#138 ベッドルームの約束
遅ればせながら、拙作の総合評価が6,000ポイントを突破しました。
拙作を閲覧、評価してくださった皆様に、この場を借りてお礼申し上げます。
今後ともよろしくお願いいたします。
「左様か。其方も沓谷衆の事を知ったか…。」
五郎殿が一向に終わりの見えない事務作業に追われながらも、北条の救援に向かう準備を整えつつあったとある夜。私は沓谷で見聞きした事を、寝室で五郎殿に報告し、今後の方針に関しての検討を試みた。
勿論、寿桂様の許可はもらっている。沓谷衆のエース、二之丸七緒さんと、元風魔忍者の百ちゃんが連絡役になっている事も共有済みだ。
しかし4年前、山科言継卿からもらった伝言に、あんな裏が隠されているとは思いもしなかった。
『伝言』というのは、朝廷の資金調達のために駿府にやって来た言継卿のおもてなしをした際、私を気に入ってくれた言継卿が『酒で口を滑らせた』情報だ。『駿河に荷を運ぶ船を、熱田の港で数多見かけた』…言継卿に言われた通り、義元殿と寿桂様に伝えたのだが、これには中々厄介な『裏』があった。
今川家と西国との貿易の中継拠点である熱田を、当時から現在に至るまで押さえているのは、織田信長。そこで活動する水運業者は株札で運営されており――元株主、つまり株主総会の議長を織田家臣が交代制で務めている。
つまり、今川家が西国から大きな買い物をすればするほど織田にも銭が転がり込む上に、事と次第によっては今川に納入予定の物品を熱田で差し止める、いわば経済封鎖さえ可能になっていた、という訳だ。
この危険性に気付いた義元殿は、信長の息がかかっていない業者とも取引を行い、織田の意向で今川の生命線が左右される、という事態は避けられた、との事だ。
…桶狭間の戦いに大敗した事で、その辺もまた怪しくなって来たらしいが。
「寿桂様と沓谷衆が、人知れず家中領民の安寧を守っておいでであったとはつゆ知らず…痛く感じ入りましてございます。願わくば私も、その一助となりたく…。」
「その心意気は有難いが、しかし…いや、これも我ら武士が頼りないがゆえ、か…。」
五郎殿は唇を引き結んで二、三度首を振ると、強い意思の宿った瞳で私を見つめた。
「儂は北条の援兵として、来月(3月)には兵を率いて相模に向かう。早ければひと月――閏3月の内に駿河に戻るであろう。」
「左様に早く越後勢との戦が決着するのですか?」
十万を超えると言われる長尾景虎の軍勢を相手に、生きて帰る事自体難しいのでは――と不安がる私に、五郎殿は地図と御世論の駒を駆使して解説してくれた。
先日、上野国(群馬県)厩橋に駐留していた長尾景虎の軍勢が、ついに南下を開始した。ただし、北条、武田、今川の密偵が念入りに調査した結果、総兵力は五万に届かず、多く見積もって四万という所。
一方、北条は領内各地の要衝に防衛戦力を割り振った上で、小田原に一万の兵力を集結。これに武田信玄と五郎殿がそれぞれ一万の兵を率いて加勢すれば、数の上では十分に拮抗する。
「ですが、越後国主(長尾景虎)殿は当代きっての戦上手とか…。」
「確かにのう。されど…軍勢が膨れ上がり、滞陣が長引けば…『前の』関東管領殿の威光も衰える。現に安房上総の里見は、長尾殿に後詰を求め、坂東に引き入れたにもかかわらず、厩橋への参陣を求める書状に応えず、左京大夫殿に奪われた所領を取り返す事に専念しておるとか…ゆえに、長尾殿が選ぶは…拙速。」
五郎殿の見立てでは、越後勢は北条の城を片っ端から攻略するのではなく、守りの薄い所を一点突破して小田原城を目指すだろう、との事だ。
「河越や玉縄を捨て置いて、ですか?兵糧が届かず、兵が飢えてしまうのでは…。」
「はるばる越後や上野から兵糧を送り、四万の兵を養うなど、到底考えられぬ。それよりは行く先々で乱暴狼藉を行い、落とした城や通りがかった村々から米や銭を集めた方が早かろう。『智将は務めて敵に食む』…百姓農民には迷惑千万であろうがな。」
…こうして現地調達で武蔵国(埼玉県・東京都)を突破した越後勢は、その勢いを保ったまま小田原城を包囲する。ここで問題となるのが、長尾景虎が城攻めを決断するか、その場合、北条が凌ぎ切れるか、だと言う。
「小田原城は北条の祖、早雲寺殿が奪い取って以来、修築を重ね、坂東一の堅城となったと聞いておる。そこに一万の兵が立て籠もっておるとあれば…いかな戦上手も二の足を踏むであろう。一度無理攻めに踏み切って、落とせぬとあれば…寄せ集めの軍勢に不安が蔓延し、雲散霧消してしまうであろうからのう。」
「では、兵糧攻めに…?」
「城内に兵糧を溜め込んだ一万の相模勢と、焼け野原に陣を張る四万の越後勢では、どちらが先に音を上げるか、火を見るよりも明らかじゃ。そこに後詰…儂と大膳大夫(信玄)殿の軍勢が迫るとなれば…長尾殿も兵を退かざるを得ぬであろう。」
かくして、長尾景虎は今川や武田と戦う事なく小田原城の包囲を解き、関東各地の国衆多数を寝返らせたという実績を引っさげて撤退するだろう…というのが五郎殿の見立てだ。
「長尾殿が真に戦上手であれば、勝ち目の薄い戦はするまい。兵を率いて後詰に向かう以上、油断はせぬが…恐らく儂と長尾殿が相見える事は無いであろう。」
五郎殿のまとめに、私は胸を撫で下ろした。
元々優秀だったのか、私との八百長試合を経て覚醒したのかは分からないが、五郎殿が文武両道の名将である事に疑いの余地は無い…ハズだ。しかし現代日本で『好きな戦国武将ランキング』とか『最強戦国大名ランキング』とかを実施した場合、九割九分トップテン入りする長尾景虎――上杉謙信が相手となると、少々…いや、だいぶ厳しいものがあると思われる。
であれば、五郎殿と長尾景虎が直接対決せずに今回の戦争が決着する、という予想は…私にとっても有難いものだ。
「されど…問題はその後じゃ。儂が駿府に戻ったとして…将兵に休みを与えぬ訳には参らぬ。今少し、蔵人佐には持ち堪えてもらわねば…。」
再び憂いの表情を見せる五郎殿に、私は慌てて声をかけた。
「そのためにこそ、でございます。三河衆の心を今川に引き留めるため…私が尽力いたします。つきましては…ご多忙を承知で、五郎殿にお力添えを願いたき儀がございます。」
寿桂様に沓谷衆を紹介されて以来、温めてきた幾つかのアイディアを披露すると、五郎殿は最初こそ感心した様子だったが、途中から私を気遣う表情に変わった。
「…確かに、その策であれば…織田に靡いた三河衆の心を、引き戻す事が出来るやも知れぬ。されど…お主は『銭狂い』に勝る悪名を得る事になるのではないか?」
ああ、やっぱり。
この人は優しい人だ。
「そのお心遣いこそ、何よりの褒美にございます。されど、今や危急存亡の時。御屋形様の評判ならばまだしも…私の評判がどうなろうと、一向に構いませぬ。」
内心の不安を押し殺して微笑むと、五郎殿はそっと私を抱き寄せた。
「…必ず帰る。能う限り早く、三河の加勢に向かう。それゆえ…あまり無理はするな。」
私は五郎殿の背に手を回し、負けじと抱きしめた。
『あなたが夫で良かった』
そんな思いを込めながら。
織田が今川と西国との貿易に割り込んで利益を得ていた――というのは私の想像ですが、実際に似たような事はあったと思われます。
関口刑部少輔が今川の名代として堺を訪れた記録、陸地を遠く離れて航行できない当時の航海技術といった前提を踏まえると、交易ルートに伊勢、尾張が含まれていた可能性が高いからです。
近年、こうした水上の政治的、経済的、軍事的活動にもスポットが当てられつつあるため、注視していきたいと思います。




