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#141 小田原炎上(上杉編)

冒頭から言い訳めいておりますが、作中に登場する漢詩には原典は一切ございません。

完全に筆者の創作です。

文法等に間違いや矛盾があったとしてもそれは今川氏真のせいでは全くございません。

永禄4年(西暦1561年)(うるう)3月 小田原城


「こんな所に居やがったのか、探したぜ。」


 矢倉から城下を遠望していた北条家当主、新九郎氏政が聞き慣れた声に振り返ると、ちょうど父――先代当主、左京大夫氏康が上がって来る所だった。


「北条の御屋形様がフラフラと…と言いてえ所だが、喫緊の用事は片付いてるそうじゃねえか、流石だな。」

「恐悦至極…恐れながら、何か御本城様(ごほんじょうさま)のお気に障る事がございましたでしょうか?」

「いんや、俺も気晴らしだ。ここの所、面白くもねえ報せが多かったからな。」




 数日前。はるばる上野(こうずけ)厩橋(うまやばし)から南下し、城下町を焼き払って小田原城を包囲していた、長尾景虎率いる四万の軍勢が撤退を開始した。

 理由は大別して二つ。

 第一に、乱暴狼藉を有効活用して上野から相模まで電撃的に走破した四万の将兵を食わせていく事が困難になりつつあった事。

 第二に、北条と同盟を結ぶ今川、武田の軍勢が小田原の後詰のため接近しつつある、との報せで、内部に動揺が広がった事。

 小田原城内には即時追撃を主張する声も多かったが…氏康と氏政はこれを退け、当面は静観の姿勢をとった。越後勢の撤退があまりにも整然としていた事から、偽装撤退を疑ったのである。

 数日が経過しても越後勢の東進が続いたため、偽装撤退の線は消えたが、次はその行き先が問題になった。鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)――氏康の父、氏綱が荒廃から再建した、鎌倉幕府以来の坂東武者の心の拠り所である。

 長尾景虎はここで上杉憲政から名跡を継承して『上杉政虎』と改名、関東管領に就任すると共に、北条の傀儡である古河公方、足利(あしかが)義氏(よしうじ)に不満を抱いていた藤氏(ふじうじ)を鎌倉公方に擁立する、と宣言した。

 つまり、義氏を源頼朝、小田原北条氏を執権北条氏に見立てる構図に対抗しうる体制を、新たに創りあげたのである。

 北条にとって不都合な事に、政虎は京の将軍、足利義輝と強い関係を持っており、『関東管領は本来京の公方様から任ぜらるのが筋である』という先例も、『関東管領上杉政虎』の正統性を後押ししていた。

 かくして、鎌倉で盛大な襲名披露式を挙行した越後勢は、順次自身の領国へと解散していった。

 そして後には、合戦と乱暴狼藉という暴風雨に見舞われ、荒廃しきった村と町が残された…。




「ただの戦上手に留まらねえ、(まつりごと)にも才覚があるってこったな。」

「…考えておりました。この焼け野原を目の当たりにして…我ら北条と、越後勢のいずれに義があるのか、坂東の領民を守れなかった拙者に、左京大夫を名乗る資格があるのか、と…先々代(北条氏綱)が掲げた、禄寿応穏(ろくじゅおうおん)をこの世に現す事の何と難しい事か、と…。」


 矢倉から見える光景は、ひと月前とは様変わりしていた。

 町人百姓のほとんどは越後勢の襲来を察知して山中に隠れ、難を逃れていたが、家屋商店が所狭しと軒を連ね、大勢の町人が行き交っていた城下町は灰塵(かいじん)に帰していた。


「世は乱世、乱暴狼藉も戦の習い…北条(おれたち)も行く先々でやって来たって事を、忘れちゃいねえだろうな。」

「無論にございます。」


 即答。

 氏康は矢倉の一角に背中を預けると、満足気に頷いた。


「ならいい…所詮俺たち武士(さむらい)は、百姓町民がいなけりゃ戦はおろか、明日のメシにも困る有様だ。だから関東管領殿の軍勢が、坂東の村々を焼き討ちしようが、百姓や米俵を持ち去ろうが、北条(おれたち)が文句を言える筋合はどこにもねえ…だがな、」


 氏康は一呼吸入れると、『獅子』の渾名に違わぬ眼光を城下町へと飛ばした。


「戦に勝ちゃあ万事収まるとばかりに、後先考えずに斬り伏せ、焼き払い…肝心の小田原を攻め落とせねえからと、鎌倉に退いて関東管領を継承し…しかし坂東には留まらず、越後に引っ込む…これが関東管領の振る舞いか?」

「…公方様の後ろ盾を得ている以上、名分はあちらにございます。されど…その行いに実が伴っておらぬようでは、虚名と言って差し支えないかと。」


 氏政が同調すると、氏康はその隣に歩み寄り、城下を凝視しながら独り言ちた。


「…今はまだ、負け犬の遠吠えに過ぎねえ。今はまだ、な…甲斐の武田が、越後勢の疲れが抜けねえ隙を突いて北信濃に兵を出すとよ。そうして越後勢が釘付けになってる間に…俺たちも打って出るぞ。」

「多摩の三田あたりを血祭りに上げれば、北条を見限った国衆も目を覚まし、三つ鱗に改めて忠節を誓いましょう。併せて、乱暴狼藉の憂き目に遭った領民の面倒も見ねば…父上、お手数ながら…。」

「ハァ…里見を滅ぼしたら楽隠居を決め込めると思ったんだがなぁ…しゃあねえ、他でもない御屋形様の頼みだ。もうひと働きするか。」


 苦笑しながら腕を組んだ氏康は、何かに気付いた様子で懐から書状を取り出し、氏政に手渡した。


「危ねえ危ねえ、こいつを見せるのを忘れる所だったぜ。」

「これは…?」

「ついさっき届いた、今川五郎(氏真)殿からだ。越後勢が兵を退いた以上後詰は無用、駿河に帰るとよ。…恩着せがましいのは構わねえが、『蛇足』が鼻につきやがる。」


 不快感を滲ませる父の声を聞きながら、氏政は書状を開き、目を通した。

 おおむね内容に不審は無い。越後勢が小田原の包囲を解き、撤退した事を祝う一方で、今川の加勢が無ければどうなっていた事か、とさり気なく『功績』を主張。これからも『互いに』助け合おう(=いずれ今回の『貸し』を返してもらう)といった文面が並んでいる。

 いかにも乱世の大名、と言って差し支えないが…末尾に氏康が言う所の『蛇足』があった。

 漢詩である。


『餓狼侵豊穣之地』

――飢えた狼が豊穣(ほうじょう)の地を(おか)した

『獅子籠洞待狼去』

――獅子は(ほらあな)(こも)って狼が去るのを待つ

『不戦非故彼臆病』

――戦わないのは獅子(かれ)が臆病だからではない

『知時用鋭牙剛脚』

――鋭い牙とたくましい脚を使う時を知っているからである


 氏政が漢詩を復唱していると、氏康が不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「去年討死した父親(よしもと)とそっくりだぜ。事あるごとに今川の方が北条より(みやび)だと見せつけて来やがる…。」

「恐れながら、それがしの見立てはいささか異なりまする。」


 氏政の、静かながら断固とした反論に、氏康は無言で続きを促した。


「この書状…文字が斜めに連なっておりまする。小田原の後詰が不要となったと知り、引き返す際に、五郎殿自身が急いで書いたのでは。されど終わりに近づくにつれ、文字が整い始め…漢詩の文字に至っては手本さながらの美しさ。ところが、日付とご自身の名を書く段に至って…また文字が乱れておりまする。」

「…するってえと何か。こっちに義理を通そうと筆をとったはいいが、途中で漢詩を思いついて…時を忘れて没頭して…のんびりしてる場合じゃねえって事に、出来上がってからようやく気付いた、って事か?…肝が太えんだか、吞気なんだか…。」


 当惑の色を隠せずにいる氏康の声を聞きながら、氏政は氏真の手紙を見つめた。


「大膳大夫(武田信玄)殿に劣らぬ早さで加勢を送り込まれた事と言い、相応の知恵者とお見受けしますが…器の大小を含め、直にお会いして確かめとうございました。」

「まあ、今後も助け合おうってんだ。お互い無事なら、また顔を合わせる機会もあらあな。」


 ややトゲの取れた口ぶりでまとめると、氏康は片足を矢倉の昇降口に向けた。


「俺はこれから外郎(ういろう)屋に会って来る。城下の立て直しについて話し合わなきゃならねえからな…お(めえ)はどうする?」


 氏康の問い掛けに、氏政は書状を返すと、改めて城下の焼け跡に目をやった。


「今少し、ここに…己の無力が招いたこの有様を、この目に(しか)と焼き付けておきたく存じます。」

「…今日は子細を詰めるにゃ至らねえだろう。急ぐこっちゃねえ。…下の小姓をあまり待たせるんじゃねえぞ。」


 無言で頷く氏政を背に、氏康は昇降口へと歩みを進めた。

 その口元に、滅多に見せない穏やかな微笑を浮かべながら。


「…どうやら無事に、『左京大夫』を継がせる事が出来そうだぜ。親父殿…。」


 それは氏政の耳に届かない程度の、小さな声だった。

こうして北条氏政は、二度と小田原の城下町を焼かせるまいと、決意を新たにするのだった――めでたしめでたし。

次回、『小田原炎上(武田編)』!(無慈悲)

…次回と言っても暫く先の事ですが、事実です。

通説ではこうした苦い経験が元で、城下町を囲む『総構え』が築かれた…とされていますが、近年の研究で総構えは市街地を完全にはカバーせず、地形を重視して構築された事が分かって来ています。

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[気になる点] >『不戦非故彼臆病』 ――戦わないのは獅子が臆病だからではない ここ 臆病なる、獅子が戦はざる所以に非ざるなり。とかはどうですか? 『臆病、非所以獅子不戦也』 順番は自信ないです…。…
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