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#139 作戦名『北風と太陽』

正直に申し上げますと、今回のエピソードを執筆中、昨年の大河ドラマ『どうする家康』の顔ぶれが脳裏にちらついて仕方ありませんでした。

私なりにキャラ付けを済ませてから舞台に送り出しているつもりですが、最終的には読者の皆様がお好みの見た目を当てはめていただければ幸いです。

…さすがに戦国で無双したりBASARAしたり乙女したりするゲームだと、違和感が大きすぎるかも知れませんが。

永禄4年(西暦1561年)3月 岡崎城


「どういう事か、ご説明いただきたく!」


 城内の一室にて、築山から登城した正妻――瀬名に詰め寄られて、松平元康は頭痛と腹痛に歪みそうになる表情筋を必死に押さえつけた。


「御前様(結)から頂戴した書状…殿が太守様の(かたき)と手を結び、今川に弓引こうと目論んでおいでとか!左様な、今川の厚恩を(あだ)で返すような真似を…!」

「ま、待て!…早まるでない。先だっても聞いたが…それは御前様が耳に入れられた噂話なのであろう?」

「左様にございます!」

「思い違いじゃ。わしは今川に弓引こうなどと…大それた事を考えてはおらぬ。」


 元康の弁明を聞いた瀬名は、やや落ち着きを取り戻したものの、夫を見る目から疑いの色が消える事は無かった。


「ではなにゆえ御前様は、かねてよりの借銭を耳を揃えて返せ、さもなくば『駿河人足』の元株を譲れ、などと…まるで人が変わったようにございます。御屋形様(氏真)が取り成してくださらねば、どうなっていた事か…。」


 元康は、瀬名の視界の外で一瞬だけ顔を引きつらせると、強引に唇の両端を吊り上げ、笑顔をつくった。


「全くじゃ、御屋形様の御心の深き事よ…わしの忠節を(うたご)うておらぬ事の、何よりの(あかし)じゃ。遠からず御前様より改めて沙汰があろう。お主は築山で、お亀の面倒を見てやってくれぬか。」




 瀬名を見送った元康は、音を立てて席を立つと、苦々しい表情のまま回廊を通り抜け、十人前後の男達――家中でも特に元康が信を置く武士達が待つ別室に入り、上座へと勢い良く腰を下ろした。


「奥にも書状が参ったそうじゃ。まず御前様から、次いで御屋形様から。」

内訳(うちわけ)は?」

「案の定じゃ。御前様がわしの忠節を疑い、無理難題を仰せになる。追いかけるようにして御屋形様が、御前様が順逆を誤った、既に説き伏せたゆえ心配無用、と…。」

彼方此方(あちこち)の三河衆に送り付けられた書状と、似通っておりますな。」


 家臣の言葉に、元康は落ち着きなく親指の爪を噛んだ。




 ここ数日、駿河から届いた紙切れのために、三河は上を下への大騒ぎだった。

 概要は先刻述べた通り。

 まず、氏真の妻である結から、三河の主だった武将へと一斉に書状が届く。


『今川の御前様たる私がわざわざ文を書き、銭、兵糧、宝物(ほうもつ)を分け与えたというのに、一通の礼状で済ませようとは如何なる了見か。直ちに三河の珍味、珍品を駿府館に献上するように。』


 御前様のご機嫌を損ねては一大事――と慌てふためく諸将の元に、二日と空けず次の書状が届く。

 送り主は今川の当主、氏真だ。


『その方らの忠節、疑うべくも無い事である。我が室は三河衆の労苦に考えが及ばず、其方(そなた)らに無体な要求をした。浅慮の極み、言語道断である。当方、既に室の愚行を見咎め、存分に懲らしめた。当節、三河の忠臣に求めるは珍味珍品にあらず。(ひとえ)に戦働きである。小田原の窮状を救い次第、三河の後詰に向かう。それまでの辛抱である。引き続き松平蔵人佐(元康)と一味同心して、尾張勢と合戦に及ぶように。』


 かくして三河の諸将は一転、「太守(よしもと)様の弔い合戦を!」と元康に出陣の催促を始めたのであった…。




「いやしかし、未だに信じられませぬ。あの御前様がかような無体を仰せになるとは。」


 結と面識のある列席者の一人、大久保(おおくぼ)新十郎(しんじゅうろう)忠世(ただよ)が下顎を突き出すと、数名が同調の声を挙げた。


「百姓町民まで労わる慈悲深いお方とお聞きしておったが…所詮は世間知らずか。我らが織田との戦に散々手を焼いておるというのに…それに引き換え御屋形様は――」

「我ら三河衆に目をかけておられると?…フッ、こうも容易く(たぶら)かされるようでは、岡崎松平の行く末も怪しゅうござる。」


 鼻を鳴らす音と共に割って入った声に、室内は静まり返り、元康を始め列席者の視線は一点に集まった。視線の先には、武士と呼ぶにはいささか貧相な体付きの男――本多(ほんだ)弥八郎(やはちろう)正信(まさのぶ)が涼しい顔をしていた。


「…誑かすとはどういう事じゃ、弥八郎。」

「よーくお考えなされ、ご一同。御前様と御屋形様の書状が届く前と後で、何が変わったと申される。尾張勢は岡崎と指呼の間、待てど暮らせど駿河の加勢は来ない。書状を読んで大騒ぎしただけで、終わってみれば誰が損をした訳でも、得をした訳でも無い。…殿はいかがお考えで?」


 問いかけられた元康は、しばし沈思黙考してから口を開いた。


「これは、芝居であろう。御屋形様と御前様が仕組まれた…。あの思慮深い御前様が、御屋形様の許しも無く、かように分別(ふんべつ)の無い行いに走るとは思えぬ。」

「狙いは三河衆、そして岡崎の離反を食い止める事、でありましょうな。」


 忠世の発言に眉をひそめていた石川(いしかわ)与七郎(よしちろう)数正(かずまさ)が、元康に同調する。


「水野藤四郎殿から調略の手が伸びている事を、お二方は突き止められた。されど、殿を成敗しようとは思っておらず…詭計をもって引き留めようと考えておられる。」


 元康は頷くと、脳内で素早く順序を整理した。

 伯父――実母の兄である水野藤四郎信元からの、織田信長との和睦仲介の申し出は、岡崎松平にとって――個人的感情を抜きにすれば――渡りに船だった。どう言い繕おうとも、今川氏真の直接的支援を受けられない三河衆の劣勢は、誰の目にも明らかだったからだ。

 結局元康は、駿府から一連の手紙攻勢が始まる直前に、織田信長との和睦に応じた。ひとまず信長との戦闘を中断し、信長の攻勢が美濃に向けられている内に態勢を立て直す…という算段だったのだが、信元との連絡には細心の注意を払っていた。氏真を始め、家中に向かって『太守様の仇を討つ』と大見得を切った手前、信長と大っぴらに和睦する事は出来なかったからだ。

 しかし、氏真と結がこのような詭計を用いてきたという事は…信元の調略に二人が気付いた、そう捉えて間違いは無いだろう。


「書状には『蔵人佐(わし)と一味同心して』――とある。御屋形様と御前様が問答無用でわしを成敗しようとなさらないのであれば、あるいは…織田との和睦は御屋形様が兵を寄越されるまでの時間稼ぎであったと、そう解してくださるやも知れぬが…。」

「さて、そう都合よく事が運ぶかどうか…。」


 主君の独白に口を挟んだ正信を家臣達が睨み付けると、正信は相変わらずの涼しい顔で明後日の方向に視線を飛ばした。


「時は乱世、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の化かし合い…殿が水野藤四郎殿と通じた事を、駿府のお歴々に知られた――事を、織田や藤四郎殿も勘付いておられるやも――」

「殿、とのっ!」


 障子の向こうから慌ただしい足音と共に近付いて来る声に、列席者は一斉に振り返った。


「みず…んんっ!『藤の(きみ)』より文が届きましてございます!火急の用件につき、直ちに(あらた)められたし、との事!」




 手に取った書状を、元康が熟読する事しばし。


「殿、藤の君――いや、水野藤四郎殿は、何と?」


 喉元に太刀の切っ先を突き付けられたかのような顔付きで忠世が問い掛けると、元康は重々しく口を開いた。


「織田に弓引かぬ証を()く見せよ、さもなくば尾張勢がたちまち岡崎に攻め寄せ、上下を問わずことごとく根切り(皆殺し)になるであろう、と…お主の申す通りであったな、弥八郎。」

「さ、されど!」


 元康の言葉に反応したのは、したり顔の正信を憎々し気に一瞥した忠世だった。


「もし、織田と手を結び、今川に弓引く事と相成れば…駿府にて留守居役をお務めの、竹千代君が、いかなる仕打ちを被るやら…見当も付きませぬ!」


 忠世の、もっとも過ぎる問題提起に…元康はゆっくりと、首を横に振った。


「あちらは、それも承知の上じゃ…御屋形様への義理立てを続ければ、岡崎の落城は必至。両親(ふたおや)を喪った一人息子は途方に暮れるであろう。されど、ここで織田に鞍替えすれば岡崎松平は生き延び…手立てを尽くせば、或いは…竹千代を岡崎に連れ戻す事も、叶うであろう、と。」

「『手立てを尽くせば』ぁ…?他人事(ひとごと)と思って、何を無責任な…。」

「まあ、左様な所に落ち着きましょうな。」


 表情に憤怒の色を滲ませる忠世らとは対照的に、正信はどこまでも落ち着き払っていた。


「…これもお主の(たなごころ)の上と申すのであれば、弥八郎。申してみよ。織田と手を結んだ上で、竹千代を岡崎に迎え入れる方策を。」

「殿…。」


 家中の筆頭格として傍近くに控えていた酒井忠次は、織田との和睦に大きく傾いた元康の心中を察しつつ、口を閉ざして正信の献策を待った。


「まず竹千代君の身柄について、でございますが…仮に、殿が今川に弓引いたとて、直ちに成敗される事はありますまい。竹千代君は御一家衆、関口(せきぐち)刑部少輔(ぎょうぶのしょう)殿の孫であらせられるゆえ…恐らく、殿を成敗した後、岡崎松平家の跡継ぎに据えよう、などと…『駿府館の御屋形様』はお考えになるのでは?」


 正信の、氏真に対するよそよそしい呼称をあえて無視して、元康は無言で続きを促した。


「当面は織田にも今川にも世辞を申し送るがよろしいかと。水野藤四郎殿の書状に『疾く』とあったのは、実際には戦支度が出来ておらぬ証。気のある素振りを見せておけば…まあ、ふた月は時が稼げるかと。」

「稼いだ時を、尾張勢との戦支度に充てればよいのではないか⁉」


 勢い良く口を挟んだ家臣に、正信は少し目を泳がせた。


「…まあ、時勢次第では、そうされるのもよろしいかと。さて、近々『駿府館の御屋形様』は北条の後詰に向かうよし。かのお人が駿府に戻られるまでに…織田と友誼を深め、兵を集めるがよろしいかと。そして兵を挙げ…まずは今川に歯向かう者共を討って足元を盤石に。続いて今川家中でも御屋形様に不満を抱く方々に声をかけて兵を増やし、応じぬ城を調略や無理攻めで落としまする。」

「…御屋形様の不在を突いて兵を挙げ、味方を増やして城を落とす。それからいかがする?」

「三河一国、いや半国の主ともなれば…織田とも今川とも渡り合う地盤が整いましょう。織田と改めて談合して三河から兵を退かせた後…今川に城を二つ三つ返すと申し出れば、竹千代君をお迎えする事が叶うかと…。」


 氏真の不在を利用して今川の支配下から脱し、かすめ取った城や領地を交渉材料に織田や今川と渡り合う――狡猾ではあるが合理的な献策に、正信を除く家臣達は苛立ちの色を覗かせつつも、反対意見を挙げる事が出来なかった。


「とは申せ、『駿府館の御屋形様』の忍耐が続くかどうかという心配もございましょう。そこで、服部(はっとり)半蔵(はんぞう)殿。」


 急に名を呼ばれ、身を震わせる若武者――服部(はっとり)正成(まさなり)を横目で見ながら、正信は続けた。


「お父上は伊賀の出身とか。伊賀者への伝手はまだございましょうや?」

「…忍び働きを頼むというのであれば、父から聞いた名が幾つかあるが…。」

「その者らを雇い入れ、密かに竹千代君をお迎えする手筈を整えてはいかがにございましょう。上手く事が運べば、我らは心置きなく今川方の城を攻められます。しくじった折は、知らぬ存ぜぬと白を切ればよろしいかと…。」


 今川への反逆に当たり、最大の懸念を早急に取り除けるかも知れないという興奮と、伊賀忍者をも使い潰す策の容赦の無さに対する戦慄が交錯する中、元康は小気味良い音を立てて膝を打った。


「その手で参ろう。水野信元(おじうえ)と御屋形様への書状を至急用意する。半蔵、伊賀者に渡りを付けて手筈を整えよ。銭はわしが用立てる。…一同、本日の事も言うまでもなく他言無用である。引き続き、尾張勢との戦支度を装い…わしからの下知次第でいずこにも兵を出せるよう、心せよ。」


 鬼のように険しい顔付きの元康に向かって、家臣達は一斉に頭を下げた。




「奥方様には、いかにお伝えなされます。」


 密談の出席者が続々と退出した後の部屋で、一人残った酒井忠次が、上座から虚空を睨む元康に問いかけた。


「当面は内証(ないしょ)で通そう。御屋形様と正面から争う事となれば、関口刑部少輔殿と――義父上(ちちうえ)と刃を交える羽目になりかねん。…これ以上、奥の心を煩わせたくは無い。当面は…今川との戦が避けられなくなるまでは…。」


 自身に言い聞かせるように呟く元康から、忠次は三つの臭いを嗅ぎ取った。優しさと、嘘と…疑心暗鬼の臭いを。

 元康の言葉は全くの出鱈目ではないだろう。妻を思いやる心に噓はないはずだ。

 だが、同時に…『瀬名に今川からの離反を相談すれば、実父を通じて今川に漏れるのではないか』と疑ってもいる。


「わしは何をしておるのであろうな…先祖累代の墓前で太守様の仇討ちを誓っておきながら…岡崎を、三河を守るためにと、太守様の仇と手を結び、御屋形様に歯向かおうとしておる…なにゆえかような…。」


 僅かに声を震わせながら目を覆う主君にかける言葉を、忠次は持ち合わせていなかった。

前書きで『好きな見た目でどうぞ』と書きましたが、本多正信に関しては三国志の謀略家、法正をモデルにしました。

※法正孝直、益州国主劉璋から劉備玄徳に鞍替え。

倫理や常識に囚われない策謀で蜀の建国に貢献、一説には軍事面に限っては孔明より信頼されていた。

私怨で報復するなど性格に問題大有りだったが、劉備の危機に体を張るなど、ほれ込んだ主君に対する忠誠心も並々ならぬものがあった。

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