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#157 血の盟約に背信の種を贈ろう

評価ポイントが4,000ptを突破しました!

評価してくださった皆様、ありがとうございます。

更に更に、なんと誤字報告も多数いただきました!

しっかり読み込んでいただいた上でのご指摘、ありがとうございます。

そろそろ誤魔化しの効かない水準に達しつつあるため、近日中に修正いたします。

永禄6年(西暦1563年)3月 駿河国 竜雲寺


 氏規兄さんが小田原に戻ってからしばらく経ったある日、私は沓谷(くつのや)の竜雲寺にある寿桂様のお宅を訪れた。表向きは、血の繋がった孫――氏規兄さん――が小田原に戻った寂しさを紛らわすためだが、その実、寿桂様の要請に応えてのものだった。

 まず、今川家の忍び集団『沓谷衆』のエースにして寿桂様の腹心、二之丸七緒(にのまるななお)さんが口頭で寿桂様のメッセージを私に届けた。それを受けて私から寿桂様のお見舞いを申し出るという、若干回りくどい手順を踏んで面談にこぎ着けたのだ。

 寿桂様は未だに隠然たる影響力を保持しているため、寿桂様から要請した形式になると関係各所から勘繰られる。それを避けるための措置だった。


「その後、体に不調はありませんか?」

「幸いにして、つつがなく…恐れながら、寿桂様は…?」


 応接間の下座から恐る恐る聞くと、寿桂様は一見いつもと同じ鋭い眼光で、上座から私を見下ろした。


「わたくしの事は気にせずとも結構。あなたは今川の御前様なのですから、くれぐれも体調を崩す事の無いように。…今日はあなたにやってもらいたい事があり、こうして来てもらいました。」


 そう言って寿桂様が差し出したのは、黒漆塗の長細い箱だった。

 寿桂様に許可を取って箱を開けると、中には一本の巻物が。

 紐解くと、どこから何をどれだけ購入するか、どこに何をどれだけ売却するか、といった指示が箇条書きで列挙されていた。


「これは…?」

「仕掛け(謀略)に必要な取引です。あなたは友野屋(とものや)次郎兵衛(じろうひょうえ)殿と懇意にしているでしょう。その伝手を使って、目録の通りに事を運びなさい。」


 いつもなら、黙って頷いて終わりにする所だ。

 しかし今回は、そうは出来なかった。


「恐れながら、仕掛けの狙いと内訳をお教えいただきたく存じます。」

「…あなたが知る必要はありません。」


 寿桂様から放たれるプレッシャーが、一段階強くなったような気がする。

 だが…退くに退けない。


「仕掛けの狙いと内訳が分からなければ、事に臨む意気込みに関わります。何卒…。」


 深々と頭を下げる。


「…頭を上げなさい。そこまで言うのであれば聞かせましょう。後悔しないように。」


 すんなり許可が出た事に少し驚きながら顔を上げると、寿桂様は手元の湯吞から白湯を一口飲み、一呼吸置いてから口を開いた。


「知っての通り、松平蔵人佐(元康)殿が、嫡男竹千代君と織田上総介(信長)の娘との婚約を結びました。今川との縁は一層弱くなり…織田との縁はいよいよ強くなるでしょう。」


 無言で頷く。

 元康殿の決意の硬さを改めて見せつけられた、嫌なニュースだった。


「されど、岡崎松平の劣勢は誰の目にも明らか…ここで御屋形様(氏真)がもうひと押しすれば、三河の国衆も考えを改め、今川への帰服に傾く事でしょう。しかし…御屋形様も思うままに兵を(もよお)せる訳ではありません。」

「北条からの、加勢を求める文にございましょうか。」


 思い当たる節があったため、先に口に出してみると、寿桂様は深く頷いた。


「御屋形様と武田大膳大夫(信玄)殿の助力を得て、越後勢に寝返った国衆を懲らしめる、と…大変な意気込みとお見受けしました。御屋形様が6月…遅くとも7月に相模国に入るとなれば、三河に長居は出来ないでしょう。」


 武将さながらの日程計算に、私は思わず目を瞬いた。

 だが、寿桂様の言う通りだ。

 五郎殿が三河に遠征するのが4月からになるとして、7月には相模に転進、となると…6月には駿府に戻っていないとスケジュール的にキツ過ぎる。

 つまり、五郎殿が三河にいられるのはせいぜい2か月という計算になる訳だ。


「そこで、御屋形様が兵を退いた後に岡崎松平が巻き返しに出られないよう…その懐で乱を起こすための仕掛けを仕込んでいました。あなたに頼みたいのは、その者達が籠城の支度を整えるための手助けです。」

「誰が蔵人佐殿に謀反を?この売り買いがどうその方々の助けに?」


 一言一句聞き漏らすまいと、固唾を飲んで耳を凝らす。


「謀反を起こすのは三河国の一向宗門徒…あなたに頼みたいのは、その方々が安く大量に武具兵糧を仕入れるための下拵えです。」


 まさかの回答に大声で叫びたくなるのをぐっとこらえ、深呼吸を繰り返して早くなった動悸をなんとか鎮める。


「…三河国の一向衆は、それほどまでに窮しておいでで?」

「太守様(今川義元)が三河国の大半を攻め取って以来…当地の百姓農民は大きな戦に巻き込まれる事もありませんでした。しかし、蔵人佐殿が謀反を起こしてからというもの、当地は戦続き…一向宗の教えに救いを求める者は多いと聞いています。その中には、蔵人佐殿の家中もおられるのです。」


 忠臣揃いのはずの三河武士にも一向宗門徒がいると知り、私は驚くと共に、謀反の成功率が上昇したのを感じた。


「では、この武具兵糧の売り買いは…。」

「今川の者が(じか)に売り買いすれば、たちどころに岡崎松平の知る所となるでしょう。それゆえ、幾人かの商人を経て主だった寺や城が買い入れられるよう手筈を整えてあります。」


 あとはそこに現物が届くだけ…という訳か。


「かしこまりました。次郎兵衛殿と談合(相談)の上、寿桂様のお望み通りに事が運ぶよう、取り計らいます。」


 恭順の意を明らかにすべく深々とお辞儀をしてから、顔を上げて寿桂様の顔色を窺って…少し驚いた。

 寿桂様は、いつものどっしり落ち着いた感じではなく…何か奇妙なものを見たような、そんな表情を浮かべていた。




 結が辞した後の応接間で、寿桂尼は座ったまま、何事かを一心不乱に考え込んでいた。

 そこに軒先から声がかけられる。


「二之丸七緒、寿桂様に言上すべく参上仕りました。」


 寿桂尼が立ち上がり、縁側に歩み寄ると、庭先に町人風の女――二之丸七緒が(ひざまず)いていた。


「大儀です。三河国での仕掛けはどうなっていますか?」

「はっ、まず…。」


 寿桂尼を見上げて口を開きかけた七緒は、(あるじ)の顔を目に入れるや言葉を失った。


「…どうしたのです。何か申したい事があるのなら…。」

「恐れながら、寿桂様…何か憂い事でもございましょうか?」


 陰の道に生きる者として、感情を滅多に外に出さない七緒の声が震えているという現状を前に、寿桂は自分自身が動揺を隠しきれていないという事実を突き付けられた。


「…先程、あの子に…御前様(結)に請われて、仕掛けを…三河国の一向衆を()きつける仕掛けについて、大方を明かしました。」

「御前様が、異論をお唱えに?」


 七緒が眉根を寄せると、寿桂尼は首をせわしなく横に振った。


「いいえ、むしろ進んで仕掛けに加わろうと…以前では考えられない事です、一向宗門徒の一揆、謀反を焚きつけるなど…何かしら苦言を呈されるものかと…。」

「今はお家の存亡がかかる一大事。寿桂様を見習って、(はかりごと)に進んで(くみ)するは、むしろ喜ぶべき事と存じますが…。」


 困惑する七緒をよそに、寿桂尼は片袖で口元を隠したまましばし考え込むと…先程よりやや強く、(かぶり)を振った。


「こうして思い悩んでいても、詮無き事…改めて聞きましょう、三河国での仕掛けについて。」

「はっ、では改めて…寿桂様が特に気に掛けておられた『蜂谷(はちや)』殿が血判状に印を()された、との事です。」


 七緒の報告に、寿桂尼は禍々しい眼光を一瞬放つと、背筋をぴんと伸ばした。


「皆、よくやってくれました。『蜂谷』殿を一揆勢に引き込めば、岡崎松平に与える痛手はより大きくなるでしょう。労いの文を送らなくては…。」

「三河での仕掛けに尽力して来た者達も喜びましょう。これほどの大仕掛け、実を結ぶ事は(まれ)にございます。」


 声色にうっすらと喜色を滲ませる七緒に対し、寿桂尼はまたも沈黙すると、唇を一層固く引き結んだ。


「…まだ気を緩めてはなりません。あくまで三河の一向宗門徒の方々が立ち上がらねば、仕掛けは成り立たないのですから…わたくし達は岡崎松平の不始末に乗じて、火に油を注ぐのみ…くれぐれも仕掛けが表沙汰にならないよう、心なさい。」

「は、ははっ!」

「分かればよいのです。…今日は泊まって行きなさい。文は明朝持たせます。」

「さ、左様な…あまりにも恐れ多い…。」

「あなたにはいつも無理難題を強いています。他の者も、不公平とは思わないでしょう。」


 幾分柔らかくなった寿桂尼の口ぶりに、七緒はしばらく逡巡する様子を見せてから、喉を鳴らしておずおずと頷いた。


「今宵は寿桂様の世話になる、と…皆に伝えて参ります。」

「結構。床を用意させておきます。また後ほど…。」


 七緒がもう一度深く頭を下げ、消えるようにその場を去ると、寿桂尼は憂いを含んだため息をついた。


「七緒の申す通り…あの子が覚悟を決めたのは、喜ぶべき事の筈。だと言うのに…どうした事でしょう、この胸騒ぎは…。」


 それは、今川の陰の実力者と恐れられるには余りにも頼りない…純粋に孫娘を心配する老婆のような後ろ姿だった。

三河一向一揆の背後に今川がいた――という証拠は現状一切ございません。

そもそも反乱の勃発自体、偶発的な衝突がきっかけだったとされているため、事前にどこかの勢力が扇動するといった工作を仕掛けるのは難しかったと思われます。

ただ、元康に反旗を翻した寺院が数か月に渡って籠城戦を続けている事から、平時から武具兵糧を蓄えていたのは間違いないだろう、と解釈しました。

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