#136 陰(かげ)の軍隊
今回の投稿に当たり、文字数を確認した所、二千文字少々だったため、「少ないな…」と思いましたが、よく考えると投稿を始めた頃の文字数も同様でした。
いつの間にか「一話あたりの文字数が書けば書くほど多くなる症候群」に罹患していたようです。
中身が伴っていればまだしも、冗長では読者の皆様に申し訳ございません。
今後は一話ごとの読みやすさも追求して参ります。
(五千文字超のストックをどう整理すべきか、頭を抱えながら)
永禄3年(西暦1560年)末 駿府 沓谷 竜雲寺
「では、厩橋の越後勢は総じて五万に届くかどうか、武蔵、相模への出陣は次の如月(二月)以降…という事になりますね?七緒。」
冷たい陽の光が照らす庭先で片膝を立てる町人風の女――二之丸七緒に、寿桂尼は室内から問いかけた。七緒は地面の冷たさをものともせず、首肯する。
「上野に潜んでいた者が、越後勢の陣中に紛れて調べ上げたとの事。小田原が放った風魔党の物見も、左京大夫殿に同様の報告をしたよしにございますれば、まず間違いないかと。」
七緒の返答に、寿桂尼は浅く頷くと、手元の地図――西は尾張(愛知県)から東は常陸(茨城県)、南は伊豆から北は越後(新潟県)まで――に御世論の駒を置いた。
地図の上には既に白と黒が多数置かれ、富士山を取り囲むように今川、北条、武田の軍勢を表す白い駒が、さらにそれを取り囲むように黒い駒――織田と、上野に進出した越後勢、それに味方する坂東の国衆などを表す――が配置されている。
「服部左京亮殿は?」
尾張、伊勢(三重県)の中間地帯に置かれた白い駒を見据えて、寿桂尼が問う。
「尾張守護殿との謀が露見し、尾張を追われたようにございます。水軍衆は未だ健在なれど…お味方の軍勢が尾張の国境まで出張らぬ限り、当てにならないかと。」
七緒の返答に、寿桂尼は駒を持ち上げると、『鯏浦』と書かれた箇所に置き直そうとして…結局、どこにも置かずに小箱に入れた。
「…それで?三河、遠江、駿河…いずこかに謀反の雑説などはありませんか?」
一瞬、というには少し長い沈黙を挟んで、七緒は口を開いた。
「太守様お討死により尾張に寝返った水野藤四郎(信元)殿が、盛んに岡崎へと遣いを立てられ…この頃、岡崎よりの遣いも、藤四郎殿の屋敷に出入りしているとの事。」
寿桂尼は眉間のシワを一層深くすると、三河、尾張の境界に置いた黒い駒と、すぐ横の『岡崎』に置いた白い駒とに目を走らせた。
「取次は誰が?蔵人佐殿は承知しておいでなのですか?」
それは最終確認だった。
岡崎城の、どのレベルの人間が信長とよしみを通じているのか、の。
「そこまでは、まだ…ただ、岡崎城内ではいつ織田と和睦するか、織田と和睦すれば今川とは如何に取り合うべきか、と…寄ると触るとその話になっている模様。それを蔵人佐殿が咎めない、という事は…ご意向、遠からじとお見受けいたします。」
岡崎城の松平家が、織田に転ぶ可能性は極めて高い。
その危機を認識した寿桂尼は、口を固く引き結んで考え込んだ。
「…いかがいたしましょう。子細を調べ上げ、御屋形様(氏真)に言上いたしましょうか。」
七緒の提言に、寿桂尼は重々しく首を横に振った。
「…まだ蔵人佐殿の存念が定まった訳ではありません。されど…このまま捨て置けば今川の害となるは必定。如何なる手を用いても引き留めねば…。」
何としても、と呟いてから、寿桂尼は顔を上げ、七緒を見据えた。
「年が明けたら、御前(結)をここに招きましょう。…貴方は『調練場』の案内をなさい。」
「!…よろしいのですか。我ら沓谷衆の…忍び働きを御前様のお目に入れても。」
七緒が聞き返すと、寿桂尼は揺るぎない意思を瞳に宿して頷いた。
「今や危急存亡の時、太守様が花蔵殿と家督を争って以来の…手立てを選り好みしてはいられません。」
「…かしこまりました。我ら一同、いつでも御前様を案内出来るよう、支度を整えておきます。」
「よいでしょう。…下がりなさい。」
寿桂尼の許しを得た七緒は深々と一礼すると、風を切る音と共に一瞬で姿を消した。
「…甘い夢でした。孫娘と、のうのうと余生を過ごそうなどと…娘に苦行を強い、孫娘に業を負わせようとするわたくしは…きっと成仏する事は出来ないでしょう…ですが…。」
寿桂尼は一度独白を区切ると、傍らの御世論盤――駒共々、結に贈られた物――に目をやった。
「鬼にも夜叉にもなりましょう、阿鼻にも叫喚にも堕ちましょう。…全ては今川の血を繋ぐために。」
永禄3年暮れの、竜雲寺での一幕だった。
こうして激動の一年――永禄3年は幕を閉じる。
今川は義元という大黒柱を喪い、若き当主、氏真の双肩に重責がのしかかる。
一方、絶体絶命の危機にあった織田は一転して勢いに乗り、尾張一国から飛翔を果たそうと蠢動を始める。
そして両者に挟まれた三河の武士達は、頼るべき大樹の在り処を見定めんと目を凝らしていた。
関東に目を転じれば、獰猛な戦の嵐が吹き荒れる兆しが現れている。
三国峠を越えた越後の竜は厩橋で力を蓄え、武蔵、相模に狙いを定めた。
房総の里見を追い詰めた北条は、一転して守勢に追い込まれ、越後の竜の襲来に備えて守りを固める。
越後の竜と相模の獅子、両雄が激突する日は近い。
そして。
今川、武田、北条――三つの大国が手を結び、共存共栄を目指して来た盟約が、僅かに、しかし確実に…揺らぎ始める。
他でもない、今川義元の死によって。
永禄4年…前年に劣らぬ、或いはそれ以上の大変動が、東国に訪れようとしていた。
沓谷衆は勿論作者の創作ですが、今川家にも諜報、防諜を担う集団は存在したと思われます。
史実において織田の家臣を調略したり、家中の謀反を未然に防いだりする事に成功しているからです。
武田家の歩き巫女はCIA(対外工作)、北条家の風魔忍者はブランデンブルク部隊(戦線後方かく乱)、今川家の沓谷衆はKGB(防諜専門)といったイメージで執筆しています。