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#160 家康誕生

松平元康の第二形態、『松平家康』誕生の様子をお届けします。

永禄6年(西暦1563年)9月 三河国 岡崎城


「では一同、見せるがよい。」


 冷たい風が障子を揺する昼日中、大広間の評定(ひょうじょう)の最中、上座から松平元康が号令を発した。

 下座にひしめき合うように座っていた家臣達が、一斉に半紙を掲げる。そこには「輝」「信」「長」といった漢字一字が記されていた。


「ふむ…見た所、『家』の字が最も多いようじゃのう。」


 大広間を見渡した元康が呟くと、感嘆の溜息と疑念のこもった唸り声が交錯した。


「…ん、んんっ!いかがした、弥八郎。ここでお主が長広舌(ちょうこうぜつ)を披露するものと思ったが…。」


 いかにも不自然に咳払いをした酒井(さかい)左衛門尉(さえもんのじょう)忠次(ただつぐ)が、『家』と書かれた半紙を掲げたまま水を向けると、同じく『家』の字を掲げていた本田(ほんだ)弥八郎(やはちろう)正信(まさのぶ)が弾かれたように顔を上げた。


「…お許しあれ。しばし考え事を…駿州今川は、元を辿れば清和源氏(せいわげんじ)に連なるお家柄、なれど…元康(との)の系図を辿れば、同じく清和源氏に行き着くと、宿老のお歴々に聞き及んでおりまする。それも八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)公の直系にあたる、と…これ即ち、義家公の三男たる義国(よしくに)公を祖と崇める今川に…今川を…。」


 急に歯切れが悪くなった正信に、周囲の視線が集中する。

 当の本人は、半紙を床に置いて額の汗を拭った。


「…非礼の段、重ねてお詫び申し上げる。兎も角、殿の新たな(いみな)に用いるは、『家』の字が最良と心得まする。」


 どうにか自論を締めくくった正信に、一瞬だけ眉をひそめながらも、元康は鷹揚に頷いた。


「弥八郎の申す通りじゃ。岡崎松平(われら)はいつまでも今川の風下に置かれるべき身上にあらず。それを――近々、わしが諱を改める事で諸国に示そう。」




「左衛門尉…先刻の『あれ』は、どこまでが芝居じゃ?」


 大広間から家臣達が退出した後、自室に招いた忠次に、元康は問いかけた。

 今川と決別する姿勢を改めて世に示すため、諱を改める。具体的には、今川義元から与えられた『元』を捨て、源義家にあやかって『家』を用いる――という方針は、実は元康が信を置く一部家臣との相談で、ほぼ決まっていた。

 事情を知らない家臣の理解と納得を得るため、表向き意見を求める形式をとったが、もし『家』以外の候補が優勢だった場合は元康や正信が難癖を付け、多少強引にでも議論を誘導する…そんな筋書きだった。

 だが、今日の正信が本調子でない事は誰の目にも明らかであり…『家』の字が大多数でなければ、評定がまとまらずに終わる可能性すらあった。


「ははっ、恐れながら…弥八郎はこの所何事にも身が入っておらぬ様子にございます。先刻の申し様も打ち合わせには無く…。」

「やはり、か。」


 苦々しい顔付きで、元康は舌を打った。




 山賊が出没する峠道を避けて踏み入った獣道で、熊に出くわした。岡崎松平の現状をあえて表現するなら、そんな例えが適当であっただろう。

 今川義元亡き後、三河国に勢力を拡大する織田信長に対して、氏真は一旦は後詰を約束しながら北条の救援を優先、戦況悪化を招いた。

 岡崎松平が生き残るためには旧主の仇と結ぶもやむなし――織田と和睦し、今川から独立した元康が直面したのは、甲斐の武田、相模の北条に支援されながら、着実に三河国の再平定を進める氏真の見事な采配ぶりだった。

 今川が有利になったからとまたも今川への服属を申し出れば、岡崎松平の武威は大きく低下し、比興者(ひきょうもの)の汚名を着せられる。そう考えた元康は永禄6年(西暦1563年)3月、まだ幼い嫡男竹千代と、信長の娘との婚約を成立させて尾張の軍事的支援を取り付けようと画策した…が、その効果はあまりにも限定的だった。

 信長は尾張の北、美濃の斎藤攻めに注力し、元康が何度加勢を求めても、あれこれ理由をつけて応じない姿勢を取ったのである。

 こうした外交の不調に追い打ちをかけたのが、名目上は岡崎松平に服属しながら、事あるごとに離反の兆候をちらつかせる三河国の小領主達だ。

 とりわけ厄介なのが、同じ松平の姓を持つ桜井松平、大給(おぎゅう)松平、大草松平といった有力一族で、『自分達は岡崎松平にいつでも取って代われる立場なのだ』と言わんばかりの態度を隠そうともしない。

 皮肉にも、岡崎松平を松平一族の中でも一頭地抜けた存在たらしめていたのは、日の本有数の名族たる今川の御一家衆、関口刑部少輔(せきぐちぎょうぶのしょう)家から妻を迎えていたためだった。

 元康は今川と手を切った瞬間に、そのアドバンテージすら失ったのだ。




 こうした窮状に陥ったのも、元を辿れば正信の献策を()れてきたためではないか――その献策を積極的に取り入れたのは自分であるという不都合な真実から目を逸らしながら、元康は眉尻を吊り上げ、右手親指の爪を噛んだ。


「…そう言えば、諱を改めると申し伝えた折も、弥八郎は中々首を縦に振らなんだな。」

「ははっ、『昨日は三河、今日は相模と相次いで兵を出すは、今川家中に労多くして益少なし。取り分け遠江の国衆に叛心が見え隠れする今こそ、臣を(いたわ)り、民を安んじ、岡崎の守りを固めて』――」

「『今川の内紛を待つべきと存じます』…ここまで押し込まれて、何を悠長な。己の失態を糊塗(こと)するための言い訳ではなかろうな。」


 がりがり、としばらく爪を噛む音を響かせていた元康は、八つ当たり同然に忠次を睨んだ。


「弥八郎を連れて参れ。今川が坂東出兵の疲れを癒している隙を突いて、東三河を取り戻す算段を整えねばならぬ。銭の工面(くめん)も…兎に角連れて参れ。」




 一旦元康の自室を去った忠次が困惑した表情で戻って来たのは、日没迫る夕方だった。


「いかがした、左衛門尉。斯様に遅く…それに、弥八郎はどこじゃ?」

「面目次第もございませぬ。評定が終わるや否や早々に大手門をくぐったとの事で…屋敷まで行ったものの、重病につき登城できぬ、と…。」

「またか。弥八郎め、都合が悪くなると急に病にかかる…。」


 やれやれと(かぶり)を振る元康に、忠次は懐から書状を取り出した。


「代わりに、殿に届けてほしい、と…文を預かりました。」

「文を(したた)める気力はあるようじゃな。」


 皮肉を口にしながら正信の手紙を受け取った元康は、やや乱暴な手付きで手紙を広げると、眉間にシワを寄せながら素早く目を通した。


「…これはいかなる了見か。」


 元康が唸るような声を漏らして手紙を放ると、忠次は「御免」と断りを入れてから、手紙を拾った。




 漢の高祖(劉邦)、(もと)より富貴(ふうき)の出自にあらず。

 臣を労り、民を安んじ、非道を正して万里を静謐(せいひつ)たらしめたがゆえに、上下万民の信を得て漢朝を開く。

 (かえり)みるに、蔵人佐殿(元康)の祖父君(清康)は世良田(せらだ)の姓を称して庶流を従え、三河国主たらんと欲すれども、謀反人の凶刃にて落命せり。

 即ち蔵人佐殿、苦境に惑いて虚名に(すが)り、祖父君の過ちを繰り返さんと欲す。

 臣弥八郎、伏して申し上げる。

 今はまず家中と親睦を深め、百姓を労わって、三河領民の信を得るを専らとするが上策なり。

 当面は兵を催さず、撫民(ぶみん)に専心すべきと――




「改名は無益、戦を控えて(まつりごと)に専心すべきと申すか。徹頭徹尾策士気取りで高説を書き散らし、詫び言一つ記しておらぬ…戯れも大概にせよ!」


 腹立ちまぎれに怒鳴った元康とは対照的に、忠次は真剣な顔で正信の手紙を幾度も読み返していた。


「お腹立ちはごもっとも、なれど…弥八郎の申し様にも、一理あるかと。」

「まだ弥八郎をかばうか⁉」


 元康が怒りと呆れの入り混じった声を上げる。


弥八郎(あやつ)は知略に富み、事あるごとに武辺者をけなして揉め事を起こす食わせ者ではございますが…その目は三河一国に留まらず、日の本の隅々まで行き届いております。今日(こんにち)に至るまで岡崎松平(われら)が比興者の汚名を被らずに参りしは、弥八郎の献策が正しかった証かと…。」

将監(しょうげん)の事を忘れたか、左衛門尉…お主の忠節も、未だに疑われておるのだぞ。」


 忠次は言葉に詰まった。

 酒井(さかい)将監(しょうげん)忠尚(ただひさ)――忠次の縁戚に当たる国衆の頭領であり、上野城の主であり…6月に元康から離反した男である。


「あの時…上総介殿(氏真)が相模出兵のために兵を退かず、三河に留まっておれば…岡崎は北から将監に、南から上総介殿に挟撃されていたであろう。」

「…仰せの通りにございます。」

「臣を労り、民を安んじ、などと…悠長な事をしている(いとま)は無い。皆に苦労を強いている事は承知しておるが…今成すべきは今川方の手に落ちた城を取り返す事…違うか?」


 忠次は、(はい)とも(いいえ)とも答えない――答えられない。

 そうした戦略…中長期的な見通しに基づく目標設定は、正信に頼り切りだったからだ。


「…もうよい、今日は下がれ。」


 疲労の滲む声で元康が許可を出すと、忠次は沈鬱な顔付きで主君の前を辞した。




 数日後、松平元康は『松平家康』への改名を正式に公表する。その効果は覿面(てきめん)だった。

 翌10月――幡豆(はず)小笠原氏が岡崎松平に敵対。

 続いて、家康に居城を追われて潜伏していた名家、東条(とうじょう)吉良(きら)氏が東条城を奪還し、反攻の狼煙(のろし)を上げる。これに同調したのが、以前から面従腹背の姿勢を見せていた桜井松平、大給松平、大草松平の三家を始めとした一派だった。

 彼らは『八幡太郎義家』の威光を、何ら意に介さなかったのである。

 これらの脅威を放置すれば、次に氏真が来襲した際、身動きが取れなくなる。そう判断した家康は、早期鎮圧のため軍備を早急に整えるべく、領内の一向宗寺院にこれまでの諸役免除を撤回すると通達する。

 ――それが事態を更に悪化させるとは、夢想だにしないまま。

三河松平一族の開祖とされる人物については、不明点と怪しい点がやたらと多いです。

三河の片隅にふらりと現れて婿に入り、素浪人とは思えない教養でたちまち松平家を発展させる…どう考えても田舎侍じゃないけどルーツは分からない…謎が、謎が多い…!

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― 新着の感想 ―
さては一揆ですかね…? 三河って一向宗強かったような気が…あっ(察し 更新ありがとうございます。
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