#155 うたかたの磯に寄せたる波しぶき岩に当たりて露と消えなむ
今月(2024年10月)に入ってから、一日当たりのPV数が10倍に上昇し、ブックマーク数も増加、評価ポイントが追加された事で、各種ランキングの上位に入る事が出来ました。
大勢の方に拙作を読んでいただき、評価していただいて、誠にありがとうございます。
このタイミングで投稿する内容がコレってどうなんだ、と自分でも思いますが、以前からの行程に従って投稿させていただきます。
いつかやって来ると分かっていても、実際にやって来ると憂鬱になるものは確かに存在する。
例えば、ようやく取れた休日の午後5時頃、そろそろ明日の仕事について考え始めないといけない時間帯、とか。
…もっとスケールの大きい話をするなら、今川と岡崎松平の間で曲がりなりにも進められていた和睦交渉の行方について。氏規兄さんと紫吹殿を屋敷にお迎えしてから間も無く、交渉の不調が表面化し始め…7月に入るかどうかといったタイミングで完全に決裂した。
もっとも、五郎殿はそれほど落胆した様子でも無かった。それどころか交渉決裂を見越して軍勢の動員を開始しており、交渉決裂から間を置かずに三河国に攻め込んだのだ。
そうした準備のかいもあってか、今回の出陣は結構長くなった。
留守居役の家臣達の噂話によれば、五郎殿は事前に米を買い付けておいて7月分を補い、8月以降は現地での乱暴狼藉や禁制――つまり『痛い目に遭いたくなかったら銭で安全を買え』というシステム――を活用して、雑兵足軽を食わせていく算段だそうだ。
…三河国の百姓農民が犠牲になる計画を聞かされても、私は何もしなかった。その計画を否定するのであれば、遠征軍の補給を代わりに引き受けなければならなかったから。
幾ら私が駿河で一二を争うお金持ちでも、ポケットマネーで一万を超える軍勢の面倒は見切れなかった。仮にそれだけの資産があったとしても、お米の絶対量が決まっている以上、強権と大金に物を言わせて兵糧を買い占めれば、駿河国全体でコメ不足が発生する事は目に見えていた。
だから私は、少なくとも駿河国の領民と、五郎殿が率いる軍勢は飢えずに済んだのだと、自分を納得させるしか無かった。
そして冬の寒気が迫りつつある10月、凶報はやって来た。
今川家、そして関口刑部少輔家の立て直しのカギとなる事を進んで受け入れた、頼もしい『後輩』――関口紫吹殿が病に倒れたのだ。
「紫吹殿の容態は?」
急報に居ても立っても居られず、日中のスケジュールをドタキャン…したいところをグッとこらえて、翌日に氏規兄さんの屋敷を訪れた私は、応接間で兄さんに問いかけた。
下座で応対する兄さんは、いつもの無表情だったが…強い不安に苛まれている事くらいは、それなりに付き合いの長い私には分かった。
「まずは礼を申す。名医、臼川越庵先生を連れて来てくれた事…子細は先生の見立てを待つ他無いが、恐らく風邪をこじらせたのであろう。水垢離が仇となるとは…。」
「水垢離?」
屋外で水をかぶって、神仏に祈りをささげるアレ?よりにもよって、めっきり寒くなって来たこの時期に?
そんな私の副音声を聞き取ったのか、兄さんは悔しそうに頷いた。
「御屋形様が三河にて長陣に及びし事、紫吹殿は日頃より気にかけておった。わしは御屋形様の勝報と地図を突き合わせて、お味方優勢と説いておったが…御屋形様の采配を誹る戯言が耳に入ったらしい。夕餉の席で、自分に出来る事は無いかと悩んでおった。翌朝には熱を出し床から起き上がれず…問い詰めた所、夜中に水垢離をしたと。」
紫吹殿のやる気や責任感が完全に裏目に出た。舌打ちやため息をグッとこらえて、片手で額を覆う。
気持ちは分かる。
私だって五郎殿の遠征が成功しますように、と、今川家と縁が深い寺社に参拝したり、祈禱をお願いしたりしている。けれど、それより水垢離のような体を張った行動の方が効果がありそうなのも確かだ。
私は転生時に『神様』にお世話になったものの、その能力に限界があるものと考えていたから、体調を崩すリスクを冒してまで祈りをささげよう、という発想には至らなかった。
けれど、心底真面目に関口刑部少輔家と今川家の将来を憂いていたからこそ…紫吹殿は水垢離に踏み切ってしまったのだろう。
そして意地の悪い事に、こーいう時に限って『潮風のお告げ』は氏規兄さんに何ら警告を発しようとしなかった。
「臼川越庵、只今戻りましてございます。」
氏規兄さんと揃って廊下を見ると、越庵先生が正座し、白髪交じりの頭頂部を向けていた。
「先生、いかがであろう。奥の容態は…。」
氏規兄さんの問い掛けに、越庵先生は顔を上げると、その目に剣吞な光を宿して口を開いた。
「お二人とも、奥方様の部屋にはお近づきになりませぬよう。発熱、嘔吐、咳…相当厄介な風邪に取りつかれたものとお見受けします。このままでは粥や薬はおろか、水も飲めず…衰弱の一途を辿るかと。」
「打つ手なし、という事にございますか?」
語尾の震えを隠し切れないまま私が質問すると、越庵先生は首を横に振った。
「鍼にて気の昂りを鎮め、胃の腑を落ち着かせた後であれば、水や粥、薬も喉を通るかと。そこから先は…奥方様の地力と、風邪との根比べになるものと存じます。」
まだ望みはある。越庵先生の診断をそう解釈した私は、今すぐ紫吹殿のもとへ駆け付けたい気持ちを必死に抑えて、これからの方策を練った。
「…越庵先生。紫吹殿が回復するまで、お弟子様を数人こちらに寝泊まりさせる事は出来ますか?」
「無論にございます。ただ、相応の銭は頂戴いたしまするが…。」
「構わぬ。奥の病を治すためとあらば、わしが支払おう。」
氏規兄さんが即決で治療費の負担を明言してくれたのを幸い、私は上座から立ち上がると、玄関に足を向けた。
「では先生、紫吹殿への鍼と、お弟子様の手配をお願いします。私は他に出来る事を為すため…先に屋敷に戻ります。」
そう言い残して。
“あのさぁ…確かに前回無断でここに連れて来たのはこっちだよ?だけどまさか、死後の世界に自分から飛び込もうとか、普通考える?”
どこまでも続く暗闇の中、ふよふよと浮かぶ光の玉から呆れたような声が聞こえる。
ここは私が前世から転生する時に通った異空間、光の玉は自称『神様』だ。
屋敷に戻った私が百ちゃんに頼んだのは、私の魂が『神様』のいる異空間に行けるよう、手伝ってもらう事だった。
私の魂をこの空間から引き戻す事が出来た百ちゃんなら、その逆も可能なのではないかと踏んだのだが、百ちゃんは中々首をタテに振ってくれなかった。
「御自ら幽世に踏み入るはあまりにも危うい事にございます。わざわざ御前様が赴かずとも、わたくしが…。」
「薬師如来様に直訴して、紫吹殿の天命を改めていただきたいの。本当に危ういとなったら、現世に引き戻して頂戴。紫吹殿の天命が尽きる前に、早く…。」
私がしつこく頼み込むと、百ちゃんは渋々『臨死体験』の準備を始めてくれた。
私は私で、体や髪の毛を洗い清めたり、歯磨きをしたり、白無垢に着替えたり…と身なりを整え、百ちゃんが注連縄とロウソクで囲った寝床に入ってお酒を飲み、目を閉じる。
そして百ちゃんがロウソクの先端に火を点け、私の周りをグルグル回りながらよく分からない言葉をつぶやいている内に意識が遠のき――無事『ここ』にやって来られた、という訳だ。
“いや、全然無事じゃないからね?頻繫に幽体離脱してると魂が肉体から離れやすくなるし、現世と幽世の境界が曖昧になって見えたらヤバいものまで見えるようになっちゃうから。帰って、可及的速やかに。ASAP。”
「どうかお許しを。関口伊豆守が娘、紫吹殿の天運が尽きかけております。私に出来る事であれば如何様にもいたしますゆえ、何卒紫吹殿の病を祓っていただきたく…。」
誠心誠意、頭を下げて懇願する。
紫吹殿の命が助かるなら、これまで積んできた『功徳 ポイント』や私自身の寿命を消費しても構わない。その覚悟でここに来たのだ。
“…キミの覚悟はよく分かった。けれど…その頼みを聞き入れる事は出来ない。”
「なぜ…!」
“歴史の修正力…ってやつだよ。関口紫吹は若くして命を落とす。これは確定事項だ。仮にキミが代償を支払って今回の災厄を退けても…また別の災厄が彼女の命を脅かす。そのたびに『ここ』に来ていたら…今度こそキミに出来る事はなくなる。”
「…じゃあ…じゃあ…!」
取り繕っていた本音があふれ出すのを自覚する。
そもそも『神様』は私の心が読めるので、少しでも好印象を持ってもらおうと思えばこそ、バレバレの猫をかぶっていたのだが、それさえ出来なくなりつつあった。
「なんで、どうして…今!よりにもよって、紫吹殿が!死ななくちゃいけないのよ⁉あんなに若いのに、自分の立場をしっかり理解して…嫌いな物も食べられるように頑張って…氏純殿の仕事も手伝って!…私なんかに憧れて、くれて…。」
嬉しかった。
紫吹殿がキラキラした目で、私のあれやこれを褒めてくれて…報われたような気がした。
所領の年貢減免交渉や、株主総会に家中の揉め事仲裁…ルールや公平性を重視する限り、不平不満を持つ人が一定数出て来るのは仕方ない。そういう人達が、私の陰口を叩いたり、業務妨害をしたりするのも、ある程度やむを得ない事だと割り切っていた。
五郎殿、百ちゃんを始めとした側付きのみんな、寿桂様といった理解者がいるから我慢できた。
でも、いやだからこそ。真正面から私を肯定してくれた紫吹殿が、このまますくすく成長してくれるものだと…してほしいと願っていたのに…。
“…もう帰りなさい。今回の術は、もう使わないように。用がある時はこっちから呼ぶから。”
心変わりの兆しすら見せない『神様』の声に無力感を抱きながら、現世に戻る時の浮遊感に身を任せる。
“関口紫吹を助けるために、命の危険を冒してこんな所にまで来た…その勇気に敬意を表して、少しだけエールを送らせてもらうよ。”
「え…?」
“関口紫吹の魂は、近い将来別人に転生を果たす。キミのすぐ近くで。ただし…記憶と人格が初期化された、赤の他人と言っても過言じゃない状態だ。”
「!…名前は、性別は?今度は長生きして、幸せな一生を送れる⁉」
すがりつくように問いかけると、『神様』が少し笑ったような気がした。
“それを知りたければ…キミは長生きする事だ。くれぐれも命を粗末にしないように。…それじゃ、またいつか。”
夕陽が差し込む自室で目覚めた私は、百ちゃんにお礼を言ってから、いつもより早めの夕食を用意するよう厨に頼んだ。
半分は百ちゃんのアドバイス通り、現世の魂を現世の食物で繋ぎ直すため。もう半分は無理矢理にでも食べて、とっとと寝て…明日からの仕事に支障が出ないようにするため。
可愛い後輩が重篤だから、という理由『程度』では、今川の御前様は休めないのだから。
いつかやって来ると分かっていても、実際にやって来ると憂鬱になるものは確かに存在する。
長い闘病生活の末、紫吹殿は息を引き取った。
五郎殿が三河国における今川の勢力圏を大きく回復し、駿府に凱旋した…数日後の事だった。
念のため申し上げますと、作中の幽体離脱法は筆者の妄想、出鱈目、でっち上げですので真似しないでください。
恐らく素人がやっても酔って寝起きするだけで終わると思いますが。
関口氏純の次女については、最近になって存在していた事が判明した程で、本名はおろか正確な生没年すら分かっていません。
ただ、妹の輿入れに先んじて駿府に入った氏規が、ある時期を境に小田原に戻っている事実から、『妻が死んだため実家に戻った』あるいは『実家に戻るため離縁した』との見解が示されています。