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#158 友野屋次郎兵衛の尊徳勘定

活動報告でも触れましたが、以前からご指摘いただいていた誤字報告について、先日確認と修正を実施いたしました。

なおその過程で、第101話の内容について『誤字』の範疇に収まらない事実誤認が発覚しましたので、折を見て修正する所存です。(2024年10月27日)

永禄6年(西暦1563年)4月 駿府館


「時に御前様。いささか不穏な噂を耳に入れましたゆえ、お伺いしてもよろしゅうございますか?」


 そう友野屋(とものや)次郎兵衛(じろうひょうえ)殿が切り出したのは、屋敷の応接間で対面していた時。

 寿桂様に指示された通り大量の武具兵糧や籠城に必要な物資を購入し、遠江国から三河国にかけて活動している商人に転売する手順を確認するための、詰めの調整を粗方終えたタイミングでの事だった。


「不穏な噂…何でしょう?」

「近々御屋形様(氏真)が三河国に兵を出すため…これまで免ぜられておられた諸役を、家中のお歴々に改めて課される、と。」

「…どこからそのような噂を?」


 内心の動揺が表に出ないよう必死に声色に気を使いながら、私は聞き返した。

 噂は正解も正解、ドンピシャだ。昨夜、久し振りに夕食を共にした際、五郎殿がしきりにため息をつくので気になりながらも気付かないフリをしていた所、五郎殿の方から打ち明けてくれたのだ。

 松平元康殿を圧迫するため、そして北条からの援軍要請に応えるため。五郎殿は今年中に最低でも2回、大軍を動員しての遠征を行う必要がある。しかしこれまでの軍事行動で出費がかさんだ結果、今川本家の財政が逼迫(ひっぱく)しつつある。

 よって家中の面々に通年以上の軍役――軍事負担を求めざるを得ないのだが、当然反発も予想される…という不安からのため息だったという訳だ。

 その時は、悩み事のスケールが大きすぎたため、『気苦労お察しいたします。私にも出来る事があればよいのですが…』という言葉をかけるのがせいぜいだったのだが、そんな大事な話がどこから漏れたのか…。


「噂は鼻の利く商人の間から立っております。御屋形様はしばしば北条の加勢に兵を出しておられますが、名は高まっても実益がございませぬ。そろそろ家中に追加の軍役を申し付けられるか、百姓町民に更なる税を課せられる頃合いかと。」


 堂々と答える次郎兵衛殿に感心しつつ、何と答えたものかと頭をひねる。

 秘密を共有する相手は少ない方がいい――百ちゃんや寿桂様から教わった機密保持のセオリーだ。『ここだけの話』が広まると、『誰でも知っている話』になってしまう。

 しかし次郎兵衛殿は今川家の誰からもヒントを得る事なく、正解に辿り着いた。『違う』とか『知らない』とか噓をついても、今後の関係に悪影響を及ぼすだけだろう。

 第一、松平元康殿に謀反を起こす――かもしれない人達に軍需物資の密輸を行うための相談に乗ってもらっている時点で、隠し事をするのも今更だ。次郎兵衛殿が増税の件を言いふらす人間なら、密輸の件も言いふらされてしまうだろう。

 結論としては…。


「次郎兵衛殿の読み通り…御屋形様は『三州急用(さんしゅうきゅうよう)』のお題目で、ご家中に追加の軍役を課すべきかと悩んでおいでです。何か私もお力添え出来ればと、考えてはいるのですが…。」


 具体的な数字を出さずに――そもそも私も知らないが――大筋を認めると、次郎兵衛殿は肩の荷が下りたような顔つきで頷いた。


「それがしに案がございます。御屋形様が触れを出されると同時に、御前様も銭を献上すると、そう触れ回るのです。」

「私が銭を…?それで皆様が得心されるでしょうか?」

「一切のわだかまり無く…とは参りませんでしょうが。駿河国一番の有徳人であらせられる御前様が進んで銭を献上されたとあらば、家中のお歴々も御屋形様の命に服さぬ訳には参りますまい。ただ、相応の銭を献上していただかねば…。」

「いかほどがよいとお考えで?」


 私の問いに、次郎兵衛殿は腕を組み、しばらく考え込んだ。


「一万貫文。と申し上げたい所にございますが――」

「分かりました。それで皆様が得心してくださるのであれば…。」


 だいぶ貯金に響くが、今の経営状況なら株札で十分取り返せるだろう。

 頭の中で素早くソロバンをはじいて承諾すると、次郎兵衛殿は目を大きく見開いて…突然笑い出した。


「ははっ、はっはっはっ!御前様には(かな)いませんな!…承知仕りました、それがしも五千貫文を献上いたしましょう。」

「は?い、いえ、次郎兵衛殿にまで身銭を切っていただく訳には…。」


 何が面白いのか分からずにやんわりとお断りしようとすると、次郎兵衛殿は目尻の涙を拭いながらゆっくり首を横に振った。


「心配ご無用にございます。それがしは商人、利の無い事はいたしませぬ。一つ、お家の一大事に友野屋は一銭とて出し惜む吝嗇家(けち)である…との悪評を免れる。一つ、東西への出兵となれば、駿府の商人に膨大な量の武具兵糧を買い求められる。これらの利を思えば、五千貫文も惜しくはございませぬ。」

「…さすが友野屋次郎兵衛殿。その意気で今後とも、駿河国の(あきな)いを支えてくださいませ。」


 損して得取れ、というやつか。

 金儲けへの飽くなき執念に、畏怖と尊敬を込めた言葉を送ると、次郎兵衛殿は満面の笑みで(こうべ)を垂れたのだった。




「それがしも焼きが回ったか。」

「は?」


 駿府館から帰宅する途中、馬上で(つぶや)いた友野次郎兵衛に、馬の口を引いていた下男が顔を上げた。

 二人の前後には護衛の牢人(ろうにん)や荷物持ちなど、十人程が小さな行列を成している。

 往来に人影は無く、次郎兵衛の呟きを耳にする者は他にいなかった。


「何か仰いましたか?」

「…独り言じゃ。気にするな。」


 触らぬ神に祟りなし、とばかりに前方に向き直った下男の頭頂部を一瞥して、次郎兵衛は手綱を握り直した。


(長い付き合いになるが未だに分からぬ…御前様の器量が。身の回りの小事に一喜一憂したかと思えば、お家のためにと躊躇なく大金を投じられる。)


 『一万貫文』は、揺さぶりのつもりだった。御前様(ゆい)の株札管理に深く関与しているため、出そうと思えば出せるが一度には…と悩むであろう額を提示したのだ。

 そこで悩んだ御前様に、お困りならば自分が半分の五千貫文を出しましょう、と申し出て貸しをつくる…という算段だったのだが、初っ端から全額負担を承諾されてしまったせいで、その企みは挫折した。


(商いのためとは申せ…それがしが北条や武田はおろか、岡崎松平とも繋がりを保っている事についても、何ら苦言を呈された覚えが無い。見張りを置かれているようにも思えぬ…。扱いはあくまで商人のそれ…侍のように、『御恩』の分『奉公』せよと命ぜられた事も無い。)


 今川家から様々な恩恵を被ってはいるものの、次郎兵衛はどこまで行っても商人だ。儲けが出ると思えば主家の敵でも取引するし、私財や一族郎党の命を投げ打ってまで今川の『御恩』に報いようとも思っていない。

 次郎兵衛の願いは、第一に友野屋が商家として発展を続ける事。第二に、友野屋の基盤たる駿河国とその領民の平穏を維持する事だ。

 裏を返せば、友野屋を商家として重用し、駿河国の領民を(可能な限り)丁重に扱ってくれるのであれば、駿河国の支配者が誰であろうと構わないのだ。

 次郎兵衛が周辺の諸勢力と伝手を維持しているのは、万が一今川が駿河国主の座を喪った際に、代わって駿河国を治める国主を速やかに確保するためでもある。

 …そして、その仮定は『万が一』ではなくなりつつある。


(今川を見限る支度を始めるべきか?…いや、見切りをつけるには早すぎる。)


 桶狭間での敗戦まで順調に進んでいた今川の拡張政策は、松平元康を中心とした三河国の国衆達の反乱によって完全に行き詰まった。それが家中に不協和音を生み出し、動揺してはいるが…氏真による三河国の再平定も徐々に進んでいる。

 こんな時に焦って妙な動きをすれば、友野屋は汚名と共に取り潰しの憂き目に遭うだろう。それでは意味が無い。


(とは言え、万一の事は考えておかねば…仮に今川と武田が仲違いを起こし、甲州勢が駿河国の奥深くまで攻め入ったとして…それがしが取るべき道、は…⁉)

「ぐっ…げほっげほっ!」

「じ、次郎兵衛様⁉何事で…?」


 突然喉元までせり上がった不快感に激しく咳き込んだ次郎兵衛は、わらわらと集まって来た下人達に手をかざして遠ざけた。


「っ…はぁ、はぁ…騒ぎ立てるな、大事無い。…このまま屋敷に戻る。」

「されど…!」

「分かっておる。…誰か、駿府館に引き返して越庵(こしあん)先生をお呼びせよ。屋敷まで案内(あない)するのだ。」




「お体に異常はございませんな。」


 数時間後、友野屋の裏口から次郎兵衛の私室へ招き入れられた薬師――臼川(うすかわ)越庵は、敷布団に横たわった次郎兵衛の目の色や舌の色、手足と腹部の張りなどを一通り検分してから結論を口にした。


「では先生…それがしの不調はどういう事か。」

(やまい)は体の乱れからのみならず、心の乱れからも発する事がございます。詮索はいたしませんが…何かお心に沿わぬ事を深くお考えになられたのでは?気を鎮める薬を処方いたしますが…何よりの薬はご自身の心に逆らわぬ事にございます。」


 当面の薬と引き換えに診察代を受け取って、越庵が退出すると、次郎兵衛は体を起こし、ぼんやりと庭先を見やった。


(己の心に逆らわぬ事…か。どうやら御前様に随分と(ほだ)されたらしい。)


 越庵の見立てが正しければ、体調の悪化は本意ではない事を思考したため。つまり…自分は今川の没落を望んでいない、という事だ。


(されど、こうあってほしいという一存のみで先行きを捉えるも悪手…であれば、いかにするべきか。)


 そこまで考えてから、次郎兵衛は片頬を吊り上げて挑戦的な笑みを浮かべた。


「何が起ころうとも、友野屋も、今川も滅びずに済む…斯様に事が運ぶよう、支度を整える他あるまいな。全く、骨が折れる…。」


 次郎兵衛は、言葉と裏腹に勢い良く起き上がると、残務を片付けるため仕事場に足を向ける。

 結局その後、越庵が処方した薬が使用される事はなかった。

結が臨時徴税に従順なのは、前世において諸々の給料天引きが常態化していたため、儲け=手取りにはならない、という『常識』が染みついているためです。

また、結果的に越庵先生のアドバイスで友野屋次郎兵衛が味方になってくれましたが、もし次郎兵衛の『本心』が『御前様を手籠めにしたい』だったり『今川に代わって駿河国主になりたい』とかだった場合、どえらい事になっていました。

越庵先生は基本的に患者が元気になってくれればそれでいいので、政治や外交に関わらせるには危なっかしい所があります。

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― 新着の感想 ―
記憶という意味での歴史はおぼろげになることがあっても奴隷根性レベルで体に刻まれた国家レベルの社畜、勝手な増税へのあきらめは脊髄反射になってるある意味現代日本人の特性の一つなのか。 実際商人の友野屋と…
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