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#149 百ちゃん東奔西走

今回のエピソードを誰の視点から書くか迷ったのですが、肝心の上之郷城攻防戦の経緯について説得力のある解釈が見つけられなかったため、だいぶアッサリした描写になりました。

より重要な、主人公やその周辺の人々の命運に関わるような合戦については、想像力を駆使して描写に挑む所存です。

永禄5年(西暦1562年)2月4日 駿府館


 駿府館に氏規(うじのり)兄さん――私のすぐ上の兄であり、関口(せきぐち)刑部少輔(ぎょうぶのしょう)氏純(うじすみ)殿の婿養子でもある北条(ほうじょう)助五郎(すけごろう)氏規――が駆け込んで来たのは、五郎殿が準備万端遠征の支度を整え、三河国に向けて出陣した翌々日の昼下がりだった。


「火急の御用につき、一刻も早く御前様にお目通り願いたく!」


 兄さんの来訪を知らされた時、私は日常業務の真っ最中であり、付け加えるとそこそこ大事な会談を控えていた。

 が、しかし。そのスケジュールを全て後回しにしてでも、氏規兄さんと面会する道を私は選んだ。

 氏規兄さんは文武に秀でた秀才だが、本当に戦国武将かと疑われるくらい自己顕示欲に乏しく、自身の才能や成果を自慢する事はほとんど無い。そんな氏規兄さんが、事前のスケジュール調整も無しに駿府館に押しかけるなんて…どう考えても緊急事態である。

 書類整理と、当初の会談相手へのご機嫌取りを侍女達に指示すると、私はどたどたと足音を立てないよう細心の注意を払いながら、早足で自室へと向かった。


「恩に着る。よくぞ来てくれた。」


 自室に入るや否や、下座で胡坐(あぐら)をかいていた氏規兄さんが素早く平伏した。


「兄上が火急の御用と申されるからには、余程の事と思いまして…早速、お伺いしても?」


 上座に腰掛けて促すと、氏規兄さんは躊躇なく口火を切った。


「先刻、潮風の声を聞いた。『岡崎松平に(はかりごと)あり。鵜殿の太郎と次郎、竹千代と引き換えん。上之郷(かみのごう)を攻むるは御内書を(いただ)く前』…。」

「蔵人佐(元康)殿が上之郷…鵜殿藤太郎(長照)殿を攻め滅ぼして、そのお子らを人質に、竹千代君との人質交換を迫る積もりである、と…今川との和睦を命ずる御内書が届く前に。…そう解してよろしゅうございますか?」


 突然沸き上がった焦りを押し殺して聞き返すと、兄さんは無言で頷いた。

 まずい事になった――と私は頭を抱えた。

 室町幕府の、ではないにしろ今川、武田、そして北条の軍事力を裏付けにした御内書が届けば、さすがに元康殿も今川と和睦せざるを得ないだろう、というのが五郎殿の見立てだった。それは裏を返せば、元康殿が今川に対する軍事行動を起こすなら、御内書が届く前しかない、という事だったのだ。

 まず前提として、『潮風のお告げ』の的中率は極めて高い。いちいちポエミーで不吉な予言が多く、対策やアフターケアの無い不親切設計だが、何もしなければ十中八九実現するだろう。

 鵜殿長照殿は義元殿の代から頼りにされている三河の国衆だから、当人は勿論、その子供達の命がかかっているとなれば、五郎殿や家臣団も頭から人質交換を拒否する事は出来ないはずだ。

 何故御内書の件が岡崎に漏れたのかは…考えてもしょうがないだろう。こっそりとは言え三条西殿が上洛したり、足利義輝公に根回しをしたりと動き回っている以上、目撃証言や関係者の噂話から五郎殿の思惑を看破する人間が岡崎城内にいてもおかしくない。現に私だって、京に在住していた山科(やましな)言継(ときつぐ)卿から今川と松平の和睦の可能性を知らされたのだ。

 それより問題は、このタイミングを狙ったんじゃないかと疑いたくもなる『潮風のお告げ』だ。

 一昨日、五郎殿が出陣する直前までだったら、実効力のある対策が取れたかもしれない。たとえば、五郎殿を介して上之郷城に警告を発するとか。

 しかし五郎殿は出陣済み。普通に手紙を出しても届くのに何日かかるか分からないし、細かい打ち合わせも出来ない。

 第一、あまりにも根拠不明な情報を提供して、五郎殿を混乱させたり、今川軍全体に迷惑をかける事になったりでもしたら、取り返しがつかない。

 どうしたものか――と唸っていると、氏規兄さんが再び口を開いた。


「手間をかけさせるが…御屋形様に(ふみ)を出してくれぬか。」

「しかし、何とお伝えしたものか…。上之郷城は藤太郎殿が守る堅固な要害。それがなにゆえ落ちるのかも分からないままでは…。」

「承知の上じゃ。それゆえ…わしではなく、お主の名を使ってもらいたい。」

「私の?」


 うろたえる私に、兄さんは力強く頷いた。


「お主が夢見にて先々を見通すとの事、御屋形様も重々承知であろう。それゆえ…藤太郎殿に危機が迫っていると、夢見の(てい)で伝えて欲しい。」

「されど、今から文を送っても、届くのは何時(いつ)になるやら…。」

「足の速い忍びに託すのはどうであろう。御屋形様の差配次第では、その足で上之郷に向かうよう命ぜられるやも知れぬゆえ、頭が切れ、腕も立つ者がよいのじゃが…。」


 中々の無茶振りに、私はまたも頭を抱え込んだ。

 提案自体はもっともだ。今川領内で郵便配達業務を担う『天馬屋』の速達サービスを利用すれば、手紙を進軍中の今川勢に届ける事自体は難しくないだろう。

 しかしそこに身分の壁が立ちはだかる。ペーペーの従業員では、五郎殿に直接手紙を届けられないのだ。

 じゃあ騎乗のプロである侍に託せばいいかというと、今度は届けた後が問題だ。

 兄さんの――表向きは私の――警告を、五郎殿が真剣に取り合ってくれたとして、次は上之郷城に警告を発する必要が出て来る。よって、今度は五郎殿の手紙を上之郷城に届けなくてはならないのだが…騎馬武者が追加任務を達成するためには、替えの馬で昼夜を分かたず駆け続ける事になるだろう。馬は五郎殿が都合をつけてくれるかも知れないが、舗装も整備もされていない夜道を、休み無く走るのは危険過ぎる。

 となると、夜目が利き、徒歩での走破性が高い忍びに託すのが上策…という事になるのだが…。


「足が速く、頭が切れ、腕が立ち…その上夜目が利き、御屋形様を始め家中のお歴々に顔を知られている忍びなど…。」

(はばか)りながら、ここに。」


 突然挙がった凛とした声に、私は反射的に斜め後ろを振り返った。

 そこには、いつもと変わらず自然体の、(もも)ちゃんが待機していた。


「いっ…。」


 いつから、と聞きかける寸前で私は踏みとどまった。

 百ちゃんは最初から側にいたのだ。私が午後のスケジュールをキャンセルして、自室に足を向けた瞬間から、片時も離れる事無く。

 あまりにも自然な動作だったため、違和感がゼロだった…。


「わたくしの足をもってすれば、明日には御屋形様に追いつけるかと。夜目にも自信がございます。陣中には御屋形様を始め、わたくしの顔立ちに見覚えのあるお方も多いものと存じます。」


 百ちゃんの自己アピールに、私は生唾を吞んだ。確かに条件はクリアしている、というかこれ以上の適役は多分いない。

 それでも素直に頷けなかったのは、百ちゃんが戦の最前線に向かってそのまま帰って来ないのではないかという、拭いがたい不安のためだった。

 昨年、竹千代君を誘拐しようと駿府に潜入したものの、返り討ちに遭って斬首された忍び達の様子が思い出されて仕方無い。


「結、頼む。」

「わたくしからも、どうかお命じくださいませ。」


 前後から頼み込まれて、遂に私は折れた。


「一つだけ。必ず生きて帰る事。それだけは守って頂戴。…すぐに文を調(ととの)えます。」


 前半を百ちゃんに、後半を氏規兄さんに言ってから、文机を引き寄せて(すずり)に墨を()く。

 兄さんの予知を五郎殿に端的に伝える文章を、頭の中で整理しながら。




 夕暮れを待たずして、百ちゃんは出かけていった。

 ガチガチの旅支度などせず、ちょっとそこまで野暮用で出かける風を装って。

 懐には私が託した五郎殿宛ての密書が入っていた。




 それから数日間、私は落ち着かない日々を過ごした。

 百ちゃんは無事に密書を届けられただろうか、五郎殿は予想通り上之郷城への伝令を百ちゃんに命じたのだろうか、上之郷城は元康殿の攻撃を受けたのだろうか、みんな無事に帰って来てくれるだろうか…。

 そんな心配事が一つ解消されたのは、百ちゃんを送り出してから4日後の、2月8日の事だった。




「只今戻りましてございます。お見苦しい姿をお目に入れ、申し訳ございません。」


 その日の朝、着替えやお化粧を侍女達にしてもらっている最中に、百ちゃんは全身泥まみれ、(ほこり)まみれの状態で庭先に現れた。

 侍女数人が短い悲鳴を上げ、副頭の雛菊が青筋を立てて怒鳴ろうとするのを、私は急いで押し留めた。


「まあまあ百、大変な事になって…『用事は済んだの』?」

「はい。届け先で『手のかかる用事を頼まれた』ため、遅くなりました。お梅様に申し開きいたします。」


 『五郎殿に密書を届けた』が、案の定『追加任務を命ぜられた』という事か。


「何はともあれ、無事で安堵したわ…申し開きの前に、体を洗って朝餉(あさげ)を摂りなさい。雛菊、お梅には私から言っておくから…。」


 百ちゃんは私のお気に入りだが、表面上とは言え服務規定に違反している以上、侍女頭のお梅による説教は免れない。それを理解してか、雛菊はわざとらしく鼻息を立ててから、私の身支度の指揮に戻ったのだった。




 そろそろお梅のお説教が終わった頃だろうか。

 ほとんど勘で見当をつけた私は、午前中のデスクワークに区切りを付けると、(はや)る心を抑えて自室に向かう。

 案の定と言うべきか、身綺麗になった百ちゃんが、下座に正座して待っていた。


「ご苦労様。少しは休めた?」


 直接手を取って脈拍を計測したい所を何とかこらえて、最優先事項を確認する。


「はい。お梅様も早目に説教を切り上げてくださいまして…ついては早速、事の次第を言上いたします。」


 百ちゃんの報告をまとめると次の通りだ。

 駿府を出発した翌日――2月5日には、遠江国を進軍中だった今川軍本隊に追い付き、やや強引に本陣に入って、五郎殿に直接手紙を渡した。

 手紙を読んだ五郎殿は、私の(厳密には氏規兄さんの)心配ももっともだと、すぐに長照殿宛ての警告文を書き、引き続き上之郷城へと配達するよう、百ちゃんに命じた。

 百ちゃんは休む間もなく上之郷城に向かい、さらに翌日――2月6日の午前中に到着した、が。

 時すでに遅く…上之郷城は戦火に包まれていた。

 本丸にまで敵が侵入している現状、下手な潜入は命取りになる。そう判断した百ちゃんは、長照殿への接触を諦め、城攻めに気を取られている攻城軍の情報収集に全力を注いだ。

 結果、判明したのは…上之郷城を攻めたのは元康殿ではなく、元康殿に味方する東条松平家の家老、松井左近と、岡崎城から加勢した本田弥八郎正信。

 松井左近が調略した家臣の手引きで上之郷城の防衛体制は呆気なく崩壊し、陥落。

 長照殿は長男と次男を城外に逃がす手筈を整えた上で自害したが、その子供達もあらかじめ用意されていた罠にかかり、東条松平の捕虜になった…という顛末(てんまつ)だった。

 悔しがる間も無く東海道を逆走した百ちゃんは、上之郷城陥落の一部始終を五郎殿に報告。今度は私へのメッセージを携えて、駿府に帰って来た…という訳だ。


「御屋形様は何と?」


 私が問いかけると、百ちゃんは一度目を閉じ、深呼吸をして、また目を開けた。


「蔵人佐殿と人質交換についての談判に臨む、ついては竹千代君を岡崎へとお移しになるとの沙汰が下る場合に備えて…関口刑部少輔殿に支度をさせるように、と。」


 やはりそうなるか。

 私は思わず渋い顔になった。


「岡崎松平との(えにし)を保とうと、刑部少輔殿も奔走してくださったのに…竹千代君が岡崎に移れば、今川と松平は縁が切れたも同然になってしまうわね。」

「申し訳ございません。わたくしがもっと早く上之郷城に着いていれば…。」


 みるみるしょげ返る百ちゃんに、私は慌てて首をぶんぶんと横に振った。


「何を言っているの!降って湧いた務めを文句も言わずに…お礼を言いたいくらいよ。」

「ですが、務めをしくじったのは紛れもない事実。御前様は信賞必罰、公正たる裁きを常としておりますれば、是非ともわたくしにも…。」


 う、う~ん。百ちゃんは真面目だなあ。

 こんな事になるなら、もっと身分や家格で差別したり、親しい人を贔屓(ひいき)したりしておけば良かったかも。

 でも、駿府館で陰口やイジメが横行するのも嫌だしなあ…。


「では、こうしましょう。貴方は確かに務めを果たせなかった…けれど、約定を果たしてくれたわ。必ず生きて帰るようにとの、私との約定を。だから…褒美をあげる事は出来ないけれど、罰を与える事も出来ない。これでは不服かしら?」


 あえていたずらっぽく言うと、百ちゃんはハッと息を吞み、深々とお辞儀をしてから退出――


「お待ちなさい。…この後はどうする積もり?」


 ――する直前で呼び止めると、百ちゃんは分かりやすくビクッと身を震わせた。


「…無断でお務めをないがしろにしてしまいましたので…今からでも埋め合わせを、と…。」

「だと思ったわ。その律儀さは美徳だと思うけれど…今日はもう休みなさい。お梅からも言われているでしょう。」

「ですが…。」


 不安気な表情で振り返る百ちゃんに、安心してもらえるように意識して微笑みかける。


「こうした時のために、輪番に余裕を持たせているのだから…今宵くらいは体を休めて。…またいつ、助五郎殿(うじのりにいさん)が駆け込んで来るか分からないわよ?」


 冗談めかして言うと、百ちゃんは今度こそ納得したらしく、もう一度お辞儀をしてから退出していった。

 本当にお疲れ様です。

 心の中でこっそり(ねぎら)ってから、文机に向かって筆を手に取り…誰も見ていないのをいい事に、頬杖を突いて溜息をつく。

 関口氏純殿宛ての手紙を、どう書き出したものかと頭を捻りながら。

日程に不自然な点が無いか確認するため、地図アプリで「静岡市~上之郷城跡(愛知県蒲郡市)」の経路を計測した所、徒歩で30時間という結果が出ました。

凄腕くノ一なら往復に四日もかからないのでは…と迷いましたが、当時は道が整備されていないし、今川本陣への潜入や上之郷城での情報収集でタイムロスがあったし…といった事情を加味して作中の日程になりました。

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