#152 獅子吼に震えよ井中の蛙
直近の投稿で『いよいよ今川氏真と松平元康が雌雄を決する…‼』みたいなムードを醸し出しておいてなんですが、ここで一旦小康状態に入ります。
永禄5年(西暦1562年)5月 三河国 岡崎城
その日の朝、岡崎城の主たる松平蔵人佐元康は、二人の客を迎え入れた。実の母――人呼んで於大の方――と、その兄、水野藤四郎信元である。
表向きの訪問理由は、先だって駿府より迎え入れた元康の長男竹千代――於大の方には孫に当たる――の機嫌を取るためであり、於大の方はそのまま竹千代がいる奥の間に通された。
しかし信元はそれに同行せず、元康やその近臣と共に応接間に入る。
「せっかく城下に広々した屋敷を構えたってえのに…竹千代君の面倒は城内で見てんのか、ああ?」
入室するなり城主より先に下座に腰を下ろし、まるで客とは思えないふてぶてしさを露わにする信元に、元康は勿論、同席していた酒井左衛門尉忠次も、本田弥八郎正信も眉をひそめた…が、口を開く事は無かった。
水野信元の肩書は、『松平元康の伯父』だけではないのだから。
水野信元は、俗に言う国衆の頭領である。しかしながら、その立ち位置と影響力は、諸国一般の国衆と一線を画している。
信元の所領は尾張国の南端――いわゆる知多半島――と西三河にまたがり、これがために、知多湾の水運を掌握している。つまり、水野を味方に引き入れられるかどうかで、尾張と三河の国境における有利不利がガラリと変わるという訳だ。
岡崎松平の先代当主、広忠は、織田信長の父、信秀に対抗すべく信元の父、忠政と盟を結び、その証として於大の方を妻に迎えた。その間に産まれた嫡男こそ、松平元康である。
しかし、忠政が病死すると、水野の家督を継いだ信元は織田への鞍替えを選択。それを証明するかのように於大の方は広忠と離縁する事となった。
またも状況が動いたのは天文23年(西暦1554年)、織田信秀の病死から2年後の、村木合戦である。
尾張勢の切り崩しを狙った今川義元は、一隊を知多半島に上陸させ、水野信元の本拠地である緒川城の眼前に村木砦を築かせた。
順次増援を送り込み、信元に圧力をかけて寝返らせる――という算段だったのだが、目論見を看破した信長がイチかバチかの短期決戦に打って出て、水野勢と共同で村木砦を陥落させたために、今川の計略は水泡に帰した。
これ以降、水野信元は信長の配下として、今川勢との交戦を繰り返すが、根気強く続けられる今川の調略をはねのけようとはしなかった。
敵味方の双方に顔を売っておき、情勢が変わればすぐに鞍替えする。それが境目の国衆が生き残る道だと、確信していたからだ。
『その時』が訪れたのがちょうど2年前、桶狭間合戦の事だった。
今川家中、鵜殿長照が籠る大高城の包囲を解くべく、今川義元率いる大軍の先鋒――その一隊を指揮したのが他ならぬ元康だった――が織田の付城を力攻めで攻略。これを見た信元は包囲環の一翼を担っていたにもかかわらず、素早く手勢をまとめて自領への撤退を開始したのである。
織田への明白な裏切り行為だったが、信元の良心はカケラも痛まなかった。このまま今川に帰服すれば、没落に向かう織田からの苦情など、雑音の域を出ないと信じて疑わなかったからだ。
だが、事態は思わぬ方向に急転する。天運を味方につけた信長の強襲が功を奏し、『海道一の弓取り』、今川義元が討死したのだ。
そこで信元は慌てず騒がず、信長に書状を送った。
『此度の戦勝、慶賀の至り。千秋四郎殿、並びに佐々(さっさ)隼人正殿と談合の上、緒川まで兵を退き、向後に備えていた所、お味方大勝と聞き、功を成す機を逃したかと切歯扼腕して候。これより三河へお討ち入りの際には、是非とも当方を先手に任ぜられたく候。』
今川への寝返りを『無かった事』にした上、戦線離脱の責任を死人に押し付け、涼しい顔で織田への従属を継続すると表明したのである。
果たせるかな、信元の読みは当たり、寝返りを咎められるどころか三河侵攻において重く用いられる事となった。
そして、北(美濃国)と東(三河国)に大敵を抱える信長と、駿河国からの増援を得られない元康との和睦を仲介。これをもって、信元は事実上松平から織田への取次役となった。
つまり、信元の報告次第では、松平と織田との和睦が破れ、岡崎が東西に敵を抱える事態にも陥りかねないのである。
それゆえに、岡崎城内の面々は元康から末端に至るまで、信元の言動に神経を尖らせていた。
「只今、奥(瀬名)が屋敷の装いを整えているとの事で…遠からずそちらに移す事になるかと存じます。」
なぜ城下の築山邸で竹千代を養育しないのか、という信元の問いに、元康は慎重に言葉を選びながら答えた。
信元の疑問はある意味、元康が抱いたものに近かった。3月に鵜殿長照の遺児2名と竹千代を取り交わし、岡崎へと連れ帰った時、瀬名が岡崎城内ではなく築山邸で竹千代を養育すると主張するに違いないと、元康は頭を悩ませていたのだ。
しかし数日後、不気味なほどに落ち着いた雰囲気で登城した瀬名は、思いも寄らない提案を口にした。
『今の築山邸は、岡崎松平の嫡男がお住まいになるには装いが不相応にございます。遅くとも秋までには装いを改めますので、それまで堅固な岡崎城にてお守りいただきたく。…それから、わたくしどもの生計について、でございますが…近々城下の商人と相談の上、株札を用いた蓄財を試みる所存。上首尾に運べば、殿の懐をいたずらに騒がせる事も無くなるかと存じます。』
築山邸の改装が終わるまでは竹千代の養育を任せる、自分の生活費は自分で稼ぐ、と…思ってもみなかった提案に、元康は何度も目を瞬きながら頷いた。
なぜ急に人が変わったようになったのか…。
「ふん、まあいい。それよりも、織田殿から下知を頂戴した。…心して聞け。」
信元の言葉に、元康は強引に意識を切り替えて耳を澄ませた。
忠次と正信も、息を吞んで信元の発言を待つ。
「蔵人佐。今川と和睦が出来ねえか、やってみろ。どうにもならなくなるまでは、今川方との不用意な戦は避けろ。」
「⁉な、何を…⁉」
元康は表情筋の制御すら覚束ない程に取り乱した。
一足早く落ち着きを取り戻した忠次が、にらみつけるような上目遣いで問いかける。
「恐れながら藤四郎殿。我ら岡崎衆は織田への誠意の証として、今川と手を切り、東に兵を向けて参りました。それを今度は、今川とも和睦せよ、とは…何か尾張勢の美濃攻めに不都合でも…?」
「ヘタな探りはよしな、左衛門尉。美濃攻めは至極順調よ…それが虚言って証でもあんのか?」
平然と問い返されて、忠次は沈黙する。尾張国や美濃国に信頼できる情報筋を持たない岡崎松平は、信元を介して入って来る情報を信じるしか無いのだ。
「聞きてえのはこっちだ左衛門尉…北条左京大夫(氏康)から書状が届いてるハズだ。公方様(足利義輝)の仲介に応じて今川と和睦しろ、さもねえと今川に加勢して三河に攻め入る…ってなあ。」
忠次が反射的に主君に目をやると、元康は首を小さく横に振った。
「当たりか…大したこっちゃねえ、俺の所にも届いたのよ…左京大夫の書状がな。」
「そ、それは重畳…明日評定を開き、左京大夫殿の勧告に応じるか否かを家中に諮ろうと…。」
「評定は無用だ。さっき言った通り、和睦が出来ねえか試してみろ。秋口までで構わん。」
発言を遮られた元康は、岡崎松平の方針を頭ごなしに決定するかのような信元の言い草に立腹しながらも、その背後に見え隠れする織田信長の影に怯え、口をつぐんだ。
代わって顎を突き上げ、信元を見下すようにしながら口を開いたのは正信だった。
「流石に境目の狐殿は鼻が利きまするなぁ…三河の虎が衰えれば尾張の虎に、尾張の虎が衰えれば駿河の虎に擦り寄り…此度は相模の獅子にまで――」
「吠えたいだけ吠えろ、軍師気取りの小倅が。一手の大将を務めた例も無えくせに…俺が狐なら、手前は負け犬よ。」
信元が平坦な声色と共にじろりとにらむと、正信は仏頂面で押し黙った。
「大方、越後勢との戦に忙しい北条は今川の加勢に大軍を出せねえ、と踏んでるんだろうが…この際兵の多寡は問題じゃねえ。万が一、隠居の左京大夫が兵を率いて来やがったら面倒な事になる。相模勢が五千もいりゃあ…岡崎も落とされるかも知れねえ。」
「まさか…。」
自分達を脅かすための過大表現だろうと解釈した元康が力なく笑うと、信元は不機嫌を隠そうともせず鼻を鳴らした。
「河越夜戦の経緯くらい、聞いた事はあんだろう。味方の何倍もの敵兵が城を取り囲んでるって所に、左京大夫は自ら手勢を率いて夜襲をかけた。たった一戦で何万もの軍勢が雲散霧消、北条は名実共に坂東一の大大名に成った…今の織田殿と同様にな。」
この場にいる誰もが知り得ない事ではあったが、河越夜戦における北条の大勝は、事前の工作と幾つかの幸運が積み重なった結果でもあった。
しかしながらそれを差し引いても、数か国の主が文字通り陣頭に立って刀を振るい、兵力面の劣勢を覆したという点は桶狭間合戦の織田信長に通じるものがあった。
(それほどの猛将が、万が一今川に加勢すれば…。)
粟立つ腕を隠すように腕を組み、生唾を吞んだ元康の内心を見透かすように、信元はもう一度鼻を鳴らした。
「まあ、いつまでも今川の都合に合わせていられるほど北条もヒマじゃねえ。今度の脅しも、小田原を越後勢に囲まれた時の後詰の借りを返す…って所だろう。つまりだ、是が非でも和睦しろって訳じゃねえ。体裁だけ整えて、左京大夫の顔を立ててやりゃいい。左京大夫が和睦の仲介を申し出た以上、今川も当面は攻め入って来ねえだろうしな。」
「…承知仕りました。伯父上の仰せの通りに。」
元康は、自分が立ち入る事の叶わない高みで勝手に物事が決まっていく現状に歯噛みしながら、表面上は冷静を装って、そう返事をした。
こうして岡崎松平率いる『反乱軍』と、氏真率いる今川家は一時的な休戦状態に入る。
時は永禄5年5月。
今川義元の三回忌法要を、間近に控えての一幕だった。
桶狭間の戦いにおいて水野信元が重要な役割を果たした、という説は筆者のオリジナルではなく、早ければ20年以上前に藤井尚夫先生が主張されたものです。
桶狭間合戦については近年に至るまで新発見もありましたが、藤井先生の説は大筋では説得力を失っていないと感じます。
信元の選択はこの時点では満点回答でしたが、十数年後どうなったかというと…答えは検索エンジンで分かっていただけると思いますので、筆者としてはそこに至る経緯を描写していく所存です。