#145 三州錯乱
今回は主人公視点です。
関口刑部少輔氏純との会話がメインとなります。
「これは最早、岡崎松平のみの逆心にあらず…言わば、三州錯乱である。」
怒りも悲しみも感じさせない、無感情な五郎殿の言葉に、私は無言で奥歯を噛み締めた。
永禄4年(西暦1561年)10月 駿府
竹千代君誘拐未遂事件から半年。私は再び関口刑部少輔氏純殿の屋敷を訪れていた。
「度々のご訪問、誠にかたじけなく…。」
私よりずっと年上の氏純殿が、応接間の下座で深々と腰を折って挨拶する――という、今川家御一家衆の肩書きに似合わない卑屈さを目の当たりにして、私は優越感どころか、『どうしてこうなった』という後悔に苛まれていた。
松平元康殿の心変わりを期待する五郎殿の希望的観測が引っ繰り返されたのは、4月半ばの事だった。閏3月、つまり五郎殿が帰国する前後から怪しい動きを見せていた元康殿が、三河国における今川の拠点の一つ、牛久保城を攻撃したとの報告が届いたのである。
さすがに五郎殿もこれを見過ごす訳にはいかず、元康殿が謀反に踏み切った事を当主として認定し、鎮圧の準備に入ったのだが…5月に入ると、今度は別の国衆が今川を見限り元康殿に味方した、との知らせが届いた。要するに、元康殿に同調して今川に謀反を起こす国衆が、三河国のあちこちに出現したのである。
誰が味方で、誰が敵なのか…情勢がようやく把握できた6月、五郎殿がこぼしたのが、冒頭のセリフである。
…随分と悲観的に述べてきたが、絶望的と言うにはまだ早い。牛久保城は結局落ちなかったし、作手領の国衆、奥平定能殿を始めとする諸将も、今川方に留まる意向を鮮明にしている。
加えて、義元殿の急死に伴って発生した膨大な事務作業も、ようやくひと段落した。
相模国への遠征による将兵の疲労を懸念した五郎殿は、早期出陣を断念したものの、今川方に留まった諸将の指揮系統や配置を再編。元康殿の作戦方針にアタリをつけて、要衝の防備を強化させた。
そのかいあってか、三河の西郡領は8月から9月にかけて元康殿の攻撃にさらされたものの、総崩れになる事態は避けられたのである。
元康殿の攻勢がにぶった隙を突くように、五郎殿は酒井右京進殿を大将とする軍勢を三河国に派遣。反乱軍――もう、こう呼んでも差し支えないだろう――に一定の打撃を与える事に成功した。
そして、駿府でまことしやかに囁かれている噂。あれはほぼ真実だ。
「近々、御屋形様自らが兵を率い、謀反人を討ち果たすべく三河に入られる。」
兄弟同然に育ってきた五郎殿と元康殿が、戦場で相見える時が、近づいている。
軍事的にはそれでよしとして、元康殿の謀反によってある意味最大の被害を被ったのが、氏純殿だった。
今は亡き奥さんとの間に産まれたのは女の子二人。
長女の瀬名殿は元康殿を今川に取り込むための政略結婚に利用されて、長男竹千代君と長女の亀ちゃんを出産、今は亀ちゃんと一緒に三河岡崎にいる。
次女の紫吹殿はこれまた私の兄、氏規を関口家の跡取りにするための政略結婚に使われたが、幼少のためまだお隣――氏純殿の敷地内だから実質実家――で暮らしている。
問題は元康殿が岡崎に『赴任』している間、松平家当主代理として駿府の元康殿の屋敷にいた松平竹千代君だ。
生まれは2年前だから、数えで3歳。当然意思表示も満足に出来ないため、祖父の氏純殿が後見人を務めているのだが、その立場が俄然不安定になってしまった。『準御一家衆の跡取り』から『謀反人の息子』になってしまったのだから無理もないが、それが後見人の氏純殿にまで飛び火したのである。
曰く、元康殿の謀反は氏純殿の監督不行き届きではないか。
曰く、氏純殿は元康殿の義父として『責任を取る』べきではないか…。
これを聞いた私と五郎殿は大いに慌てた。武士が責任を取るという事は、最悪『切腹する』と同義だからだ。
氏規兄さん達の後見人にして近畿地方の有力者にも伝手を持つ氏純殿に死なれると困る…という打算もあるが、これ以上親族を失いたくないという心情もあった。
しかし、何らお咎め無しとすれば家臣団の間に不満が出る…という訳で、二人で頭を捻ったのだが…。
「不肖の娘の所領と株札を没収し、それがしを『駿河人足』の元株主とする。それがしは鑓働きを禁ぜられる代わりに、軍資金を献上する事で御屋形様へのお詫びの証とする…御屋形様、御前様の仕置により、辛うじて刑部少輔家の面目を保つ事が出来ました。」
ここ半年間のあれやこれを振り返っていた私の内心を引き継ぐように、氏純殿はまたも深々と頭を下げた。…先に言われてしまったが、そういう事だ。
元康殿と愉快な仲間達の謀反が確定した時点で、今川の領国として三河国にも供与されていた経済的サポートは全面的に引き揚げられる運びとなった。現代でいう『経済制裁』に近い。それは瀬名殿も無縁ではいられなかった。
瀬名殿の収入源は大別して三つ。駿河国各地に存在する所領と、駿府にたむろしていた無宿人を収容して派遣労働にあてる『駿河人足』の元株、そして岡崎城下で味噌を製造販売する『岡崎味噌』の元株である。
『岡崎味噌』は本店が岡崎にあるため、宣伝と販売を担当する友野屋を引き揚げさせる事くらいしか出来なかったが、所領と『駿河人足』の元株は接収出来た。
これを一旦氏純殿の預かりとして…まずは瀬名殿の所領を没収。瀬名殿の親族という立場を理由に『駿河人足』の元株を氏純殿に継承してもらい、そこから出て来る配当金の一部を定期的に今川家に上納してもらう。
こうすれば、表面上は氏純殿は所領を失い、戦場での功績で汚名を返上する機会をも剝奪された上で、『賠償金』を延々と支払い続けるしかない『負け組』という事になる。
…死罪を免れるためとは言え、並の武将であればプライドをズタズタにされて切腹に及んでも不思議ではない処分だったが、幸い氏純殿は粛々と受け入れてくれた。
私がこうして毎月のように氏純殿の屋敷を訪問するのは、その『忠義』に報いるためにも、今川本家が刑部少輔家と竹千代君の事を気にかけている、という姿勢を周囲にアピールする狙いがある。
「どうか頭をお上げください。刑部少輔殿の忠節にはこちらこそ恐れ入ります。我が夫の仕置は家中の評判を慮っての事…内心では刑部少輔殿を頼りにしておられる事、疑いございません。」
言葉選びに気を付けながら言うと、氏純殿は恐る恐るといった感じで顔を上げた。
泣けばいいのか、笑えばいいのか、困っているような表情だった。
「…太守様がお隠れになって早一年半。かような運びとなろうとは…乱世とは、真に御しがたいものにございますな…。」
「…悔いておいでですか?瀬名殿を蔵人佐(元康)殿に嫁がせた事を…。」
耐え切れずに問い掛けると、氏純殿は躊躇なく首を横に振った。
「憚りながら、この関口刑部少輔…己なりの忠節で太守様、御屋形様の厚恩に報いてきたと自負しております。」
先ほどまでの弱弱しさが噓のようなキッパリとした口調に、私は思わず目を見張った。
「少し、昔語りを…拙者はゆえあって刑部少輔家の家督を継ぎましたが、武芸軍略の才に恵まれず、いずれ家名を汚す事になりはしまいかと、怯える日々を送っておりました。されど…太守様は拙者の隠れた才覚を見出だして下さった。腹に一物抱える者共と口八丁で渡り合う才覚を…それゆえ、堺の商人を始めとしたお歴々との取次を任ぜられたのでございます。」
リラックスした様子で義元殿との思い出を懐かしむ氏純殿に、不覚にもほっこりしながら、私は聞き入った。
「今でも思い出しまする、初めて堺に渡ったあの時を…船を乗り継ぎ、山中に分け入り…野盗に襲われた時は肝が冷え申した。その後も、文での遣り取りでは埒が明かぬとなれば拙者自ら堺に。世情も目まぐるしく変わりますゆえ、その度に旅路も変わり申した。」
「…不思議な事もあるものですね。骨を折っておられるというのに…刑部少輔殿がこの上なく楽しそうに見えます。」
本心から微笑みかけると、氏純殿も微笑み返してくれた。
「この上ない喜びにございました。武芸軍略に劣る拙者が、太守様に見出され、お家の役に立てる事が。男子を産まぬまま妻がこの世を去った折には、今度こそ刑部少輔家もお仕舞いかと思いましたが…娘二人、それぞれ良縁に恵まれて…。」
雲行きが怪しくなってきた事に気付き、強引に話題を変えようと息を吸った私に先んじて、氏純殿は「それにも増して有難いのは」と声を張った。
「代替わりしてなお、拙者を重用してくださる御屋形様の大器ぶりにございます。本来、蔵人佐殿の逆心の責めを負って皺首を差し出すべき所、情けをかけてくださるとは…。この刑部少輔、老骨に鞭打って厚恩に報いる所存にございます。」
氏純殿の宣言に、枯れ木が赤々と燃え盛るような光景を幻視して、私は思わず目を細めた。
…今更だが、私は日本史にも世界史にも詳しくない。戦国武将だって、有名どころしか知らない。
だから、北条氏康も、松田憲秀も、今川氏真も、葛山氏元も、朝比奈泰朝も…関口氏純も、どんな武将『だった』のか、知る由も無い。
一つだけ言えるのは…転生してこの方、直接会って話したり、触れ合ったりして来た人々が、紛れもなく生きた人間である事。それぞれ得手不得手があって、真面目だったり不真面目だったりして、志が高かったり低かったりして…正直、織田信長や豊臣秀吉といった会ったことも無い有名人と比べれば、彼らの方がずっと身近に感じられる。
…いやまあ、徳川家康(?)にはもう何度も会ってる訳だけれども。元康殿は元康殿でまだ偉人っぽい感じがしないというか…。
心の中で誰にともなく言い訳を繰り出していると、屋敷の奥から喧騒が近づいてきた。
「これはお見苦しい所を…何事か⁉」
氏純殿が問い質すと、下人が部屋に走り込み、膝をついた。
「また、でございます。竹千代君が、例によって…。」
「また、か…面目次第もございませぬ、竹千代君は父母の腕に抱かれて寝かしつけられておりましたゆえ…他人があやしても一向に鎮まりませぬ。昼夜の別なく喚いて、泣き疲れてようやく、といった有様で…。」
なぜ上級武士は子育てを赤の他人に委ねるべきなのか、という疑問の答えを目の当たりにして打ちのめされたような感覚に陥っていた私は、無理矢理笑顔をつくって氏純殿に語り掛けた。
「ご心配なさらずとも、竹千代君は立派な武士に成長あそばされます。刑部少輔殿の血脈も、きっと保たれましょう。」
何せ竹千代君は江戸幕府二代将軍、徳川秀忠に違いないのだから。
乏しい歴史知識に裏打ちされた自信をもって保証すると、氏純殿は「そうあるべしと、願ってやみませぬ」と、ぎこちなく微笑んだのだった。
それから数か月が経って。
私は氏純殿から一冊の書物を献上された。
題は『刑部少輔堺往来記』…氏純殿の大切な思い出、駿府と堺を往復した旅路についての回顧録だった。
まさかこれが役に立つ日が来ようとは、その時の私は夢にも思わなかったのである。
関口氏純については資料や逸話が乏しいのですが、跡を継ぐ男子がいなかった事(早逝した可能性はあり)、義元から他家や堺の商人との外交交渉を任されていた事は確かなようです。
言うまでもなく『刑部少輔堺往来記』は作者の妄想ですが、実際に堺に行った形跡がある事からすると、船を乗り継いだり、非友好的勢力のど真ん中を突っ切ったりした事もあったのではないかと考えます。
松平竹千代の命運については、その…読者の皆様のお察しの通りです、はい。
主人公の歴史知識の浅さがよく分かる一幕だったかと思います。