#150 駿三人質交換
松平竹千代(のちの信康)と鵜殿長照長男次男との交換に関しては、松平と今川のどちらが先に申し出たのか等諸説ありましたので、自分が納得できる折衷的な解釈を採らせていただきました。
永禄5年(西暦1562年)3月 牛久保城
「御屋形様、お耳に入れたき儀がございます。」
未だに寒々しい日差しが東三河の国境を照らす、昼日中の事。
城内本丸に建てられた城主の館、その中庭で巻藁一束を前に抜き身の太刀を構え、型を取り、素振りを繰り返していた今川氏真は、突然かけられた声に切っ先を下ろし、ゆっくりと振り返った。
衣服をはだけて露わになった上半身から、うっすらと湯気が立ち昇っている。
「備中守か。いかがした。」
問い返された今川家臣、備中守――朝比奈泰朝は、縁側に膝を突き、厳かに口を開いた。
「岡崎松平が家中、石川与七郎(数正)殿が、竹千代君をお連れして戻りましてございます。」
「鵜殿藤太郎(長照)の遺児…新七郎、藤三郎との取り交わしは明日正午であったな。」
氏真が腰の鞘に納刀しながら確認すると、泰朝は「相違ございませぬ」と首肯した。
「当家と岡崎松平との境目の村にて、取り交わす手筈にございます。」
「境目…か。」
思わせぶりに呟く主君に物怖じする事なく、泰朝は氏真をじっと見据えた。
「御屋形様の無念、察するに余りありまする。折角のお骨折り、岡崎松平の謀のために徒労に帰するとは…。」
「言うな。…儂は岡崎松平の、蔵人佐の覚悟を見誤っておった。それまでの事…。」
西の空を見上げる氏真の背を見つめながら、泰朝は先月以来の紆余曲折を反芻した。
氏真の三河遠征に合流するよう遠江国掛川――泰朝の所領に陣触れが出たのは、正月下旬の事だった。
すかさず領内の村々に触れを出し、兵員と武具兵糧を所要の水準まで確保。
2月に入って早々、氏真が率いる軍勢を自身の城に迎え入れた泰朝は、これに参陣した諸将の顔触れに、今川義元と最後に出陣して以来の緊張を覚えた。
御一家衆の中でも屈指の権勢を誇る葛山氏元を始め、今川家中の重鎮が勢揃いしていたのだ。
「御屋形様は公方様の御内書を盾にして、蔵人佐を陣中に引きずり出し、我らの面前で詫びを入れさせて、駿府の嫡男(竹千代)と首をすげ替えるお積もりじゃ。」
行軍の最中、陣中ではそんな噂がまことしやかに飛び交っていた。
泰朝はと言えば、すっかり厄介者扱いになってしまった元康に多少の同情はあったものの、それが現状唯一の落とし所だろう、と淡白な感想を抱いていた。
桶狭間合戦以降、岡崎松平が強いられた苦境についてはある程度把握している。自分が同じ立場であれば、やはり織田への鞍替えを選択したかも知れない。
だが詰まる所…元康の決断は謀反に他ならない。であれば、再び二つ引両の旗に膝を屈するか、本丸まで押し詰められて腹を切るまで攻め立てられても仕方が無いのだ。
それを踏まえれば、氏真の差配は穏当と言っても過言ではない。元康は明日をも知れない身の上となるが、竹千代を新たな当主に据える事で、岡崎松平家の断絶は避けられるのだ。
勿論、その方が今川にとって余計な手間を省けるという損得勘定はあるが、恥も外聞も無い寝返りの末に親子共々処断された山口某のような先例に比べれば、遥かにマシだ。
…雲行きが怪しくなったのは、今や三河国における最重要拠点となった牛久保城に到着した頃だ。上之郷城の陥落と、城主鵜殿長照の自害…そして長照の遺児二名が岡崎松平の捕虜となった事が全軍に知れ渡ったのだ。
当然、評定が開かれ、氏真と主だった武将とで対応を協議する運びとなったのだが…これが大いに揉めた。
葛山氏元を中心とした一派は、謀反人との取り交わしに応じては今川の武威に傷がつく、元康が降伏するまで攻め立てるべきだ――と主張。
対して、桶狭間合戦で討死した将の跡を継いだ若手達は、長照の遺児達が生き恥に耐えられずに自害を選んでからでは遅い、直ちに人質交換に応じるべきだ――と反対意見を表明した。
泰朝も、後者に賛同の声を上げている。
争論の末に裁可を求められた氏真は、諸将の顔をゆっくりと見渡しながら問いかけた。
「いずれの申し分ももっともである。されば…藤太郎は一命を投げ打って今川への忠節を顕してくれた。その子らを粗略に扱うては、藤太郎に申し訳が立たぬ。儂は新七郎、藤三郎を取り返す事で、藤太郎の忠節に報いたい…如何に?」
城を枕に討死するという、ある意味では最大級の武功を挙げた鵜殿長照の名を前面に押し出されて、氏元達は人質交換に同意せざるを得なかった。
かくして、人質交換の日時と場所の打ち合わせ、松平竹千代を駿府から護送する御守役――岡崎松平家中、石川与七郎数正――の誘導と、さしたる問題も無く準備は進み…後は明日、岡崎松平と今川との勢力圏の境界線上に位置する村で、長照の遺児二名と竹千代を取り交わすのみとなっている。
「新七郎、藤三郎の両名をお救いなされました事、今川の御屋形様の名に恥じぬ振る舞いと感じ入りましてございます。きっと両名もこの恩を終生忘れず、元服の暁には御屋形様の手足となりましょう。」
腰に提げていた竹筒から喉を鳴らして水を飲む氏真に、泰朝はつとめて明るい口調で言った。
おべっかと言うよりは、岡崎松平との和睦が失敗に終わり、落胆しているであろう主君を励ましたいという気持ちが強かった。
「…お主らが功を成す機を無碍にしてしもうたは、申し訳なく思うておる。」
氏真の言葉に、泰朝は主君の聡明さを改めて認識すると共に、岡崎松平への苛立ちを一層強めた。
武士が日頃から武芸に励み、武具兵糧を調えるのは、言うまでもなく主君の命に何時でも応え、死地に身を投じる覚悟を有するがためである。
だが、馬上一騎の馬廻や累代の家老ならともかく、氏元のような国衆や一城の主ともなると、主君の陣触れに無制限に応える訳にはいかなくなる。支度と軍功に相当する報酬を得られない、という事態が続けば、自身の領国経営に支障をきたすからだ。
氏元らが岡崎松平との交渉に難色を示した一因も、これだけの大軍を催しながら、実質ろくな戦果も無く引き返すという氏真の決断を承服しかねたという面がある事は、泰朝にも理解できた。できたからと言って、同調するかどうかは別の話だったが。
「されど此度の事でよく分かった。最早兄弟も同然などという甘えは許されぬ。」
顔を上げた泰朝の視界に入ったのは、腰を落とし、両足を前後に開き、左手を太刀の鞘に、右手を柄に添えて、巻藁を見据える――抜刀居合切りの構えを取った氏真の姿だった。
「次に戦場で相見えた折は…必ず蔵人佐の首級を挙げる。」
言うが早いか白刃が閃く。刹那、振り抜いた姿勢から素早く足を揃え、背筋を伸ばした氏真は、無駄のない所作で再び納刀した。
巻藁は、数瞬前と変わりなく立っているように見える。
「わざわざここまで大儀であった。明日の取り交わしには、お主も同陣するのであったな?」
「ははっ。竹千代君と新七郎、藤三郎との取り交わし…つつがなく終わりますよう微力を尽くしまする。」
泰朝の返答に満足気に頷くと、氏真は巻藁を背に、中庭を後にした。
氏真の足音が遠ざかるのを待って、泰朝は縁側から中庭に降り、巻藁の上端を持って軽く押した。案の定と言うべきか、巻藁は何の抵抗も無く真っ二つに折れ…綺麗な断面が露わになる。
それは、相応の腕前を持つ剣客が、よく手入れされた太刀を迷いなく振り抜いた結果を如実に物語っていた。
「お見事。」
心の底からの称賛を口にしながら、泰朝は思考を巡らせる。
今川義元の討死以来、今川家は揺れ続けている。明日にでも牛久保城が落ち、遠江国までも脱落する――という段階には程遠いが、現状を『盤石』などと評する者は無能か佞臣の烙印を押されて然るべきだろう。
それと言うのも、『三州錯乱』が勃発して一年が経過して尚、『たかだか』三河半国の謀反を鎮圧できずにいるためだ。
…もし岡崎松平の武威が東三河まで及ぶ事になれば、次は遠江の国衆が去就を明らかにしなければならない。無論、掛川城主たる泰朝も。
「されど…。」
独り言ちる泰朝の脳裏に去来するのは、沼津代官を務めた日々の記憶。正体不明の流行病に右往左往するばかりだった自分をすくい上げてくれた、御前様の面影。
『それ』は恋慕の情と言うよりは、尊崇の念と呼ぶに相応しい感情だった。
「武芸軍略に秀で、東海三か国の主に相応しい威風を放つ御屋形様は日輪…奥向きより領国領民の暮らしを支える御前様は月輪…お二方が手を取り合って今川を盛り立てる様を見て、拙者は命尽きるまで忠節を尽くさんと心に誓った。なれば…」
刹那、白刃が巻藁の下半分を斜めに切り裂いた。やがて自重で地面に落ちる残骸を見下ろしながら、泰朝は振り抜いた打刀を納刀する。
「拙者の身上、そして掛川は、最後まで御屋形様に付き従おう。蔵人佐殿が生きて血筋を残すとあらば…拙者は死して名を残そう。」
泰朝は自らを縛る誓いを立ててから、岡崎に通じる西の空を見据えた。
「昨日の友は今日の仇…覚悟召されよ、蔵人佐殿。」
翌日、事前の合意に則って、東三河某所で人質交換が実施される。
岡崎松平は元康の嫡男という最大の弱点を克服したものの、直後に野田領の富永城を今川に攻略され、出鼻をくじかれる格好になった。
氏真と元康、双方の思惑がすれ違い、事態は混迷を極めていく…。
筆者は日本刀にも剣術にも詳しくないのですが、かなりの実力者でも巻藁を綺麗に両断するのはほぼ不可能だろう――という現実を承知の上で本編を書きました。
氏真の腕前を強調する演出と捉えていただければ幸いです。