詰め寄る康資に、義弘は皮肉を交えて答えた。
「葛西城を力攻めで落とさば、我らの手負い討死も数え切れぬほどとなろう。太田殿が相応の手勢を連れて来てくれれば、他にやりようもあったろうが…。まあご安心あれ。坂東の海と川は里見の庭池も同然、大井川を遡って関宿城に米を届ければ、北条に妨げられる事なく岩付城に兵糧を入れられよう。」
里見水軍の機動力に絶対の自信を持つ義弘の主張を曲げるには、康資の『手土産』は少なすぎたのだ。
…だが岩付城への兵糧入れは早々に躓いた。
義弘は、商機を嗅ぎつけて市川にやって来た商人達と、兵糧の値段について一向に折り合いがつかず、岩付城に輸送する兵糧そのものが確保できないまま、ずるずると滞陣する羽目に陥ったのである。
「まずい、まずいぞ…左京大夫は常こそ定石通りの堅実な戦しかせぬが…一度思い立てば動きは速い。一騎駆けの武者のごとく…早ければ明日にでも、ここ国府台に現れるやも知れぬ。」
果たせるかな、康資の懸念は程なくして現実のものとなった。
正月七日、大井川の西岸に、三つ鱗――北条の旗印を掲げた軍勢が姿を現したのだ。
「物見(偵察)の報告によれば、兵数は我が方よりやや優勢。率いる将は北条新九郎(氏政)、大石源三(氏照)に加えて江戸城代遠山父子…そうそうたる面々じゃ。いかにすべきか…。」
評定の席で、諸将を前に弱音を吐く義弘。その無様に『それ見た事か』という軽侮を抱きながら、康資は意気揚々と立ち上がった。
「一同、案ずるに及びませぬ。これ程の強行軍、北条は小荷駄(補給輸送部隊)を連れて来なかったに相違なし。速戦即決を志して明日にも攻め掛かって参りましょう。」
どよめく諸将に対して、康資は先刻承知とばかりに声を張った。
「即ち!…明日痛撃を加え、勢いを挫けば、北条勢はたちまち浮足立ち、兵を退く事となりましょう。明朝、太日川の浅瀬――矢切の渡しの東岸に拙者が陣を敷き、北条の先手を誘い込みまする。ご一同は国府台に兵を伏せ、拙者が敵兵を引き込んだ所を包み込んでいただきたい。」
康資が即興で練り上げた作戦に、同席した諸将は次々に感嘆と同意の声を上げた。
「…ただし!ただし、にござる。左京大夫(氏康)の姿が見えぬが気に掛かりますれば…北条の先手を葬った後は国府台の縁にて守りを固め、北条が兵を退くを待つが上策と心得まする。」
背筋に走った悪寒に、康資は反射的に付け加えた。
明くる朝、太日川の東岸に布陣した康資は、西岸に布陣した北条の先手を挑発し、矢切の渡しを渡らせる事に成功した。
北条の先手も、康資の挑発を見透かしてはいたものの、兵糧に余裕が無く、その上『裏切り者』を血祭りに挙げる好機とあって、太日川の冷水を蹴散らしていく。
康資の手勢を少しずつ削り取りながら国府台に登った先手を待ち構えていたのは、八方に伏せていた里見の兵だった。
気付いた時には既に遅く…敵前渡河と台地への登攀で疲弊した北条の先手は、退路を断たれてたちまち壊滅した。
里見が獲得した首級の中でも重大だったのは、遠山綱景とその子、隼人佑と、富永康景――いずれも北条の重鎮だった。
康資は綱景――妻の実の親に当たる――の死に一瞬天を仰いだが、感傷に浸る暇は無かった。北条の先手を殲滅した里見の軍勢が、事前の打ち合わせを無視して追撃戦を開始したのである。
「江戸の太田にばかり手柄を挙げさせる訳にはいかぬ!この勢いで、足腰が立たなくなるまで北条を叩き伏せよ!」
太田資正――康資と先祖を同じくし、兵糧入れを待ちきれずに国府台まで加勢に現れた岩付城の主が、配下の兵を叱咤激励して北条の後続部隊に突っ込むと、他の里見家臣も先を争って国府台を降りていく。
全軍に対する指揮権を持たず、偽装撤退で疲弊した将兵を抱えた康資は、やむを得ず国府台城に向かった。
総大将たる里見義弘から、撤退の下知を引き出すために。
そして康資の目論見は失敗し、国府台城から戦況を見守る他なくなった、という訳だ。
一見、戦況は里見優勢に見える。
里見勢の追撃に遭った氏政の軍勢は、矢切の渡しよりも北、太日川が緩く西に湾曲して出来た平地に集まり、川を背に半包囲攻撃を受ける形になっている。逃げ場も無い現状、このまま攻め続ければいずれすり潰せるだろう。
(北条に隠し玉が無ければ、の話だが。)
絶体絶命の窮地にあって一向に崩れる様子を見せない氏政の軍勢に、半ば予感めいたものを感じながら窓枠を握りしめていた康資の目に、新たな軍勢の姿が映った。
太日川の西岸に現れた軍勢の旗印は、三つ鱗。
「やはり来たか、左京大夫…!」
康資が片手に力を込めると、窓枠がみしりと嫌な音を立てた。
To be continued...




