#132 【100万PV感謝‼】急募:いきなり大黒柱が消滅した家を立て直す方法
本日(西暦2024年4月24日)、拙作の累計PVが100万を突破しました!
また、評価ポイントも3,000ptを突破しました!
これもひとえに拙作を読んでくださった皆様のお陰です。
継続的投稿の準備は整っておりませんが、感謝の意を込めて、続編を投稿させていただきます。
今後とも拙作をよろしくお願いいたします。
永禄3年(西暦1560年)10月 駿府館
義元殿が亡くなってからもう半年近く経ったのか。
とある昼下がり、自室で布団にくるまっていた私の頭に浮かんだのは、そんな感想だった。
あの日――義元殿の訃報が届いた日から、私達を取り巻く環境は大きく変化した。噂に尾ひれが着いた結果、織田の先鋒隊が駿府までやって来るというデマが市中に飛び交い、一時は本当に大混乱だった。
だが、その混乱も翌日には鎮静化した。何故なら、五郎殿が留守居の侍達と騎乗して市中を練り歩くという軍事パレードを即興で実施し、今川の武威が未だ健在であるとアピールしたからだ。
…いやまあ、それで領民の不安が取り除かれたのかと問われれば、アンケートを取った訳でもないので不明だが、とにかくパレードが実施されてすぐパニックが収まったのは確かだ。
6月になると、義元殿と共に出陣していた諸将の安否や現状も大方判明し、そして何と驚くべき事に、義元殿の首が戻って来た。
織田信長の本拠、清洲に持ち去られていた義元殿の首級を取り返したのは、桶狭間合戦が始まる以前から鳴海城に籠城していた岡部元信殿だった。主君の首と引き換えに、今川の重要拠点である鳴海城と大高城を織田に明け渡した岡部殿の判断に、反発の声はそれなりにあったものの、『豪胆にして機略縦横、忠節見事なり。父上も草葉の陰でお喜びであろう。』との五郎殿の一言で、お咎め無しとなった。
かく言う私も、大恩人とは言え首一つと、お城二つを交換するのは不等価交換なのでは?とドライな感想を抱いたものの、その『首一つ』を求めて織田勢二千が殺到したという事実を思えば、難癖をつけられるはずも無かった。
…五郎殿や侍女達から頑なに引き留められたため、実物を見る事は無かったが。よく考えれば、冷蔵庫も無い上に時間が経過していると来れば、惨たらしい見た目になっている事は火を見るよりも明らかだったので、思い出の中の綺麗な状態でお別れ出来た事は幸運だったのだろう。
ともあれ、首級が戻って来た事で葬儀の見通しも立ち、五郎殿は実の父の葬儀と、従軍した武士達の戦功認定、そして義元殿に代わって家臣達の所領を安堵する代替わり安堵と、怒涛の勢いでやって来る事務作業をこなしながら、信長とのリベンジマッチに向けて軍勢の再編成を進めている。早ければ今月中にも、三河岡崎に残って織田方と交戦中の松平元康殿に援軍を派遣できるだろう、との事だ。
五郎殿の方はとりあえずそれでいいとして。私は私で、精神的にも肉体的にも疲労のたまる日々を送っていた。
身近な所から振り返ると、義元殿の義母、寿桂様と、元康殿の妻、関口瀬名殿の事だ。
まず寿桂様だが…義元殿の討死に落ち込むかと思いきや、そんな事は無かった。…少なくとも、表面上は。
ただ、義元殿の急死によって、『重要性の低い分野から順次五郎殿に権限を移譲する』などと呑気な事を言っていられる状況ではなくなってしまったため、昨年沓谷に隠居して以来控え目だった介入…前向きな言い方をすれば世話焼きがぐっと増えた。これに関しては、厳しい指摘にへこまされる事も少なくないものの、その内容は概ね真っ当である事から、それなりにありがたく思っている。
問題は、松平元康殿が岡崎城に入った事に伴う、瀬名殿とその息子、竹千代殿の立場の変化だった。
あくまでも仮の話だが、もし桶狭間の戦いが今川の勝利で終わり、義元殿以下のお歴々が無事に凱旋していれば、元康殿は従来通り、駿府の自宅を本拠として家族と一緒に生活する事が出来ただろう。
しかし、今川家の『準』御一家衆であり、三河にまとまった戦力を保持する元康殿は、義元殿の死に乗じて東進する織田勢を食い止める中核として適任であり、彼が岡崎城に入城して反攻作戦の先駆けを担う事は、ある意味必然だった。
そうなると、連鎖的に二つの問題が発生する。『岡崎城における元康殿の私生活を誰が面倒見るのか問題』と、『元康殿の自宅の留守を誰が守るのか問題』である。
単純に考えれば、正妻である瀬名殿が岡崎城に行って元康殿を支え、同時に、二人の長男、竹千代殿を名目上の代理人として駿府の自宅で生活させ、その面倒を瀬名殿の実家である関口刑部少輔殿が見る――事が最適解である…の、だが。
「一家離散など、あまりに惨い仕打ち。竹千代殿を岡崎に同道するか、我が夫を駿府に呼び戻すか、いずれかの仕置を賜りとう存じます。何卒、何卒…。」
瀬名殿の嘆願に、私は頭を抱える寸前だった。
現代日本人のメンタルを持つ者としては、瀬名殿の主張に大いに賛成である。夫婦仲が悪いだとか、親子間DVがあるとかでもないし、今年産まれた長女の亀ちゃん共々、親子四人で一緒に仲良く暮らしてもらえるならそれが一番だ。…ぶっちゃけ、岡崎より駿府の方が生活も楽そうだし。
しかしここは戦国時代、人は生まれながらにして平等の権利を有さないし、職業選択の自由も無い。
はっきり言って、瀬名殿には選択の余地が無いのだ。元康殿に代わって今川の最前線を担う事が可能な人材を発掘でもしない限りは。
何より、岡崎から届いた書状を見る限りでは、元康殿も、織田を倒して義元殿の仇を討つ気満々である。
…結局瀬名殿は、渋々ながら亀ちゃんを連れて、岡崎に行く事を了承した。その代わり、関口刑部少輔殿と瀬名殿の妹である紫吹殿、その夫で私の兄、北条氏規が竹千代殿の面倒を見ると約束している。
かくして、瀬名殿は不満の色をありありと滲ませつつ、幼い娘を胸に抱き、輿に揺られながら岡崎へと旅立って行った。
さて、次に私が直面したのは今川家中の使用人にまつわる大混乱である。
桶狭間での大敗に動揺した使用人達が、一斉に離職、退職、転職を開始したのである。その規模たるや、働き方が多様化した令和日本と比較しても、まあ凄まじいものだった。
幸い、私と直接雇用の関係にある人々の中からは、離職者は一人も出なかった。それどころか、多少給与が安くなっても構わないので今後も雇用を継続して欲しい、という嘆願まで貰ってしまった。
侍女頭のお梅は、「常日頃より我ら下々を労って下さる、御前様の慈悲の賜物にございます」と言ってくれたが、正直今でも実感が無い。
だが、それはいい事ばかりでもなかった。今川家中の各屋敷を辞した使用人達から、我が家で雇ってほしいとの要望が殺到したからだ。
当人達の心情を思えば、今川の行く末が怪しくなった以上、より安定した、あるいは将来性のある職場に移った方がいいに決まっている。
しかし私のフトコロは22世紀からやってきた猫型ロボットのポケットみたいに広くはない。唯々諾々と要望を受け入れて全員雇うのは経済的に厳しいし、割り当てる仕事も無限大ではない。
結局、離職した人々は一旦『駿河人足』――瀬名殿が元株主を務める派遣業者――に形式上所属するものとし、その上で、元々の雇用主と個別契約を結ぶという建前で、とりあえず元の鞘に収まる事となったのだった。
…駿河国を飛び出して、他国に走った使用人も少なからずいたのだが。
最後に、駿府を中核とする経済状況の悪化。
三河に戦線が押し戻されて来た事と、各地の領主の討死によって、今川領内の景気は明らかにマイナスの様相を呈し、私もいくつかの商会を畳まざるを得なかった。
経済顧問の友野屋殿は、見通しの暗い商会を可能な限り早く解散させるべきだと迫ってきたが、私はそれに幾つかの条件付きで応じた。
第一に、解散させる商会の株主一同を集めた場所で私自身が方針を説明し、一時的にでも全員の納得を取り付ける事。
第二に、解散は今すぐではなく今年の12月末とし、取引先や従業員が来年以降の見通しを立てられるよう半年の猶予を持たせる事。
他にも細かい点はあったが、以上の二点を友野屋殿に受け入れてもらえた事、そして解散させる株主一同の同意を得られた事は本当に幸運だった。
…一応、先行きの怪しい商会を駿河国最大の金融業者である『明王屋』の融資で支える、という選択肢も無いでは無かったが、それは友野屋殿の反対で除外された。
「下り調子の店に貸し付けを行っても、返済の見通しが立たず、共倒れになるのが目に見えております。半年の猶予があるだけ温情というものにございましょう。…御前様には辛い事と存じますが…。」
友野屋殿の正論、そして同情に私の決心は揺らぎかけたが、商会のリストラという当初の方針を変える事は無かった。友野屋殿はお金儲けに関して妥協しない反面、得意先――私を含めて――をだまして自分だけ儲けようと考える人じゃない、と信じていたからだ。
かくして、製薬会社『友野調薬』や軽食サービス『茶店一揆』といった例外を除き、少なくない商会が――私が関与していない店も含めて――旗を降ろす事となった。
当然、私の収入も目減りしたが…生活水準を引き下げる必要性に迫られるほどでは無かったし、何より、猶予期間が功を奏してか、年末年始にかけて大きな混乱が見られなかった事も個人的には好感触だった。
こうして、今川領内の景況不安に関する問題は、下降曲線には入ったものの、一応の軟着陸を見たのである。
そして再び、現在。永禄3年10月、ある雨の日の昼下がり。
私は自室で横になり、布団にくるまっている。というのも、五郎殿や侍女達に体調を心配されたためだ。
やらなきゃいけない事が後から後からやって来るので、前世の無休連続勤務に似たものを感じながら粛々と業務をこなしていたのだが、ある時ちょっとふらついたのを目撃されてしまい、『一日ぐらいしっかり休め(意訳)』と半強制的に休まされてしまった。侍女が代わりばんこで見張りに来るため、気になっている仕事には一切手を付けられない状況である。
…心配してくれる人がいる現状を、とても嬉しく思っているのも事実だが。
実際、気づかない内に体に疲労が溜まっていたらしく、午前一杯は寝て過ごしてしまった。
で、ついさっき目を覚ました所だが…今度はヒマである。
スマホがあればダラダラとネットサーフィンでもする所だが…当然そんな物は無い。
夕食までの時間を何に使おうか…ぼんやり考えていた私の脳内で、閃くものがあった。
「御前様?駄目だぁ、寝とらんと…。」
起き上がる私を気遣う侍女…お栗に構わず、紙と筆が載った愛用の文机を引き寄せる。
「心配無用よ、お栗。これは務めに関わる事ではないの。ただ少し…己の行く末について思いを巡らせてみようと思って。」
「?はぁ…。」
紙を広げて墨をすり、筆先を浸す。
最初に書くべきは――たどり着くべきゴール。
『一六一五、大阪の陣』
私は紙の左端に、そう書いた。
これから書くのは行程表だ。私と五郎殿、そして――日本中の人々が天下泰平を迎えるための。
義元の討死に伴う今川領内の混乱は、想像による所が大きいのですが、本能寺の変直後の安土城城下町が大変な混乱に陥ったという史実を鑑みるに、相応の物があったと思われます。
義元の首級が今川に戻った経緯については、織田と今川で主張に若干のずれがありますが、領民に義元の首を晒して存分に武威をアピールした信長が、二城と引き換えに返却する事は理にかなっていると思い、上記の内容になりました。
なお、主人公は戦国時代の終結=徳川一強体制の確立を無条件に良い事だと思っていますが、これは主人公が『平和な』日本で前世を終えたためです。
今後、戦国の裏表を見聞きする中で、価値観が変わっていく可能性も存在しています。